2026年5月31日日曜日

2026年5月31日の聖句

今週の聖句:
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にありますように。(2コリント13:13)

今日の聖句:
神よ、あなたの計らいは、私にはいかに貴いことか。
その数のいかに多いことか。(詩編139:17)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。(ローマ11:33)

神さまの御心をどうして私たちが知りえましょうか。天地をお造りになった方、御心によってそれを保っておられる方、聖なる神、造られたのではなく造ったお方を、どうして私たちが理解できましょう。私たちは人間に過ぎなく、その生涯は短く、知恵は浅はかです。何かを成し遂げたと思ってもそれは小さな事に過ぎず、神さまの御前にどれだけの意味があるのでしょう。
しかし、神さまはそのような小さな私たちに、ご自分の永遠を仰ぐことをおゆるしくださいました。私たちは汚れた唇しか持ち合わせていませんが、この舌で神を賛美することが赦されています。私たちは限りある知恵しかありませんが、神は私たちにご自身とその御心を知らせてくださいます。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。」
私たちは神を賛美し、ほめたたえ、このお方にひれ伏して礼拝します。そうやって私たちは造られたものとしての本性に帰る。ここに私たちがまことに人間らしく生きる道があるのです。

2026年5月30日の聖句

(ヒゼキヤの言葉)「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは心を定めて神を、先祖の神、主を求めたのです。」(歴代誌下30:18~19)
(イエスのたとえ話)そこで、彼は、そこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15:20)

神さまは私たちの慈しみ深い父でいてくださいます。私たちが父の愛を拒んで出奔し、放蕩の限りを尽くして父の財産のすべてを無駄づかいしてしまうろくでなしであったとしても、神の私たちへの愛は変わりません。私たちが神の下さった良いものも、命も、命を支えるすべも、全部を無駄にしてしまっても、どんなにダメな私でも神の愛は変わらない。主イエス・キリストはそう言ってくださいます。
「そこで、彼は、そこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
このように、一人の悔い改める罪人を神は愛してくださいます。自分の罪のために損なわれた私を見て、憐れに思い、走り寄って抱きしめ、接吻して迎えてくださる。神さまの愛は熱いのです。熱烈な愛です。この愛があなたにも向けられている、と主は言われます。
ですから私たちの祈りは一つです。「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは心を定めて神を、先祖の神、主を求めたのです。」私たち自身のため、そして隣人のために罪の悔い改めと赦しを求める祈りを捧げる。それが私たちの祈りの営み、私たちの神の御前にある歩みです。

2026年5月29日金曜日

2026年5月29日の聖句

主よ、私は知っています。
人間はその道を確かにできないことを。(エレミヤ書10:23)
(富める者の言葉)「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」(ルカ12:19~20)

この金持ちの言葉は私たちの言葉そのものではありませんか?
「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」
これだけ蓄えがあれば安心だ。これで大丈夫だ。あるいはその逆もあるかもしれない。こんな貯金の残高じゃ心配だ。これでは備えにならない。「だから投資に回せ」と現代であれば続くでしょうか。
もちろん、これは預貯金を禁じるような話ではないし、将来への備えは必要ないと主イエスがおっしゃっているわけではないでしょう。ただ主イエスが、あなたの魂は何によって確かにされるのかと問うていることは真剣に受け止めたい。どんなに財産があっても、それによって将来の生活に安心を求めても、死んでしまえばそれを天国に持って行けるわけではない。地獄の沙汰も金次第とはいかない。私たちには本当の意味で自分の道を確かにすることができないのです。「主よ、私は知っています。人間はその道を確かにできないことを。」
私たちを造り、命を与え、生かし、最後の日にそれを取り上げ、私たちの死ぬときにもご自分のものとしてくださるイエス・キリストと父なる神様に真剣に依り頼み、このお方に信頼する信仰を「私の信仰」としたいと願います。私には私の道を確かにすることはできない。しかし神さまにはおできになります。慈しみに満ちた神さまを、今日を生活し明日を迎える上でしっかりと信頼する者でありたい、と願います。

2026年5月28日木曜日

2026年5月28日の聖句

私は知っている。
私を贖う方は生きておられる。(ヨブ記19:25)
キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂とんられました。(1コリント15:20)

今日の旧約聖書に「私を贖う方」という言葉があります。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、この言葉は「ゴアリー」という単語で表されています。最後の「リー」の部分は「私を」という意味の接尾辞。前半の「ゴアル」は「贖う」という動詞の分詞形です。ですので「ゴアリー」というのは「私を贖う方」という意味になる。
ずいぶんと細かいことを書きました。この「贖う」という動詞ですが、聖書の中ではどのようなところで使われているのか。とても特徴的な意味を持つ動詞です。誰かが破産し、自分も家族も身売りしないとならなくなってしまう。あるいは、先祖伝来の土地を人手に渡さないといけなくなってしまう。そういうときに、家族や親族のある者がその人やその土地を買い戻す。それを聖書は「贖う」と表現します。(具体的には、ルツ記に登場するボアズという人がしたことが「ゴアル」としての振る舞いです。)
つまり、「ゴアリー・私を贖う方」というのは「私のために家族としての責任を果たしてくれる人」という意味です。聖書は、他ならぬ神さまが私のために家族としての責任を果たして、私を贖ってくださった。買い戻してくださった。私を自由にしてくださった、と言っているのです。そして、そのお方、私を贖ってくださる神は生きておられる!これが聖書が私たちに告げる良い知らせです。私を贖い、私のために家族になってくださった神は生きておられる。死者の中から復活し、死に売り渡された私を買い戻してくださった。死を超えた家族になってくださった。それがキリストが私たちのためにしてくださったことなのです。

2026年5月27日水曜日

2026年5月27日の聖句

主よ、神々のうちで
誰かあなたのような方がいるでしょうか。
誰か、あなたのように聖であって栄光に輝き賛美されつつ畏れられ
奇しき業を行うでしょうか。(出エジプト記15:11)
現に多くの神々や多くの主なるものがあるように、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしても、
私たちには、唯一の父なる神がおられ
万物はこの神から出
私たちもこの神へと向かっています。
また唯一の主、イエス・キリストがおられ
万物はこの主によって存在し
私たちもこの主によって存在しています。(1コリント8:5~6)

今日の旧約の御言葉はモーセの歌です。ヘブライ人たちがエジプトで奴隷として抑圧され、苦しんでいた。神は彼らの叫びを聞き、モーセを遣わして奴隷の家から解放してくださいました。葦の海を通ってエジプトの手から解放されたときの賛美の歌が今日の旧約の御言葉です。
人間を抑圧し、尊厳を奪い取り、踏みにじる者たちの手から神が解放してくださった。その出来事はやがて解放された民の賛美に至ります。神の聖なる栄光、輝きを賛美する声が神の前で献げられます。唯一の神、万物を造り、今も支えておられる偉大な神への賛美が自由解放のしるしとして神に献げられる。
私たちの周りにもたくさんの「神々」と呼ばれるものや「主」とされる存在があります。かつてはバアルやアシェラという名であったかもしれませんし、アウグストゥスやピラトなどといった名前であったかもしれません。現代では完璧とさえ思える国家統制や豊かさを与えるシステムという顔を持っているかもしれません。それは「安全保障」や「安定」を約束します。私たちを保護する顔をしながら実は抑圧し、豊かさを最上の価値とする神々の支配は、実は私たちからまことの神に造られた者としての尊厳を奪い取ります。
私たちを解放してくださる神を賛美し、このお方だけの偉大さをたたえることが私たちを自由にする新しい言葉です。「万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています」と私たちも心から神をほめたたえ、まことの神でいらっしゃる方だけを礼拝する者でありたい、と願います。

2026年5月26日火曜日

2026年5月26日の聖句

主を愛する者よ、悪を憎め。(詩編97:10)
きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。(1テサロニケ5:14)

今日の御言葉から新しい思いで教えられるのは、「すべての人に寛大でありなさい」というのは「悪を愛する」とか「悪を大目に見る」ということではない、ということです。「主を愛する者よ、悪を憎め」と聖書は教えます。それではいかなる意味での悪を憎まなければならないのか。というのも、私たちはたいていの場合、自分は正しいと信じていますし、自分が憎んでいるものは悪なのだ、と思い込んでいるからです。つまり、単に自分が気に入らないだけなのに「悪は自分の外にあり、正義は自分の中にある」と勘違いしてしまうのです。
ここで聖書は「秩序を乱す者を戒めなさい」と言っています。「秩序」です。これは、自分勝手な意味での正義ではないということではないでしょうか。「秩序」というからには共同体が関わっているはずです。ここで問われているのは「教会共同体を建て上げる」という意味での正義であり、「教会共同体を毀損する」という意味での悪なのだと思います。
しかしここでもやはり私たちの正義や悪はとても厄介です。私たちは何かがあればすぐに教会を傷つけているのは相手だと思って自分を正当化します。本当の意味で教会を損なっているのはあの人だと相手を断罪します。そうすると大切なのは、教会を形成するというのはどういうことか、ということではないでしょうか。
教会はキリストの体です。教会がまことにキリストの体として建て上げられるためには、何よりもキリストにある愛が大切なのでしょう。だから聖書は「気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい」と言います。気落ちし、弱くなっている人に向かう愛に教会の実力あるいは教会に生きる者としての私の信仰の力が問われるのであると思います。へりくだりが問われます。主がしてくださったように、相手のために命を差し出す愛が求められます。そのことに気付いたとき、そこには傲慢にも他人を断罪する余地は消え失せるのではないでしょうか。ただひたすらに主の憐れみをこいねがい、主の愛を願い求める。それしか私たちにはないのです。

2026年5月25日月曜日

2026年5月25日の聖句

その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。ハレルヤ。(詩編117:2)
さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、人々は驚き怪しんで言った。「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒2:5,7,11)

「神の偉大な業」を語るように、私たちはキリストに託されています。私たちが語る言葉は自分の成功談ではないし、愚痴でもありません。私たちはキリストを証しします。キリストのすばらしい御業を宣べ伝えます。そのために私たち教会は神に召し出されているのです。
「その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。ハレルヤ。」
そのように神をほめたたえる口を神は憶えていてくださることを信じます。主イエス・キリストの恵みと慈しみが私を追い、私の食卓を整え、私を生かしてくださることを私たちは喜んで証しします。
言葉が氾濫しています。それらしい言葉、もっともらしい言葉が幅をきかせています。私たちはただひたすらに神の偉大な御業が伝えられることを望み、そのことを願って、自分の唇を神に整えて頂きたいのです。

2026年5月24日日曜日

2026年5月24日の聖句

今週の聖句:
武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6)

今日の聖句:
門よ、頭を上げよ。
とこしえの扉よ、上がれ。
栄光の王が入る。(詩編24:7)
突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。すると、一同は聖霊に満たされた。(使徒2:2,4)

以前、車で首都高速を通過したときのことです。どこかの国の要人(大統領や首相級の人物でした)が日本に来て都内を通過するということで、高速道路のいろいろなところに警察官が配備されていました。(そのために車が詰まっていて辟易しました・・・。)この世の王が来るときでさえ、庶民の生活に大きな影響を与えるような騒ぎになります。まして私たちの栄光の王、とこしえの王でいらっしゃるお方が私たちのところに来られるというのです。私たちは今のままでいていいのでしょうか?
「門よ、頭を上げよ。とこしえの扉よ、上がれ。栄光の王が入る。」
門は頭を上げ、とこしえの扉でさえも上がってしまわなければならない。王が入ってこられるからです。私たちの真の王・キリストであるイエスが来られるとき、私たちはこのお方をお迎えするために全神経をそちらに向け、王をお迎えするために生き方を変えなければならないはずです。
このお方は「武力によらず、権力によらず」、ご自身の霊によって私たちのところへ来られます。命を与える神の愛の息吹です。神は、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。すると、一同は聖霊に満たされた」という、新しい時代を始める霊として、私たちのところへ来てくださいました。
私たちの王であるキリストの霊です。このお方をお迎えするために、私たちは今日この日を迎えました。私たちの主イエス・キリストに栄光があり、私たちがこのお方の霊に生かされて祈り、賛美を献げる者として今日の日を生きられますように。

2026年5月23日土曜日

2026年5月23日の聖句

神は私たちが知りえない偉大な業を行う。(ヨブ37:5)
父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5:45)

まさにその通り、しかしすぐに忘れてしまう。それが今日の御言葉だと思います。「神は私たちが知りえない偉大な業を行う。」私たちには、神さまのなさることを見極めることなんてできません。人間に過ぎませんから。神さまのなさることや神さまの思いを何でも知っているなんて、傲慢です。しかし、何とたびたびその傲慢を犯してしまうことでしょう!そして、現実が自分の意にそぐわないときに悪いのは神さまの方であるかのように考え、そのような言葉を口にし、あるいは不機嫌のままに振る舞ってしまう。傲慢なことです。しかし、現によくしてしまっていることです。
主イエスはおっしゃいます。「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」私の基準からすれば、私が「悪人」と思う人には悪いことがたくさん起きて、ちゃんと懲らしめられることが正義だと考えてしまいます。私の見えていることとか計算できることを前提にすれば、自分が思う正義が貫徹され、自分が悪と思う人が酷い目に遭うことが道理に適っていることになる。しかし、主イエスは「その通り」とはおっしゃいません。誰にでも太陽は昇る。善人にも悪人にも。それはどんな人をも愛する神さまの、父としての愛と慈しみに他ならない。むしろ神の大きな御心を知ってほしい、と主は言われるのです。
私たちに知りえないこと、私たちには謀りがたいことがあることを、謙遜に受け止め、喜びましょう。私たちの思いの外にあることこそ、神さまの愛の無限な大きさの証拠なのですから。

2026年5月22日金曜日

2026年5月22日の聖句

主こそあなたの誉れ、あなたの神。(申命記10:21)
父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。(ヨハネ16:27)

なんとすばらしい二つの御言葉を与えられたことでしょう!父なる神様ご自身が私たちを愛してくださっている。その事実こそが私たちの誉れです。私たちの誇り、私たちの喜びは神が私を愛してくださっていること!
ローマの信徒への手紙にもこのように書かれています。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしているのです」(5:10,11)。
父なる神ご自身が私たちを愛してくださっているというのは、敵であった私たちを愛してくださっている、ということです。御子の命によって私たちを救ってくださるほど私たちを愛してくださっている神です。私たちはこのお方の途方もない愛をイエス・キリストを通して知りました。だから、「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています」と言うのです。
「主こそあなたの誉れ、あなたの神。」本当にそうです。その通りです。主なる神さまが私を愛してくださり、和解の手を伸ばしてくださり、救ってくださって、私たちをご自身のものとしてくださった。その事実が私の誉れです。主にあって誇り高き者として、与えられた一日を歩みましょう。

2026年5月21日木曜日

2026年5月21日の聖句

その御業のゆえに神をたたえよ
その大いなる栄光にふさわしく神をたたえよ。(詩編150:2)
詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。(コロサイ3:16)

私たちの姉妹教会である香港中会にかつておられたウィリアム・イェン牧師。香港に対する共産党政権の締め付けがひどくなっていく中で香港民衆民主化運動の先頭に立った人物のおひとりです。
2019年の香港民主化運動のときのこと。ウィリアム先生らは香港の町に出て路上に立って抵抗なさったのですが、その時、そこに立ったキリスト者たちは歌をうたったのだそうです。Sing Hallelujah to the Lord、と。この歌は次第に町中に広まり、キリスト者だけではなく民主化運動の象徴的な意味を持つ歌となったと聞きます。
Sing Hallelujah to the Lord!主に歌え、主をほめ歌え!ハレルヤと主を賛美せよ!この歌は、政府の大きな力で人々を押さえつけ、締め付け、自由を奪う暴力に対抗する力を持ちました。賛美が自由への力になりました。政府の力で押さえつけた悲しみを忘れることなく、共に嘆き、共に喜び、共に生きる力になった。賛美には、この世界に働きかける大きな力が秘められています。
私たちもうたいましょう。「詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。」この世に正義を願い求め、神の御心がこの地になることを願う祈りは、神をほめたたえる賛美と一つです。私たちの歌はこの世界を神が変えてくださることを信じる信仰の表明です。御国を来たらせたまえ!主が教えてくださった祈りが、私たちの口に賛美を上らせる原動力になるのです。

2026年5月20日水曜日

2026年5月20日の聖句

主の慈しみをとこしえに歌い
私の口はあなたのまことを
代々に告げ知らせよう。(詩編89:2)
弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。(マルコ16:20)

「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた」と書かれています。「出て行って、至るところで」という言葉が心に残ります。これが私たち主の弟子の姿です。出て行って、至るところで。
主の弟子たちは、ほんの僅かな人数でしかありませんでした。学がある人というわけではありませんし、洗練された都会人でもありません。彼らには、ただ、主イエスさまのご命令だけがありました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)と愛する主イエスに命じられた。その言葉に促されて、ただそれだけを携えて、弟子たちは出て行きました。
私たちも同じです。同じように主イエスに遣わされています。私たちも出て行き、私たちの行くあらゆる場所、至るところで、福音を宣べ伝えるために、主イエスさまに遣わされています。「主の慈しみをとこしえに歌い、私の口はあなたのまことを、代々に告げ知らせよう。」主が必ずと共にいてくださって、福音を上らせる口を祝福してくださいます。主ご自身が用いてくださいます。主が私たちの言葉を確かなものにしてくださいます。

2026年5月19日火曜日

2026年5月19日の聖句

しかし主よ、今、あなたは私たちの父。
私たちは粘土、あなたは陶工。
私たちは皆、あなたの手の業です。(イザヤ書64:7)
ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。(ローマ9:20)

今日の旧約ですが「父と子」、あるいは「粘土と陶工」として私たちと神さまとの関係を捉えています。三行目に出て来る「私たちは皆、あなたの手の業です」も同じイメージです。
私は今三人の子どもの父です。しかし最初から父であったわけではありません。長男が生まれたときに初めて父になりました。子どもがいなければ「父」と呼ばれることはありません。陶工も、作品を作らなければ陶工と呼ばれることはありません。「父」も「陶工」も実は「父と子」あるいは「陶工と粘土」という関係を表す言葉です。子がいなければ父になることはない。そうだとすると、神さまは私たちがいなければ「父」ではなかったということになるのか?
しかし、そうではない。私たち造られた者がいようといなかろうと、神さまが父でいらっしゃることには何ら変わりがありません。それは、このお方がイエスという御子の父でいらっしゃるからです。「主よ、今、あなたは私たちの父。」神さまが私たちにそう呼ばれることをお許しになったというのは、それ自体が神さまの深いへりくだりです。子なる神の永遠の父でいらっしゃるお方が、私たちのような粘土に過ぎない者、造られただけの者にとっても「父」としてご自身を現し、紹介してくださった。だから私たちはこのお方を「父」とお呼びして崇めるのです。
「父よ」と私たちがお呼びして祈ること、それ自体が神さまの限りないへりくだりと愛の生み出した大きな賜物なのです。

2026年5月18日月曜日

2026年5月18日の聖句

主よ、私たちにではなく
私たちにではなく
あなたの何こそ、栄光を与えてください
あなたの慈しみとまことのために。(詩編115:1)
(イエスの言葉)自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不正がない。(ヨハネ7:18)

今日の新約の御言葉で主イエスがおっしゃっているのは、主イエスさま御自身のことです。「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者」。主イエスはまさにそのように願い、実際にそうなさいました。ご自分をお遣わしになった父なる神様の栄光のために、主イエスはすべてのことをなさったのです。
私たちは神の栄光を求めているのでしょうか。それとも自分勝手に話し、主イエスが指摘しておられるとおりに自分の栄光を求めているのでしょうか。私たち自身の言葉や行いを神さまの前で静かに振り返り、考え直すことがもしかしたら必要なのかもしれません。
今日の旧約の詩編の御言葉は、まさに主イエスと同じ信仰をもって献げられた賛美です。「主よ、私たちにではなく、私たちにではなく、あなたの何こそ、栄光を与えてください。あなたの慈しみとまことのために。」私たちは知恵が足りないし、それ以上に身勝手ですし、すぐに迷ってしまう愚か者です。そのような罪深い私にも、どうか主が賛美を授けてくださいますように。神のご栄光を求める信仰者として、私を生かしてくださいますように。ただひたすら、神さまの憐れみに満ちた導きを慕い求めます。

2026年5月17日日曜日

2026年5月17日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。(ヨハネ12:32)

今日の聖句:
主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ
墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。(詩編30:4)
(イエスの言葉)「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。(ヨハネ11:43~44)

「ラザロ、出てきなさい」という主イエスの大声は、私たちの間にも響いています。主が愛しておられたラザロを墓から呼び出すために、新しい命に生かすために、キリストの大声が響いています。
ラザロにはマルタとマリアという二人の姉妹がいました。ラザロが病で死にそうになったとき、彼女たちは主イエスに来てくださいと願い、しかしなかなか来てくださらず、やっと主が来られたとき既にラザロは亡くなっていた。この二人が経験したことは、そのまま私たちの出来事です。主を信じ、祈り、助けを求めてもかなえられず、愛する人の苦しみを側で見ているしかできない。遂に最期の時を迎えていく・・・。
そうやって死んだ者に向かって、主イエスはおっしゃいます。「ラザロ、出てきなさい。」あなたが愛する、今眠りについておられる人も、同じ主イエスの声を聞くために眠っています。主に起こして頂くために、今しばしの眠りについているのです。主が起こしてくださるときがいつ来るのか私たちは知りません。しかし、死人を起こす主の声は、ラザロの名前をお呼びになったあの日から今日に至るまで響き続けていることを私たちは信じます。やがて必ず来る復活の朝、そこで私たちもはっきりと耳にすることのできる主イエス・キリストの声を慕い求めて、今日の祈りの道を上りましょう。

2026年5月16日土曜日

2026年5月16日の聖句

神は心に知恵があり、力は強い。
神に対してかたくなになって
誰が無傷でいられよう。(ヨブ記9:4)
神は、高ぶる者を退け
へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5)

神様の御前にへりくだる信仰を、今日の御言葉は私たちに証言します。自分がどんなに高ぶった者であるのか、へりくだろうとしないのか。私はそういうことをすぐに忘れてしまいます。神様の御前に進み出て、自分の罪深いことや汚れたことを知らしめられるのでなければ、へりくだった者になることはできないのだと思います。私たちはすぐに他人と自分とを比較します。それで劣等感を抱いたり、優越感に浸ったりします。どちらもあまり変わらない心なのだと思います。神さまの前でのへりくだりは、他人との比較によっては生まれない。神さまを畏れ、神さまの前にひれ伏すのでなければ。
そしてそれは、神御自身の霊の導きを頂かなくてはできないのだと思います。自分自身の心がけも大切なのでしょうが、そういうことではどうしようもない。神様ご自身の導きを頂かなくてはどうにもならない。神の霊の促しを頂いて、神の前にひれ伏し、へりくだる。そして何よりも、私たちのあり方に先立つ神の圧倒的な赦しの御言葉に耳を傾ける。そこに初めて真実な罪の告白とへりくだりが生まれるのではないでしょうか。

2026年5月15日金曜日

2026年5月15日の聖句

(イスラエルの子らの言葉)さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない。(エレミヤ50:5)
こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(2ペトロ1:5~7)

今朝のエレミヤ書の御言葉ですが、前の節から改めて読んでみると、このように書かれています。「彼らは泣きながらひたすらあるき、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンを訪ね、顔をその方向に向けて言う。『さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない』と。」泣きながら歩き、主を尋ね求める。「シオン」は、彼らの故国であり、礼拝を献げた場所です。主とその民とを仰ぎながら、主との永遠の契約を頼りに主を尋ね求める。今朝の御言葉は、そういう言葉です。
私たちは今、どういう思いを込めて主を尋ね求めているでしょうか。どのようにして主に祈りを捧げているでしょうか。今日のこの御言葉のように、一心に主を求める心、主に向かうまっすぐな心を私も抱きたい、と願います。
今朝の新約の御言葉は、そういう私たちの神に向かう「信仰」が、隣人と共に生きる生活において何を意味するのかを語っています。「信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と言っている。神に向かう私たちの信仰は、共に生きる主にある兄弟姉妹への愛につながっている。私たちは、共に主を尋ね求める群れ。教会という主の共同体の一員です。

2026年5月14日木曜日

2026年5月14日の聖句

心で罪人を妬むことなどせず
日夜、主を畏れよ。(箴言23:17)
(イエスの言葉)「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。」(ルカ24:46~48)

聖書は本当に鋭いと思います。「心で罪人を妬むことなどせず、日夜、主を畏れよ」と書いてあります。私たちが自分に罪を犯した人を妬むことと、主を畏れることとは両立しない、と言うのです。自分の心を省みてみると、確かに、「あの人は悪い」「自分に対して悪を行った」と感じるときには少なからず「妬み」も共存しています。実は妬ましいという本音があるのにそれを覆い隠すようにして「あの人が悪い」と自分を納得させている、ということが起きているのではないか。実はその心は神を畏れる心とは正反対のものだ、と聖書は言うのです。痛い言葉です。
日夜、主を畏れる。聖書は私たちを神の前に引き出します。神の前に身をかがめ、神を畏れる。そこから私たちの人間関係も新しく始まる。
今日はイースターから40日目で、教会の暦では「昇天日」と呼ばれています。今日の新約の御言葉は主が昇天なさったときに弟子たちに語りかけた御言葉です。メシアの苦しみと復活。そしてメシアの御名による罪の赦しの福音の宣教。これは、主の御前にひれ伏し、このお方を畏れる信仰です。私たちはキリストの死と復活という福音によって、キリストを畏れ、崇める新しい私に造りかえられている。この福音に仕える新しい人生に、私たちは送り出されているのです。

2026年5月13日水曜日

2026年5月13日の聖句

すべての魂と、生きているものは、御手の内にある。(ヨブ記12:10)
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23:46)

十字架にかけられた主イエスはご自分の霊を神の御手にお委ねになって、息を引き取られました。ご自身の存在の深みを、ご自分の霊を、神の御手にお委ねになった。「すべての魂と、生きているものは、御手の内にある」とヨブ記に書かれているとおり、私たちの命も魂も霊も、すべては神の御手の中にあります。主イエスは十字架にかけられてもなおそのことを信じ、神にご自分のすべてを任せてしまわれました。
ペンテコステは、神が、このキリストの霊を私たちにお送りくださった日です。キリストが十字架の上で神の手に委ねたキリストご自身の霊が私たちのところへ降って来られた。十字架にかけられたキリストの霊によって教会が誕生しました。私たちは、十字架にかけられた方の霊を与えられています。私たちは、十字架の上で神を信頼し、神にすべてをお委ねになった方の霊によって生かされています。私たちは、十字架にかけられたキリストのものです。
私たちは私たち自身をこれからどうしていくのでしょう?神に委ねるのか、あるいは自分で自分の命のことを心配して生きていくのか?「父よ、私の霊を御手に委ねます。」このキリストの祈りは、このお方の霊を頂いた私たち教会の祈りでもあるはずです。

2026年5月12日火曜日

2026年5月12日の聖句

主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじませんでした。(詩編102:18)
正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコブ5:16)

今日の新約の御言葉はヤコブの手紙の末尾に近いところのものです。ここには「執り成しの祈り」のことが書かれています。ヤコブは言います。「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗って、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。」そして、今日の御言葉に続いているのです。
病気のとき、自分のための祈りを教会に求める。自分で祈ることができないときにも、教会が祈ってくれる。信仰による祈りが弱っている自分を救ってくれる。自分が罪を犯していても、教会の執り成しの祈りを神が聞いてくださってその罪を赦してくださるとさえ言っています。祈りには、私たちが思っている以上の力があります。神さまは祈りによって私たちの罪に対する処遇さえ思い直してくださるというのです。驚くべき言葉です。
私たちも祈りましょう。お互いのために。教会の仲間のために祈りましょう。病気の友のために、困窮し、喘いでいる友のために。罪を犯し過ちを犯してしまった友のために。私たちも祈りましょう。キリストが私たちのために祈ってくださったように、私たちも互いのために祈り合いましょう。

2026年5月11日月曜日

2026年5月11日の聖句

主のように聖なる方はなく
あなたに並ぶ者はいません。(サムエル上2:2)
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
全能者である神、主。
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(黙示録4:8)

今日の二つの御言葉は、どちらも「聖」とあります。神さまは聖なるお方。
この「聖」という言葉について、ある聖書学者がこのように言っています。「『聖』という概念はイスラエル宗教において最も深く、最も謎に満ち、最もすばらしく、最も厳しいものを意味する。」謎に満ちている、と言います。「聖」は神御自身の御性質であって、私たちには捉えきることができない。私たちにとっては謎に他ならない。なぜなら、神は聖なるお方であり、「あなたに並ぶ者はいません」と言われるべきお方だからです。私たちが他の何かしらから類推して「神の聖なることとはこういうことだ」と、自分の概念に押し込めてしまうことができないのです。神の聖でいらっしゃることは私たちにとっては謎であり、畏るべきことです。
旧約聖書のレビ記を読むと、とても細かい祭儀の規定があります。そこでは徹底して私たちの「汚れ」が語られています。現代の感覚で読むと理不尽なほどに徹底しています。普通に生活していれば必ず汚れてしまう。しかしレビ記の徹底した「汚れへの感覚」は、逆説的に、神の聖でいらっしゃることを語ります。私たちは、自分の汚れを汚れと指摘されることによってでしか聖が分からないのです。
そんな私たちにできるのは、聖なる神を賛美することだけです。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
全能者である神、主。
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
私たちも心合わせて神を賛美し、聖なるお方を礼拝する。私たちの汚れた唇に聖なる神への賛美が授けられます。ここに私たち人間のあるべき姿があるのではないでしょうか。

2026年5月10日日曜日

2026年5月10日の聖句

今週の聖句:
ほむべきかな。神。
神は私の祈りを退けて、御恵みを私から取り去らなかった。(詩編66:20)

今日の聖句:
私たちが仕える神は、火の燃える炉の中から、私たちを救い出すことができます。たとえそうでなくとも、私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。(ダニエル3:17~18)
聖なる方、真実な方
ダビデの鍵を持つ方
この方が開けると、誰も閉じることができない。
「あなたがたは力の弱い者であるが、私の言葉を守り、私の名を否まかったからである。」(ヨハネ黙示録3:7,8b)

ダニエルはネブカドネツァル王が支配するバビロンに生きた信仰者として聖書に登場します。故国ユダを滅ぼした圧倒的な軍事力を持つ国。バビロニアには発展した文明とすばらしい文化が満ちあふれていたに違いありません。そして、それを支えるバビロンの宗教があった。ネブカドネツァル王はあるとき巨大な金の像を造り、これにすべてのものがひれ伏すことを要求しました。ところが、ダニエルは主なる神さまのみを礼拝する信仰者でしたから、それを拒んだ。そのために、彼は燃えさかる火の炉に投げ込まれることになりました。
その時にダニエルが言った言葉が今日の御言葉です。神は火の燃える炉から私を救うことがおできになる。そう、実際に神はそのようにダニエルを助けてくださった。しかしもっと大事なのは彼の言葉の後半です。「たとえそうでなくとも、私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。」この「たとえそうでなくとも」がダニエルの信仰です。私たちは神がどうにかしてくれるという保証があるから従うのではない。神が事態を好転してくれることが期待できるから信じるのではない。ご褒美があるから信じるのではない。この方こそまことの神でいらっしゃるから、他の何ものも神とはしない。神は私を助けることがおできになる。しかしたとえそうでなくても、私は主だけを礼拝する。
異教社会に生きるダニエルです。私もこの人のようでありたい、と願います。

2026年5月9日土曜日

2026年5月9日の聖句

私があなたがたを救い
あなたがたは祝福となる。(ゼカリヤ8:13)
神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(2コリント1:4)

今日の旧約の御言葉として与えられているのはゼカリヤ書8:13の一部ですので、改めて13節全体をここに引用します。
「ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは、かつて諸国民の中で呪いとなったが、今や私があなた方を救い、あなたがたは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出せ。」
かつてユダとイスラエルは諸国民の中で呪いであった、と言います。主なる神さまを捨て、国が破滅し、人々の呪いの的となった歴史をユダとイスラエルの国は持っている。そのことを言っているのでしょう。かつては諸国民の中の呪いであった者たちを神が救ってくださって、今や諸国民の祝福に変わる。あなたたちの罪はかつては諸国民にとっても呪いでしかなかった。ところが今やあなたたちによって私の祝福が諸国民にもたらされる。神はそう言ってくださっているのではないでしょうか。
「救い」ということを私たちはとかく個人的に考えがちです。これまでの私の不全感やコンプレックス、個人的な不幸や悩みから解放されることが私の救い。「私の罪責感からの救い」に限定して考えてしまうところがある。ところが聖書の描く救いはもっとスケールが大きい。神の民の救いは諸国民の祝福だと言うのです。
今朝の新約聖書の御言葉も同じです。パウロの慰めはコリント教会の人々にももたらされ、彼らにとっての慰めにもなる。神はあらゆる苦難のときに私を慰め、あなたをも慰める。ここでの「あなた」が意味する範囲は決して小さくないと思います。世界中を巻き込み、2000年後の私たちをも巻き込みました。パウロは、神さまは個人的に私に関わって私だけを慰めてくれた、とは言わないのです。
主なる神さまは、私たちをこの世界のための祝福の基、慰めの源としてくださいます。私たちも主に遣わされた使者として祝福を携えてここから出て行くのです。

2026年5月8日金曜日

2026年5月8日の聖句

主よ、私たちの父よ、私たちを見捨てないでください。私たちを見放さないでください。(列王記上8:57)
(イエスの言葉)「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)

今日の旧約の御言葉は、私たちの祈りや願いそのものではないでしょうか。「主よ、私たちの父よ、渡した異を見捨てないでください。私たちを見放さないでください。」私たちも同じように祈ります。神が私たちを見捨てず、見放さないでいてくださるように、主の憐れみを求めます。神さまに「父よ」とお呼びして、神さまの慈しみを慕い求めます。それが私たちの祈りなのではないでしょうか。
主イエス・キリストはおっしゃいます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」そのお方が私たちと世の終わりに至るまでいつも共にいてくださる、と約束してくださいました。天と地の一切の権能、というのはすごい言葉です。この世で起こるすべてのことに対する権威をお持ちだとおっしゃいます。言葉を換えれば、天と地のすべてのものの王だ、ということになるのではないでしょうか。すべての王、まことの支配者でいらっしゃる方が世の終わりまで共にいてくださる。それが、私たちの祈りへの答えです。主は決して私たちを見捨てず、私たちを見放さないでいてくださる。ご自分の権威を持って私たちと共にいてくださる。
だから、今日の日を雄々しく生きていきましょう。キリストを信じ、このお方の力により頼んで、喜んで今日の一日を歩みましょう。

2026年5月7日木曜日

2026年5月7日の聖句

主よ、朝に私の声を聞いてください。
朝が来る度に、あなたに向かって身を整え
待ち望みます。(詩編5:4)
朝早くまだくらいうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

朝が来る度に神さまを呼び求め、神さまの御前で祈る。今朝私たちに与えられている詩編の祈りを最初に捧げた信仰者も、そのように毎日の信仰生活を営んでいました。私たちも、それぞれ自分なりの仕方で朝の祈りを捧げて一日を始めているでしょう。改革者ルターも、朝の祈りの指導をしています。祈りをもって神さまを呼び求めることで私たちの一日が始まる。朝の祈りについて、この詩編が「あなたに向かって身を整え」と言っているところがとても魅力的です。私たちの身を神さまに向かって整える。私たちの生き方を神さまに向けてチューニングしなおす。それが朝の祈りの時間です。私たちは、主を待ち望みます。
そんな私たちの朝の祈りの時間の先頭に、主イエスさまがいらっしゃいます。誰よりも神さまに近く、親しく祈られた方。一人神の御前で祈っておられる主イエスさまのお姿。「朝早くまだくらいうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」このお方のように祈る者になりたい、という憧れを込めてこのお方の姿を仰ぎます。キリストの祈りが、ほんの僅かにでも私の祈りとなりますように。主イエスさまを慕い求める私の祈りを、神さまが聞いてくださいますように。

2026年5月6日水曜日

2026年5月6日の聖句

彼らは泣きながら帰って来る。
私は彼らを慰めながら導き
水の流れに沿って行かせる。
まっすぐな道で、つまずくことはない。
私はイスラエルの父であり
エフライムこそ私の長子だからだ。(エレミヤ31:9)
キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(ヘブライ5:7)

今日の旧約の御言葉の冒頭のところは、本当に慰め深い言葉です。「彼らは泣きながら帰って来る。私は彼らを慰めながら導き、水の流れに沿って行かせる。」神さまは、ご自分の民が泣き、哀願するとき、それをお見捨てにはならない。泣きながら帰る者と共に歩んでその道を同伴してくださる、と主は言ってくださいます。
無数の代々の信仰者たちがそのような慰めを経験し、主と共に生かされる幸いを味わってきたことでしょう。そしてこのような主の下さる慰めの究極のかたちが、主イエス・キリストというお方に現されたのです。
このお方はただ私たちと同伴し、側にいてくださるというだけではない。ご自身が深く嘆かれるお方です。ご自分の目から涙を流される方です。死を恐れ、神に祈り、嘆願の祈りを神様の御前にお献げになる方。私たちの代表になって深く悲しまれたお方です。
主が私たちを連れ帰ってくださる道は、まっすぐで、つまずくことはないと預言者エレミヤは言っています。キリストご自身がその道になってくださったのです。私たちが神のもとへ帰る道に。私たちのための道に。主の憐れみが私たちの歩みを支えてくださいます。

2026年5月5日火曜日

2026年5月5日の聖句

主が御顔をあなたに向けて
あなたに平和を賜るように。(民数記6:26)
「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。(2コリント4:6)

この世界に光を創造した神は、私たちの心を照らすことがおできになる方です。私たちを、イエス・キリストという光が照らしてくださる。この光は、私たちが知っている物理現象としての光以上の光です。
主イエス・キリストの光について、今日与えられている新約の御言葉では「イエス・キリストの御顔にある神の栄光」と言っています。主イエスさまのお顔には、神の栄光が輝いている。それは、キリストが十字架にかけられることによって明らかになった栄光です。そして、キリストが復活したことによって輝いた栄光です。私たちはキリストの栄光を仰いで、このお方を賛美します。私たちは神をほめたたえて礼拝するとき、キリストの栄光に照らされて、キリストの御顔に輝く神の栄光の光に包まれているのです。
礼拝では、聖書朗読の前に「照明を求める祈り」を献げます。神が私たちにキリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださるように、私たちは願い求めます。このお方の光に照らされて、私たちは神を仰ぐことができるのです。
私たちは、お互いのために神の光に満ちた祝福を祈りましょう。「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜るように。」祝福と平和を交わす言葉を私たちの挨拶としたい、と願います。主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もあなたにありますように。

2026年5月4日月曜日

2026年5月4日の聖句

主をたたえよ。
日々、わたしたちを担い、救われる神を。(詩編68:20)
(イエスの言葉)すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の御言葉は、偶像とまことの神との違いをはっきりと証言していると思います。偶像は人間が造ったものです。それがどんなにすばらしく見えたとしても、あるいは芸術的な価値がどんなに高かったとしても、所詮は人間が造ったものに過ぎません。偶像はいろいろな形をします。彫像とは限らない。時には「システム」の顔をするかもしれないし、「世間」とか「評判」、あるいは「自己実現」とか「自分が本当にしたいこと」という形をとるかもしれない。しかしいずれにしても、人間が造り、生み出したものである以上、人間が担いで運ばなければ、偶像それ自体には何もすることはできないのです。
ところがまことの神さまはそうではありません。私たちが神を造ったのではなく、神が私たちをお造りになりました。このお方は私たちに担がれなければ何もすることができないお方ではない。却って、私たちを担い、救うことがおできになる方です。私たちが神を担うのではなく、神が私たちを担ってくださいます。
主イエス・キリストは言われます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」私たちはただの人間に過ぎませんから、疲れ、勢いを失い、想像力も減衰し、弱ってしまう時が必ずあります。キリストは、そんな私たちを招いてくださいます。この方は真の神の子として私たちを休ませてくださる。このお方がわたしたちを担い、救ってくださるのです。私たちは、まことの神でいらっしゃるお方にただただひれ伏すのです。

2026年5月3日日曜日

2026年5月3日の聖句

今週の聖句:
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)

今日の聖句:
ギデオンは言った。「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」(士師記6:17)
(ニコデモの言葉)「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)

今日の二つの聖書の御言葉は、どちらも「しるし」ということに言及しています。神であることのしるしです。ニコデモは主イエスがなさった奇跡をそのしるしだと信じ、イエスのもとへ来ました。
とても正直なことを言うと、私はこういうところを読むと少し困ってしまいます。ニコデモにはそうかもしれないが、私自身にはそのようなしるしが起こっていないし、目の当たりにもしていない、と思ってしまうからです。この「しるし」ということをどう考えたらいいのでしょうか。
実は、ニコデモと主イエスとの対話を見てみると、主イエスご自身がそのことをお考えだったのではないか、と私は思うのです。主イエスはニコデモが「これぞしるし」と思った奇蹟の話を深めることなく、対話が続いていくとこのようにおっしゃいます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14,15節)。(ここで「荒れ野で蛇を上げたように」と書いてあります。これは民数記21:1~9に出て来る話がもとになっていますので、詳しくはそちらをご覧ください。)これは、主イエスご自身が十字架の上に上げられることを意味する言葉です。主が十字架に上げられることで私たちに永遠の命が与えられる。つまり、主が荒れ野の蛇のように十字架の上に上げられ、そのお姿を仰ぐ私たちが命を得ること、それが神が私たちに下さったしるしだ、と主はおっしゃいます。
私たちは昔イエス様がすごい奇跡をなさったということでもって主イエスを真の神と信じるのではなく、十字架に上げられて私たちに命をくださったという究極のしるしによってそのことを信じている。それがヨハネによる福音書が伝えているメッセージなのだと思います。
キリストの究極のしるしを、信仰の目を開いてしっかりと仰ぎましょう。ここに私たちの命があります。ここに私たちの救いがあります。

2026年5月2日土曜日

2026年5月2日の聖句

私の足取りをあなたの仰せで
確かなものにしてください。
どのような悪にも私を支配させないでください。(詩編119:133)
神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(1ヨハネ2:6)

「あなたの仰せ」、すなわち神さまの御言葉が私たちの足取りを確かにしてくださいます。神の言葉に聞き従うことが、私たちが確かなものとして生きることにほかならない、とこの詩編作者は言っています。
旧約聖書は(本当は新約聖書も同じですが)、とても具体的な信仰生活というものを考えていると思います。私たちが実際の生活で神さまを信じ、従って生きる。例えばそれは十戒の言葉に従う、ということを意味します。主の他の何ものも神とせず、人間が造った物を拝まず、神の御名をみだりに唱えず、安息日を覚えて生活リズムを刻む。そして父と母を敬い、殺さず、姦淫せず、盗まず、偽りの証言をせず、隣人の家を貪らない。どれもこれもとても具体的です。具体的な毎日の生活の中で神を信じ、神さまに従う。そうすることで私たちの足取りは確かになるのだ、と言っています。
そういうことを言われると、すぐに私たちは「自分には無理だ」と、言い訳めいた諦めの言葉を口にしたくなってしまいます。そんな私たちに与えられているのが、今朝の新約の御言葉です。今日の箇所は2:6ですが、少し文脈を遡ってみてみるとこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」聖書は、私たちが罪人であることを私たち以上に知っています。その上で言います。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」神さまに従う者のために、キリスト御自らが弁護者になってくださいます。だから、聖書は言います。「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」
これが、今日私たちに与えられた神の言葉なのです。

2026年5月1日金曜日

2026年5月1日の聖句

5月の聖句:
私たちはこの希望を、魂のための安全で確かな錨として携えているのです。(ヘブライ6:19)

今日の聖句:
必ずあなたは私を畏れ、
懲らしめを受け入れる。(ゼファニヤ3:7)
主よ、誰があなたの名を畏れず
崇めずにおられましょう。
聖なる方は、あなただけです。(黙示録15:4)

私たちは聖なる主の御名を畏れ、主を崇めます。「御名を崇めさせたまえ」と祈り、私たちは今日の日を歩んでいきます。
神さまは命の造り主です。このお方にしか命を創造することはできませんし、そうであるからこそ、すべての命には神の慈しみが込められていると私たちは信じています。私たちは生きているときにも、死にゆくときにも神とキリストのものです。どのようなときにも神さまは私たちを憶えていてくださり、髪の毛一本までも御心に留め、神の許しがなければその一本が地に落ちることすらないのです。聖なる神さまの手が今日も私たちを支えていてくださいます。
私たちが最期を迎えるときにも、キリストはそこにいてくださいます。陰府に降られたキリストは私たちを罪と死と滅びから救うことがおできになります。キリストが復活して道を拓いてくださったからです。
主を畏れ、主を賛美し、主を信頼しましょう。聖なるお方の手の大きさを、その確かさを、今日じっと信じ、祈り、主の御前に歩みましょう。

2026年6月15日の聖句

見よ、闇が地を覆い 密雲が諸国の民を包む。 しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2) (イエスの言葉)私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12) 「闇が地を覆い、密雲が食の民を...