2024年6月8日土曜日

2024年6月8日の聖句

父と母が私を見捨てようとも、主は私を迎え入れてくださいます。(詩編27:10)
(パウロの手紙)そして、私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあったのに、あなたがたは蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました。(ガラテヤ4:14)

パウロには何かの持病か障害かがあったようです。「私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあった」とパウロ自身が書いています。それが何かは詳しく書かれていないので分かりません。ただパウロはそのために人から差別される経験をしていたに違いない。世間では自分の肉体の弱さのために蔑まれる経験をしていたのでしょう。それなのに、教会の人々は自分を忌み嫌わず、むしろ主キリストご自身のように自分を受け入れてくれた、と言っています。
この御言葉と合わせて与えられている今日の旧約では「父と母が私を見捨てようとも」と言っています。私は自分が親になってつくづく思いますが、親の愛なんて本当に小さいし、限りあるし、無償でも何でもありません。それでも、我が子はかわいいし、周りの人がどんなに蔑んでも一緒になって蔑むということは考えられないことです。ただ、それでもやはり親なんて所詮は一人の人間、しかも罪人に過ぎない。その愛は「愛」と呼ぶにはほど遠い現実を抱えています。「父と母が私を見捨てる」というのは、現に起こっている現実です。
しかしそれでも、主なる神は私を迎え入れてくださいます。そして、その主の愛に生かされる教会は、自分の抱える躓きをも吹き飛ばすようにして、キリストご自身のように私を受け入れてくれる。神の愛を映し出す愛がここにある。パウロは教会で現に起きているその現実を喜んでいるし、そして、それは私たちの間でも起こっていることです。神の愛が教会に花開いています。

2024年7月27日の聖句

貧しい人が(主に)永遠に忘れられ、苦しむ人の希望が滅びることは決してない。(詩編9:19) イエスは言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20) 「貧しい人々は、幸いである」と主イエス・キリストは宣言なさいます。キリスト以外の一体誰にそ...