私の足取りをあなたの仰せで
確かなものにしてください。
どのような悪にも私を支配させないでください。(詩編119:133)
神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(1ヨハネ2:6)
「あなたの仰せ」、すなわち神さまの御言葉が私たちの足取りを確かにしてくださいます。神の言葉に聞き従うことが、私たちが確かなものとして生きることにほかならない、とこの詩編作者は言っています。
旧約聖書は(本当は新約聖書も同じですが)、とても具体的な信仰生活というものを考えていると思います。私たちが実際の生活で神さまを信じ、従って生きる。例えばそれは十戒の言葉に従う、ということを意味します。主の他の何ものも神とせず、人間が造った物を拝まず、神の御名をみだりに唱えず、安息日を覚えて生活リズムを刻む。そして父と母を敬い、殺さず、姦淫せず、盗まず、偽りの証言をせず、隣人の家を貪らない。どれもこれもとても具体的です。具体的な毎日の生活の中で神を信じ、神さまに従う。そうすることで私たちの足取りは確かになるのだ、と言っています。
そういうことを言われると、すぐに私たちは「自分には無理だ」と、言い訳めいた諦めの言葉を口にしたくなってしまいます。そんな私たちに与えられているのが、今朝の新約の御言葉です。今日の箇所は2:6ですが、少し文脈を遡ってみてみるとこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」聖書は、私たちが罪人であることを私たち以上に知っています。その上で言います。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」神さまに従う者のために、キリスト御自らが弁護者になってくださいます。だから、聖書は言います。「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」
これが、今日私たちに与えられた神の言葉なのです。
確かなものにしてください。
どのような悪にも私を支配させないでください。(詩編119:133)
神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(1ヨハネ2:6)
「あなたの仰せ」、すなわち神さまの御言葉が私たちの足取りを確かにしてくださいます。神の言葉に聞き従うことが、私たちが確かなものとして生きることにほかならない、とこの詩編作者は言っています。
旧約聖書は(本当は新約聖書も同じですが)、とても具体的な信仰生活というものを考えていると思います。私たちが実際の生活で神さまを信じ、従って生きる。例えばそれは十戒の言葉に従う、ということを意味します。主の他の何ものも神とせず、人間が造った物を拝まず、神の御名をみだりに唱えず、安息日を覚えて生活リズムを刻む。そして父と母を敬い、殺さず、姦淫せず、盗まず、偽りの証言をせず、隣人の家を貪らない。どれもこれもとても具体的です。具体的な毎日の生活の中で神を信じ、神さまに従う。そうすることで私たちの足取りは確かになるのだ、と言っています。
そういうことを言われると、すぐに私たちは「自分には無理だ」と、言い訳めいた諦めの言葉を口にしたくなってしまいます。そんな私たちに与えられているのが、今朝の新約の御言葉です。今日の箇所は2:6ですが、少し文脈を遡ってみてみるとこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」聖書は、私たちが罪人であることを私たち以上に知っています。その上で言います。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」神さまに従う者のために、キリスト御自らが弁護者になってくださいます。だから、聖書は言います。「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」
これが、今日私たちに与えられた神の言葉なのです。