神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」(出エジプト記3:14)
神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。(ローマ8:31)
主なる神様は、モーセにご自分のお名前を「私はいる、という者である」と自己紹介なさいました。「私はいる、という者である」というのは不思議なお名前です。神様は何かの概念とか神秘的な体験とか、崇高な教えではなく、ご自身おられるお方です。モーセにあるいはアブラハムやダビデやシモン・ペトロや私たちに、出会ってくださるお方です。「私はいる、という者である」とおっしゃって。
モーセが神様と出会ったのは、ミデヤンにある山、ホレブでした。モーセはエジプトで生まれ育ちました。ひょんなことからエジプト人の王女に育てられました。しかし成人してからエジプト人が同胞ヘブライ人を虐げているのを見て彼を殺してしまった。そんなことから彼はエジプトを出奔して荒れ野に逃れ、ミデヤンの地にたどり着きました。彼は羊飼いになった。それから長い年月が経ち、神がモーセと出会ってくださったのです。
ヘブライ人ではあってもエジプトの王女に育てられたモーセがどのように主なる神を信じていたのか、あるいはそもそも信じていなかったのかはよく分かりません。実際、ミデヤンで生まれたモーセの息子は割礼を受けていませんでした。モーセ自身、殆ど神様のことを知らなかったのかも知れません。そんなモーセに、主なる神様が出会ってくださったのです。
「私はいる、という者である」という神様のお名前は、私はお前に出会う者だ、という響きを持ちます。神様は私たちに出会ってくださる方。どこかにある崇高な概念ではなく、私たちのところへ来られ、出会おうとされるお方です。神は、生ける神です。このお方は私たちにも出会おうとされます。毎日、新しく。
そしてそのお方が私たちの味方でいてくださる。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」私たちと出会い、私たちと共にいてくださる方は、罪と悪の力から私たちを守り、救ってくださる。モーセを遣わしてエジプトの国、奴隷の地から導き出してくださった方は、私たちを救ってくださいます。キリストの力強い御手によって、私たちは今日も守られています。
神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。(ローマ8:31)
主なる神様は、モーセにご自分のお名前を「私はいる、という者である」と自己紹介なさいました。「私はいる、という者である」というのは不思議なお名前です。神様は何かの概念とか神秘的な体験とか、崇高な教えではなく、ご自身おられるお方です。モーセにあるいはアブラハムやダビデやシモン・ペトロや私たちに、出会ってくださるお方です。「私はいる、という者である」とおっしゃって。
モーセが神様と出会ったのは、ミデヤンにある山、ホレブでした。モーセはエジプトで生まれ育ちました。ひょんなことからエジプト人の王女に育てられました。しかし成人してからエジプト人が同胞ヘブライ人を虐げているのを見て彼を殺してしまった。そんなことから彼はエジプトを出奔して荒れ野に逃れ、ミデヤンの地にたどり着きました。彼は羊飼いになった。それから長い年月が経ち、神がモーセと出会ってくださったのです。
ヘブライ人ではあってもエジプトの王女に育てられたモーセがどのように主なる神を信じていたのか、あるいはそもそも信じていなかったのかはよく分かりません。実際、ミデヤンで生まれたモーセの息子は割礼を受けていませんでした。モーセ自身、殆ど神様のことを知らなかったのかも知れません。そんなモーセに、主なる神様が出会ってくださったのです。
「私はいる、という者である」という神様のお名前は、私はお前に出会う者だ、という響きを持ちます。神様は私たちに出会ってくださる方。どこかにある崇高な概念ではなく、私たちのところへ来られ、出会おうとされるお方です。神は、生ける神です。このお方は私たちにも出会おうとされます。毎日、新しく。
そしてそのお方が私たちの味方でいてくださる。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」私たちと出会い、私たちと共にいてくださる方は、罪と悪の力から私たちを守り、救ってくださる。モーセを遣わしてエジプトの国、奴隷の地から導き出してくださった方は、私たちを救ってくださいます。キリストの力強い御手によって、私たちは今日も守られています。