2024年8月7日水曜日

2024年8月7日の聖句

主を畏れることは知恵へと導く諭し。(箴言15:33)
世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。(1コリント1:21)

知恵ある人の言葉は、本当に素晴らしいものだと思います。今日の新約聖書はコリントの信徒への手紙。ギリシアにある町コリントの教会へ送られた手紙です。ギリシアは哲学に代表される知恵の言葉が積み重ねられた国家でした。「哲学」と翻訳されている言葉は、もともとは「知恵を愛する」という字を書きます。コリントの人々も知恵を愛し、思索を深め、この世界や人間についての素晴らしい哲学を発展させました。その実りは今日に至るまで残っています。2000年以上の時を経て響き続ける知恵の言葉。
しかし、そのような素晴らしい知恵の実りであっても、できないことがある。「世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかった」。人間は、その知恵の粋を集めても神を知るには至らなかった。知恵を極めれば神を知ることができる、というのでない。神は「宣教という愚かな手段」によってご自分を示してくださいました。宣教。知恵に足りなく、不完全で、甚だ欠陥だらけな私たちの言葉によって、神はご自分を現すことを良しとなさったのです。
宣教の始まりは、そもそも、神の御子が一人の女から生まれ、私たちの間に肉を取って宿ってくださったという事実から始まります。私たちと同じ弱い体をもって生き、十字架にかけられて殺されたという出来事から宣教が始まりました。神ご自身が私たちのために愚かな手段をとってくださった。私たちのために独り子を十字架にかけたのです。
私たちは拙い言葉で、しかし心を込めて語ります。このお方こそ、私たちの救い主。私たちのための神の子。神の愛のしるし、と。どんなに言葉を尽くしても足りない。しかし、精一杯に福音を語ります。主イエス・キリストを仰ぎ、キリストを信じ、キリストの御前に私たちは生きていきます。私たちは愚かになって、ただ神が見せてくださる十字架の光の中で神を信じて生きていきましょう。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...