2024年2月27日火曜日

2024年2月27日の聖句

わが過ちから私を洗い、わが罪から私をきよめてください。(詩編51:4)
(イエスの言葉)このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ15:7)

主イエス・キリストの福音の光の中で、私たちは神の子にしていただいた自分の姿を知ります。神に愛していただいている私、神の子にしていただいた私。これこそ、本当に私らしい私の姿なのだと、私たちは知らされる。そして同時に、そうであるからこそ、私らしくない私であったことを知ります。自分のあるがままの姿がどんなにキリストから遠く隔たっているかを。
今日の旧約の御言葉は、ダビデ王の悔い改めの言葉です。ダビデは自分の臣下ウリヤの妻であったバト・シェバを自分のものとし、ウリヤを戦地で殺した男です。しかも王として当然のことをしたとしか考えていなかった。そんなダビデのもとに預言者ナタンが現れて、彼は自分のしたことに気付かされる。ウリヤにも、バト・シェバにも、自分がどんなに罪深いことをしたのか。そして、神さまに対して、自分がどんなに罪深い存在なのか。そのことをダビデは骨身に染みて知らされました。「わが過ちから私を洗い、わが罪から私をきよめてください。」ダビデには、もう、そう祈るしかなかったのです。
罪人と聞くと、聖書を読み慣れている者には、却ってもとの意味とは違うように聞こえてしまうところがあるようにも思います。ちゃんと反省している人、不十分ではあっても神様のところに帰ろうとしている人、神さまの前にへりくだっている人・・・そのような印象さえあるのではないでしょうか。しかし、罪人は罪人です。ダビデがそうであったように、どんなにひどいことをしてもそれを自分の権利だと言ってはばからず、他人に痛みを与えても自分は被害者のような顔をしている。罪人というのはそういう存在です。この私こそが、そういう罪人なのです。私もダビデと一緒に祈ることしかできない。「わが過ちから私を洗い、わが罪から私をきよめてください。」
私たちはキリストの憐れみにすがり、約束の言葉を信じるだけです。「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

2024年12月21日の聖句

私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3) (マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44) エリサベトは既に老齢でし...