平和のための助言には喜びがある。(箴言12:20)
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。(ローマ12:18)
今日の新約聖書の御言葉は「できれば」と始まっています。聖書の言葉としては意外な感じを受けるのではないでしょうか。「できれば」などという留保をつけないで、「あなたがたは、すべて人と平和に過ごしなさい」と言い切った方が聖書らしいような気がします。もう一つ、意外と言えば、ここには「せめてあなたがたは」と、「せめて」という言葉もあります。これも聖書っぽくないような気がしないでしょうか。
聖書は、私たちの現実を本当に深く知っているのだと思います。私たちがどんなに簡単に復讐心に燃え、独善的であり、平和とほど遠いのか。そんなこの世界の現実を悲しみながら、「せめてあなたがたは」と言っているのだと思います。しかしなお、私たちは自分の罪の現実をまざまざと見せつけられる毎日です。平和ということにおいて、本当に私たちの抱えている現実は厳しい。だからこそ「できれば」と言わないわけには行かない私たちです。
しかし、なお、私たちは同時に知っています。キリストが私たちの平和になってくださったことを。そして、神は私たちの心に平和を求める願いを与えてくださっていることを。だから「平和のための助言には喜びがある」のです。誰もがその喜びを知っている。だから、誰もが平和を求めている。キリストが私たちの平和として、平和の福音として、私たちの間に来てくださったから、私たちには希望があります。
神さまにしか打ち立てることのできない平和を求めて、へりくだって祈りを捧げる一日でありたいと願います。
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。(ローマ12:18)
今日の新約聖書の御言葉は「できれば」と始まっています。聖書の言葉としては意外な感じを受けるのではないでしょうか。「できれば」などという留保をつけないで、「あなたがたは、すべて人と平和に過ごしなさい」と言い切った方が聖書らしいような気がします。もう一つ、意外と言えば、ここには「せめてあなたがたは」と、「せめて」という言葉もあります。これも聖書っぽくないような気がしないでしょうか。
聖書は、私たちの現実を本当に深く知っているのだと思います。私たちがどんなに簡単に復讐心に燃え、独善的であり、平和とほど遠いのか。そんなこの世界の現実を悲しみながら、「せめてあなたがたは」と言っているのだと思います。しかしなお、私たちは自分の罪の現実をまざまざと見せつけられる毎日です。平和ということにおいて、本当に私たちの抱えている現実は厳しい。だからこそ「できれば」と言わないわけには行かない私たちです。
しかし、なお、私たちは同時に知っています。キリストが私たちの平和になってくださったことを。そして、神は私たちの心に平和を求める願いを与えてくださっていることを。だから「平和のための助言には喜びがある」のです。誰もがその喜びを知っている。だから、誰もが平和を求めている。キリストが私たちの平和として、平和の福音として、私たちの間に来てくださったから、私たちには希望があります。
神さまにしか打ち立てることのできない平和を求めて、へりくだって祈りを捧げる一日でありたいと願います。