息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。(詩編150:6)
私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように。(ユダの手紙25)
今日私たちに与えられているユダの手紙では、神さまのことを「私たちの救い主である唯一の神」とお呼びしています。そう、神さまは私たちの主であり私たちの唯一の救い主です。神さまを「私たちの唯一の救い主」とお呼びすることができるというのは本当に嬉しいことです。
もしも神さまが私たちへの怒りに満ちた神だとか、あるいは逆に私たちに無関心な神だったら、どうでしょうか。私たちにはどこにも救いがありません。しかしまことの神さまはそのようなお方ではない。このお方は私たちの救い主である唯一の神!なんと素晴らしい賛美の言葉でしょう。
神への賛美の言葉として「私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が」ありますようにと言っているということにも心をひかれますただ単に「神に栄光、威厳、力、権威がありますように」というだけなら、もしかしたら賛美としては当然の内容だとも言えるかもしれません。しかしここではそれだけではなくて、それらのものが「私たちの主イエス・キリストを通して」神にありますように、と言っている。キリストを通して、私たちは神を賛美することができる。キリストを通してというのは、キリストのしてくださった御業の故に、ということでしょう。キリストによって示された神の恵みのゆえに、ということでしょう。私たちはキリストを通して神を賛美する。
その賛美が「世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなく」神にありますようにと言うのです。天地が造られる前、神さまだけがおられた神さまの時間。その永遠の時に神が抱いておられた栄光が、世々限りなく、私たちの命や営みを超えて、神ご自身のものでありますように。
この果てしない神を賛美する言葉が、今日の私たちの言葉でありますように。
私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように。(ユダの手紙25)
今日私たちに与えられているユダの手紙では、神さまのことを「私たちの救い主である唯一の神」とお呼びしています。そう、神さまは私たちの主であり私たちの唯一の救い主です。神さまを「私たちの唯一の救い主」とお呼びすることができるというのは本当に嬉しいことです。
もしも神さまが私たちへの怒りに満ちた神だとか、あるいは逆に私たちに無関心な神だったら、どうでしょうか。私たちにはどこにも救いがありません。しかしまことの神さまはそのようなお方ではない。このお方は私たちの救い主である唯一の神!なんと素晴らしい賛美の言葉でしょう。
神への賛美の言葉として「私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が」ありますようにと言っているということにも心をひかれますただ単に「神に栄光、威厳、力、権威がありますように」というだけなら、もしかしたら賛美としては当然の内容だとも言えるかもしれません。しかしここではそれだけではなくて、それらのものが「私たちの主イエス・キリストを通して」神にありますように、と言っている。キリストを通して、私たちは神を賛美することができる。キリストを通してというのは、キリストのしてくださった御業の故に、ということでしょう。キリストによって示された神の恵みのゆえに、ということでしょう。私たちはキリストを通して神を賛美する。
その賛美が「世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなく」神にありますようにと言うのです。天地が造られる前、神さまだけがおられた神さまの時間。その永遠の時に神が抱いておられた栄光が、世々限りなく、私たちの命や営みを超えて、神ご自身のものでありますように。
この果てしない神を賛美する言葉が、今日の私たちの言葉でありますように。