2024年2月12日月曜日

2024年2月12日の聖句

町に最善のものを求め、その町のために主に祈りなさい。町が平穏であるとき、あなたにも幸いがあるのだから。(エレミヤ29:7)
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。(マタイ21:10)

私たちは祈ります。私たちの生きるこの町のために。そして、この国のために。この国の平穏は私たち自身の幸いでもある。それは本当にその通りです。
しかし改めて思います。この町やこの国の平穏とは一体何か、ということを。一見平穏に見えても、実は平穏でも何でもないということも起こりえます。誰かに無理を強いたり、誰かにいやな思いをさせることでもって大多数の「平穏」が守られるということもあります。そのようなものが神さまの望んでおられる平穏でないことは明らかです。しかし、少数者にとっても優しい平穏や平和が実現するのは簡単なことではありません。少数者は多くの場合、これまで我慢を強いられてきた人です。必然的に、大多数にとっては少しばかり居心地が悪くなるということも含む。これまでの当たり前が通用しなくなるからです。
そんなことを考えたときに、今日の新約の御言葉はとても示唆に富んでいます。
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
主イエスが来られたとき、都は騒ぎになった。これは一体どういう人なのだ、と。言ってみれば主イエスの到来が人々の平穏を崩した。主イエスという存在そのものが一つの問いになった。主は、私たちのあり方をもう一度考えさせる神からの疑問符です。
私たちは、キリストが求めておられる平和を作り出す人として生きているでしょうか。キリストはそのために、御自分を十字架に献げてくださいました。キリストの血によって私たちに平和が与えられた。この平和の主が、私たちのところに来ておられる。キリストにしか、まことの平和は生み出せません。そして、キリストが来られたからには、まことの平和は確かに打ち立てられるのです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...