主よ、虐げられた人が辱められることのないようにしてください。(詩編74:21)
カナン人の女はイエスの前にひれ伏し「主よ、私をお助けください」と言った。イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」そこで、イエスはお答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒やされた。(マタイ15:25~28)
主イエスはおっしゃいます。「女よ、あなたの信仰は立派だ。」主イエスのお喜びが伝わってくる言葉です。
最初、主は「主よ、お助けください」と願うこの人を退けておられます。「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない。」この「子ども」はユダヤ人のこと、「小犬」は異邦人のことを意味しています。「犬」は私たちにとってはかわいくて愛すべき動物ですが、ユダヤ人にとってはそうではありません。律法によって汚れた動物に分類されます。「小犬」と誰かを呼ぶなら、2000年前のユダヤの文脈では「あなたは祝福の外」という意味になります。主イエスの苦しい気持ちが伝わってきます。主イエスは神の民であるユダヤ人のところへ行き、熱心に信仰の道を説きました。ところが全然耳を傾けてくれない。誰も悔い改めて神の御許に帰ろうとしない。「私にはしなければならないことがあるのだ、まず、失われているユダヤの子どもたちのところに行かなくちゃならないのだ」という、主の悲痛な言葉です。
ところがこの女のユーモアとも言える言葉が主イエスの苦しみを癒やしました。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」その通りです、私は小犬です。神の祝福の外にいる人間です。あなたの前に堂々と立つことはできません、何かをお願いできるような者でもありません。しかし、そんな小犬も食卓から落ちるパン屑を頂くではありませんか。そのパン屑をください。主イエスはこの信仰をお喜びになったのです。
私たちは堂々と神様に祈ることのできるような者ではありません。神様から遠く隔たった、祝福の遙かかなたにいるような者です。主よ、憐れんでください。あなたの食卓のパン屑にあずからせてください。私たちは神さまに対して自分の権利を主張するのではなく、私たちはただ憐れみを願うだけ。そこに私たちの信仰が始まります。
カナン人の女はイエスの前にひれ伏し「主よ、私をお助けください」と言った。イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」そこで、イエスはお答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒やされた。(マタイ15:25~28)
主イエスはおっしゃいます。「女よ、あなたの信仰は立派だ。」主イエスのお喜びが伝わってくる言葉です。
最初、主は「主よ、お助けください」と願うこの人を退けておられます。「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない。」この「子ども」はユダヤ人のこと、「小犬」は異邦人のことを意味しています。「犬」は私たちにとってはかわいくて愛すべき動物ですが、ユダヤ人にとってはそうではありません。律法によって汚れた動物に分類されます。「小犬」と誰かを呼ぶなら、2000年前のユダヤの文脈では「あなたは祝福の外」という意味になります。主イエスの苦しい気持ちが伝わってきます。主イエスは神の民であるユダヤ人のところへ行き、熱心に信仰の道を説きました。ところが全然耳を傾けてくれない。誰も悔い改めて神の御許に帰ろうとしない。「私にはしなければならないことがあるのだ、まず、失われているユダヤの子どもたちのところに行かなくちゃならないのだ」という、主の悲痛な言葉です。
ところがこの女のユーモアとも言える言葉が主イエスの苦しみを癒やしました。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」その通りです、私は小犬です。神の祝福の外にいる人間です。あなたの前に堂々と立つことはできません、何かをお願いできるような者でもありません。しかし、そんな小犬も食卓から落ちるパン屑を頂くではありませんか。そのパン屑をください。主イエスはこの信仰をお喜びになったのです。
私たちは堂々と神様に祈ることのできるような者ではありません。神様から遠く隔たった、祝福の遙かかなたにいるような者です。主よ、憐れんでください。あなたの食卓のパン屑にあずからせてください。私たちは神さまに対して自分の権利を主張するのではなく、私たちはただ憐れみを願うだけ。そこに私たちの信仰が始まります。