2024年11月25日月曜日

2024年11月25日の聖句

主があなたを道で導かれたときに、あなたが、あなたの神である主を捨てたので、このことを身に招いたのではないのか。(エレミヤ2:17)
(パウロの手紙)きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)

私たちは現代を生きる「時代の子」として、素朴に思います。神さまを信じるのも信じない者、それは個々人の自由だ、と。確かに一方ではその通りで、無理矢理信じさせるということは誰にもできません。無理強いされたところに愛は生まれないし、信じるというのはそういうことではないと思います。
しかし他方で私は思います。神を信じない自由って、一体なんでしょうか。それは本当に自由なのでしょうか?本当に存在しているのは、神を信じる自由だけなのではないでしょうか。
「きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。」神が私たちを自由にしてくださいました。私たちは神の憐れみによって、神を信じる自由、神を愛する自由をいただいています。この自由を罪の機会にしてはならない。神を蔑ろにし、神を無視して自分の肉を満足させる機会としてはならない、と言います。
自分を満足させ、貪欲を満たし、自分のために生きること。そういうことを私たちは自由と思い込んでいるが、私たちはそれとは違う自由に招かれています。神を信じ、キリストに従って生きる自由です。本当に自由な生き方を私たちはすることができる。キリストが私たちを自由にしてくださった。神を信じる自由をくださったのです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...