2023年3月22日水曜日

2023年3月22日の聖句

私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。(エゼキエル34:16)
羊飼いは家に帰り、友だちや近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うであろう。(ルカ15:6)

今日の新約聖書の主イエスの御言葉は、100匹の羊を持つ羊飼いがいて、その内の一匹が失われたら残りの99匹を野に残して、いなくなった一匹を探しに行くだろう、というたとえ話の最後の場面です。
いい話だなと思いながらも、実際的に考えるとちょっとつまずく話でもあります。野に残された99匹はどうなってしまうのか?子ども向けの聖書絵本とか紙芝居とかを見ると、羊飼いは何人かいて残りの99匹は仲間に託して一匹を探しに行くような絵が描かれているものがありました。確かにそういう話だと思えば安心できます。ところが、主イエスご自身はそのようなことをひと言もおっしゃっていません。主イエスはただ「99匹を荒れ野に残して」と言っただけなのです。むしろ、私たちに「え?」と思わせることがこの話の狙いなのではないかとすら思います。
聖書は失われたものを情熱的に捜し出す神様のお姿を描き続けています。創世記の最初の話でも、主なる神様はエデンで蛇に唆されて神に食べるなと命じられた実を食べてしまった二人を「どこにいるのか」と言って探しておられました。今日の旧約でも「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける」と言われています。神様が失われた者を、つまりアダムやエバを探しているのは、叱責し、断罪するためではありません。散らされた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、病めるものを力づけるためです。
100匹の羊のたとえ話は、よく読んでみると、99匹を荒れ野に残したということよりももっと異常なことが書かれています。「羊飼いは家に帰り、友だちや近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」ユダヤ人にとっての羊はペットではなく家畜であり、財産です。恐らく普通の羊飼いはたった一匹見失っても諦めていたと思います。惜しいでしょうが、家畜の一匹がいなくなっても生活に支障はないからです。むしろ99匹の無事の方が大事です。しかし主イエスという羊飼いはそうではない。たった一匹が大事だし、見つかったら嬉しいのです。この譬えで本当に以上なのは見つけたときの羊飼いの喜びようです。明らかに喜びすぎです。しかし、それだけ一匹が宝物なのです。
神様は、ご自身の宝である私たちを探し、抱き、癒やし、包んでくださるお方です。私たちへの神の情熱が、私に命を与えるのです。

2024年4月24日の聖句

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