2024年8月9日金曜日

2024年8月9日の聖句

死に捕らえられた人を助け出せ。殺戮を前におびえる人への助けを惜しむなら、たとえ「知らなかった」と言っても、心を見極める方はそれを調べる。(箴言24:11~12)
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(1コリント12:26)

死に捕らえられた人。殺戮を前におびえる人。この世界には、そのような境遇に置かれた人がたくさんいます。あまりにも悲惨な現実を前に、私たちは自分の無力さを覚えないわけにはいかないし、一体自分に何ができるのかと途方に暮れます。しかし同時に思います。現時点で自分の手の届かない事柄について思いをはせることや、自分と関わりのない方を捕らえる死について心を痛めることはとても大切なことで、尊い思いです。しかし同時に、自分の手の届かない方については一度神にお委ねして、この人たちのために真剣に祈ることがなおのこと大切です。そして、私たちは今自分が遣わされているところで何をするのかということを、さらにはっきりと問われているのではないでしょうか。
今日の新約ではこのように言われています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」この「部分」というのは、体の部分という意味です。私たちは一つのキリストの体であって、一人ひとりはその部分だと言っている。ある人はキリストのお体の手かもしれないし、ある人は足かもしれない。いろいろな個性があり、強い人も弱い人もいる。しかし体がそうであるように、どの部分であっても「必要ない」ということはあり得ない。それどころか、弱く見える部分がかえって必要。そして、一部の苦しみは体全体の苦しみだし、一部の誉れは体全体の喜び。そのように言います。
つまり、一つの体としてつなげられているという事実が、死に捕らえられ、殺戮を前におびえる人を助けるという私たちの生き方への動機だと言うのです。隣人の苦しみや悲しみを前にして、私たちは同じキリストのお体の一員として共に生きています。私たちの間に主イエス・キリストの愛と憐れみが実る私たち教会の歩みでありますように。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...