なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。(サムエル下12:9)
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。(ローマ7:24~25)
今日の旧約聖書は、ダビデがウリヤという家臣の部下から、彼の妻バト・シェバを奪い取ったときに語られた言葉です。ダビデは午睡から醒めて散歩をしていたとき、水浴びをしているバト・シェバを見て恋に落ち、自分の家臣の妻であることを知りながら床を共にしました。その後いろいろなことがありましたが、結局、ダビデはウリヤをわざと戦地で危険なところに放置し、戦死させました。ダビデが殺したのです。聖書は「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」と伝えています。
現代は、自分の欲望に正直であることがよしとされる社会だと思います。自分のしたいことを我慢せずにすることが人間らしい生き方だと受け止められています。倫理や道徳などは表面的な建て前であって、その裏にある本音こそが人間味ある生き方だ、と多くの人が考えているのではないでしょうか。
その意味では、ダビデは自分の欲望に正直でした。そして、王としてできることをした結果、邪魔者のウリヤを始末することさえできました。ところが、そういう振る舞いを神は悪とご覧になった。神はダビデの振る舞いを罪とお定めになった。それこそが私たちにとって大事なことです。
使徒パウロは罪に捕らわれた自分を惨めだといいます。そう、私たちは惨めなのです。人間らしく生きていると思い込みながら、私たちは人間らしさを失い、神に造られたものとしての尊さを自ら踏みにじっています。私たちは、惨めです。この惨めな私たちを一体誰が救ってくれるのか?
ただ主イエス・キリストだけが私たちを救ってくださる。それ以外にはない。ただこのお方だけに私たちの救いはかかっている。聖書は私たちにそう語りかけます。
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。(ローマ7:24~25)
今日の旧約聖書は、ダビデがウリヤという家臣の部下から、彼の妻バト・シェバを奪い取ったときに語られた言葉です。ダビデは午睡から醒めて散歩をしていたとき、水浴びをしているバト・シェバを見て恋に落ち、自分の家臣の妻であることを知りながら床を共にしました。その後いろいろなことがありましたが、結局、ダビデはウリヤをわざと戦地で危険なところに放置し、戦死させました。ダビデが殺したのです。聖書は「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」と伝えています。
現代は、自分の欲望に正直であることがよしとされる社会だと思います。自分のしたいことを我慢せずにすることが人間らしい生き方だと受け止められています。倫理や道徳などは表面的な建て前であって、その裏にある本音こそが人間味ある生き方だ、と多くの人が考えているのではないでしょうか。
その意味では、ダビデは自分の欲望に正直でした。そして、王としてできることをした結果、邪魔者のウリヤを始末することさえできました。ところが、そういう振る舞いを神は悪とご覧になった。神はダビデの振る舞いを罪とお定めになった。それこそが私たちにとって大事なことです。
使徒パウロは罪に捕らわれた自分を惨めだといいます。そう、私たちは惨めなのです。人間らしく生きていると思い込みながら、私たちは人間らしさを失い、神に造られたものとしての尊さを自ら踏みにじっています。私たちは、惨めです。この惨めな私たちを一体誰が救ってくれるのか?
ただ主イエス・キリストだけが私たちを救ってくださる。それ以外にはない。ただこのお方だけに私たちの救いはかかっている。聖書は私たちにそう語りかけます。