2026年4月30日木曜日

2026年4月30日の聖句

あなたの目の前には千年も
過ぎ去ればきのうのごとく、
夜の間のひと時のようです。(詩編90:4)
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペトロ3:9)

私たちはただの人間ですから、人間としての視野しか持ち合わせていません。千年などを見渡すことはできないし、これから先のことについては1秒後のことでさえ分かりません。いや、過ぎ去った過去のことでさえもどれだけ分かっていることでしょう。自分が「これだ」と思っている過去は他の人にとっては偽りでしかない、あるいはその逆に他の人が言う「過去」は自分にとっては創作したお話としか思えない、ということだって珍しくないのです。私たちの視野は狭いし、知恵も足りないですし、私たちは甚だ限界ある存在に過ぎないのです。
しかし、主はそうではありません。主の目には千年も一日のようであり、一日は千年のようです。「あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」このお方がお立てになった計画に従って進む物事に私たちがとやかく言うことは、本当はできないのだと思います。神さまは、ご自身の知恵に従い、ご自分の御力によって、神様ご自身の御心に適う美しい御業を進めてくださっている。私たちはそのことを信じます。

2026年4月29日水曜日

2026年4月29日の聖句

あなたの口を、ものを言えない人のために
捨てられた人の訴えのために開きなさい。(箴言31:8)
しかし、大勢の人がいて、御許に連れて行くことができなかったので、イエスのおられる辺りの屋根を屋根を剥がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。(マルコ2:4)

高座教会の信徒宣教者として仕えておられる柳沢美登里さんは、「声なきものの友」の輪という宣教団体に所属して働いておられます。社会の周縁に追いやられ、声を失い、あるいは奪われ、苦しんでいる人の友として生きる。そしてその友たちが輪を作り、連帯して声なきものと共に生きる。そういう思いが込められているのだろう、と思います。
「あなたの口を、ものを言えない人のために、捨てられた人の訴えのために開きなさい。」私たちの口は誰のために開かれているでしょうか。ものを言えない人のため、捨てられた人の訴えのためにこの口を用いているのでしょうか。それとも、社会の多数派や強いものに同調し、弱く周縁に生きるしかない人を無視した声に与してはいないか。
今日の新約は、まさに声なきものの友として生きた四人の人たちの姿が描かれています。彼らは中風の男の友でした。病気もまた一人の人間から声を奪います。自分で主イエスのところへ行くことのできない友のために、四人は連帯して彼を床ごと運びます。イエスがおられる家が満杯で入れないと見るや、屋根に上り、そこに穴を開けて友をつり降ろしました。主イエスは、彼らの信仰をご覧になって中風の人を癒やしてくださいました。「声なきものの友」の輪が一人の人を主イエスの救いに運び入れたのです。
私たちは誰の友として生きましょう。私たちは誰のために声を上げましょう。私たちの声を必要としている人のところへ、主イエスは私たちを遣わしておられるのです。

2026年4月28日火曜日

2026年4月28日の聖句

ああ、主よ、大いなる畏るべき神よ、主を愛し、その戒めを守る者には契約と慈しみを守る方。私たちは罪を犯し、過ちを犯しました。(ダニエル9:4~5)
(イエスの言葉)私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。(ヨハネ6:37)

「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」これが今日私たちに与えられている御言葉です。主イエス・キリストが私たちを招いてくださっています。誰でも、私のもとに来なさい、と。私は誰も追い出さない。キリストは私たちが例えどんな者であったとしても、ほかの誰にも見向きもされず忌み嫌われていたとしても、私たちを招いてくださっています。そのようにしてキリストに招かれた者の群れである教会に生きる私として、私たちは生きることが許されています。
「ああ、主よ、大いなる畏るべき神よ、主を愛し、その戒めを守る者には契約と慈しみを守る方。私たちは罪を犯し、過ちを犯しました。」
主のみもとには、圧倒的な赦しがあります。私たちが自分で自分を赦せず、受け入れることが全く不可能なときにも、キリストの赦しは変わりません。私たちはただただキリストを愛し、圧倒的に私を慈しんでくださるお方に祈りを捧げているのです。
あるキリスト者が、自身の最期を迎えるにあたって息子たちに残した言葉を聞かせて頂きました。主を賛美し、主を愛して生きていこうと、力強くおっしゃっていました。私たちにできるのはそれだけです。圧倒的な愛で私たちを救ってくださったお方を私たちも愛し、このお方のすばらしい恵みをほめたたえます。そのために私たちは生きている。あなたも、圧倒的なキリストの愛で赦された罪人の群れ、教会の一員なのです。

2026年4月27日月曜日

2026年4月27日の聖句

あなたの業があなたの僕らに
輝きがその子らに現れますように。(詩編90:16)
野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(ルカ12:27)

何を着て生活するのか。それは、周りの人に自分をどう見せるかということでもあります。着やすくて便利だからと言って寝間着で出歩くわけにはいきませんし、ジャージで大切なお客様を迎えることもできないでしょう。TPOに合わせて身に着ける衣服を選ぶということは、大切な社会性の一つです。
しかしそれはときに必要な社会性という範囲を超えて、自分をあまりにもよく見せたいという願望と隣り合わせにもなります。主イエスは「野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」とおっしゃいます。神が父としての慈しみをもってあなたを装ってくださる。何を着るかということで思い煩うな、と言われるのです。
私たちは、栄誉をキリストにお返しする生き方をしているでしょうか?自分が輝くことを求めて生きているのか、神の輝きが明らかにされることを求めて生きているのか?私たちの生きる目的は自分が輝くことなのか、神の輝きを礼拝することなのか。今日私たちは、衣服を切っ掛けとして、聖書からそのようなことを問われているのではないでしょうか。

2026年4月26日日曜日

2026年4月26日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた。(2コリント5:17)

今日の聖句:
神は人間をまっすぐに造ったのに
人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。(コヘレト7:29)
実に、救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。(テトス2:11~12)

今日は教会の暦では「復活節第4主日」と言いますが、この日曜日は「よろこべ」という別名が付けられています。イースターからペンテコステまでの復活節には、それぞれにそのような別名が付けられているそうです。(由来までは調べきることができませんでした。)「よろこべ」というのは、ステキな日曜日の名前です。主イエス・キリストの復活から生まれる喜びを共に喜び、神を賛美する。それが私たちの信仰生活です。
改めて思います。私たちの喜びは、キリストの御復活から生まれるものなのか、あるいは、不敬虔とこの世の欲から生まれるものか。自分の欲を満たすことを密かな喜びとし、「本音」としているのではないか。
今週の聖句は「誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者、古きは過ぎ去り、新しきものが生じた」と言っていますが、キリストにあって新しくされる出来事は、私たちの喜びを新しくしてしまったのではないでしょうか。キリストにある喜びこそを私たちの本音に造りかえてくださった神さまの出来事は、この私のうちに起きている。そのことを、神さまがしてくださったこととして信じたい。そう願います。

2026年4月25日土曜日

2026年4月25日の聖句

神が地のしえたげられた者を救うために
裁きに立たれたとき
地は恐れて、沈黙した。(詩編76:9~10)
まず、福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない。(マルコ13:10)

神は地の虐げられた人を救うために裁きに立ってくださるお方です。これは、神さまがこの世界を何のためにお造りになったのかということを示す言葉です。すなわち、神さまはこの世界を悪や虐げ、搾取や暴力に支配させるためにお造りになったのではない、ということです。神さまは愛と慈しみを実現するためにこの世界をお造りになりました。「極めて良い」と言って祝福するために、神さまは天と地とそこにあるすべてのものをお造りになったのです。
強い者が弱い者を虐げ、富んでいる者が豊かさを独占し、暴力によって相手に言うことを聞かせ、他人のものを搾取することで自分の良くを満たすなら、それは神さまの創造の御心を踏みにじっていると言わねばならないのではないでしょうか。この世界の「現実」は、そうではないのかもしれません。力や豊かさが幅をきかせているかもしれない。しかし、「現実」がそうであるということと、それが神の義に適っているかどうかは別問題です。私たちは何にしたがって生きるのでしょうか。
福音というのは、神の国と神の義が実現することです。神さまの御心がこの地になることが福音です。神の国は近づいたと主イエスは宣言なさいました。この宣言を聞いた私たちには、聞いた者としての責任があるのではないでしょうか。ほんの僅かにでも神の義に従う生き方をさせてくださいと祈ります。

2026年4月24日金曜日

2026年4月24日の聖句

新たなる地を耕せ。茨の中に種を蒔くな。(エレミヤ4:3)
(イエスの言葉)「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ9:62)

今日の新約聖書は、ある人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください」と言ったのに対する主イエスのお言葉です。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」ですから、この場合の「鋤に手をかける」というのは、主イエス・キリストに従って生きること、あるいは信仰者として生きようとすること、と理解することができると思います。
そして続けて「後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主はおっしゃっています。こちらも文脈から考えると、家族に別れを告げることについて「後ろを振り返る」と言っておられると理解するのが自然な流れです。そうすると、かなり厳しい言葉です。いや、受け入れがたい言葉と言った方がいいかもしれません。あまりに非常識です。キリストに従おうというときに、家族に一言別れを告げることはふさわしい振る舞いではない、と主イエスはおっしゃるのです。何も言わないで突然いなくなってしまったら大問題です。一昔の言い方をすれば「蒸発」でしょうか。あまりにも過激な御言葉ではないでしょうか。
主イエスは、私たちの肉のつながりを相対化なさいます。私たちの常識的な考えからすると、肉のつながり、あるいは血の結束がいちばん強い。家族の絆こそがもっとも優先すべき最優先の価値だと思っています。ところが主イエスはそれを絶対だとはおっしゃらない。かなり過激でにわかに受け入れがたい言葉です。しかし、もしかしたら、これはとても大切な招きではないでしょうか。主イエス・キリストは私たちを、血によらず、生まれによらず、あるいは育ちや豊かさにかかわらず、ご自分のものとしてくださいました。新しい神の家族である教会という共同体の一員にしてくださいました。かつてあなたが受けた洗礼は、実は、あなたを新しい家族の一員に迎える洗礼だったのです。今日一日かけてこの御言葉を深く思い巡らし、主の御前に、私はどういう共同体の一人として生きているのかを考えてみませんか?

2026年4月23日木曜日

2026年4月23日の聖句

天は主の天。
地は主が人の子らに与えられた。(詩編115:16)
それゆえ私は、天と地のすべての家族がその名を源とする御父の前で膝をかがめるのです。(エフェソ3:14~15)

今日私たちに与えられている新約はエフェソの信徒への手紙ですが、この手紙では既に第2章でこのように言っていました。「このキリストによって、私たちは両方の者(異邦人もユダヤ人も)が一つの霊にあって、御父に近づくことができるのです。ですからあなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です」(2:18~19)。私たちは神の家族だ、と言っています。ユダヤ人でも異邦人でも、つまり割礼があってもなくても、あるいはこれまでの生き方や文化や背景がどうであろうとも、どんな人も神の家族として結ばれる。
そのように話ながら、この手紙を書いた使徒パウロは言います。「それゆえ私は、天と地のすべての家族がその名を源とする御父の前で膝をかがめるのです。」私たちに、キリストにあって「家族」という名を与えてくださった神に膝をかがめ、私たちは神を賛美します。神の家族として、父なる神様の御前にあってこのお方を礼拝するのです。
私たち家族の目指すところはただ一つです。「天は主の天。地は主が人の子らに与えられた。」どうか私たちの今日一日がこのようにして神をほめたたえ、神を礼拝することを第一とするものとなりますように。どのような人間にも栄光を帰すことなく、人間を礼賛するのではなく、ただ神にのみ栄光をお返しすることができますように。

2026年4月22日水曜日

2026年4月22日の聖句

人がその子を育て上げるように、あなたの神、主はあなたを育んでくださったということを、あなたは心に深く知る者となっています。(申命記8:5)
聖書全体は神から与えられたもの。教えと戒め、矯正と義に基づく訓練のために有益なのです。(2テモテ3:16)

主なる神さまは私たちを信仰者として育み、養ってくださいます。聖書の御言葉によって、私たちを神さまの民の一員として育ててくださいます。「聖書全体は神から与えられたもの。教えと戒め、矯正と義に基づく訓練のために有益なのです。」聖書こそ、神さまが私たちに与えてくださった命のパンなのです。
ここで、この手紙を書いたパウロは「聖書全体は」と言っていることに注意したいと思います。「聖書の中であなたの心に響く言葉は、神さまからあなたへのメッセージです」とは言っていません。自分のお気に入りのところだけではない。「聖書全体」です。聖書を読んでいて理解不能なところとか、とても厭なところ、読まなかったことにしておきたいところも含めての聖書全体、です。聖書はそのすべてが私たちへの神さまからのメッセージです。
「人がその子を育て上げるように」と言っています。子どもを育てるためには、甘くて柔らかい食べ物だけではなく、苦かったりエグかったりする野菜も必要です。固い食べ物も必要です。神の言葉も同じです。読めば喜びに溢れるような御言葉が必要なのと同じように、固くて呑み込みがたい御言葉も必要なのです。
神さまの御言葉を愛し、まっすぐに受け止め、耳を傾けて聞き、従いましょう。そこに私たちの命があるのです。必ず、御言葉にこそ命があります。

2026年4月21日火曜日

2026年4月21日の聖句

しかし、あなたは変わることなく
あなたの歳月は終わることがありません。(詩編102:28)
私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように、アーメン。(ユダ25)

私たちは限りある存在です。私たちの命の日々は短いです。できることも小さな事に過ぎませんし、ほとんどのことに知恵が及びません。しかし、神さまはそうではありません。「しかし、あなたは変わることなく、あなたの歳月は終わることがありません」と詩編が言っているとおり、神さまは永遠のお方です。
永遠なるお方を前に、私たちができること、またするべきことは、このお方を賛美し、ほめたたえることではないでしょうか。「私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように、アーメン。」私たちは永遠の神さまの栄光をたたえ、礼拝します。すべての始まりよりも先におられ、すべてを完成させることのできるお方です。このお方が私たち限りある者を憶えていてくださる。このお方が私たちを愛してくださる。そのすばらしい知らせを私たちは頂いています。
昨日も今日も、そしていつまでも変わることのないキリストの恵みがあなたにありますように。

2026年4月20日月曜日

2026年4月20日の聖句

主が私の旅行に恵みを与えてくださったのですから、私を引き止めないでください。(創世記24:56)
(イエスの言葉)しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。(ヨハネ16:7)

主イエスさまはおっしゃいます。「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」十字架を前にした主イエスさまのお言葉です。十字架にかけられ、復活して天にお帰りになる。そうして私たちの目の前から去ってしまわれる。私たちは、今、弟子たちが主をその目で見、主の手に触れ、主と共に過ごしたのと同じように主と一緒にいることができるわけではない。弟子たちがうらやましいです。同じように主イエスさまのお顔を仰ぎたいし、主の御声をこの耳で聞きたいのです。しかし、主は言われます。「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」もしかしたら、主イエスさまは、私たちの方が使徒たちよりももっと幸いだ、とおっしゃっているのかもしれません。
なぜなら、「私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」からです。弁護者、それは聖霊のことです。聖霊という弁護者は、主イエスさまが神の御許に帰らなければ、そこから私たちのところへお送りくださらなければ、私たちのところには来ないのです。聖霊を頂いている私たちは、使徒たち以上に幸いだと主は言ってくださっているのではないかと思います。
十字架と復活、そして天へ帰る主イエス・キリストの旅路。そしてキリストに従う私たちの旅路。その道に祝福があるようにと主は言ってくださり、私たちの旅路を導くために弁護者・聖霊を私たちにお与えくださっているのです。

2026年4月19日日曜日

2026年4月19日の聖句

今週の聖句:
私は良い羊飼いである。羊は私の声を聞き分け、従う。私は永遠の命を与える。(ヨハネ10:27,28)

今日の聖句:
私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。(エゼキエル34:16)
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。(1ペトロ2:25)

主イエス・キリストは慈しみに満ちたお方です。本当に優しいお方です。私たちの羊飼いです。羊のようにさまよい、失われ、散らされ、傷つき、病む私たちを羊飼いキリストは愛し、育み、養ってくださいます。
「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。」
このお方の声を聞き分け、私たちの魂の牧者でいらっしゃるお方のもとへ帰りましょう。主イエス・キリストの慈しみに満ちた手の中に憩いを頂きましょう。このお方の慈しみはどのようなときにも変わることがなく、このお方の愛は絶対に確かです。あなたの目の涙をこの方が拭ってくださいます。
キリストの平和が今日もあなたにありますように。

2026年4月18日土曜日

2026年4月18日の聖句

あなたの神、主は焼き尽くす火であり、情熱の神。(申命記4:24)
このように、私たちは揺るがされない御国を受けているのですから、感謝しましょう。感謝しつつ、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていきましょう。(ヘブライ12:28)

主なる神さまは焼き尽くす火だ、と今日の旧約の御言葉は言っています。「焼き尽くす火」とはいかなる意味かと言えば、さらに続けて「情熱の神」と書かれています。これは新共同訳の訳文ですが、聖書協会共同訳では「妬む神」と翻訳しています。神は焼き尽くす火のように妬むお方だ、と聖書は言うのです。
私たちは、はっきり言って「神の妬み」ということをあまり考えません。神さまはもっと優しく、春の日差しのように、どんなときにもおおらかに包み込むお方でいてほしいと思っています。妬みなどという人間的な、しかもどちらかというと罪深そうな感情は神さまにふさわしくないと思い込んでしまっているのではないでしょうか。ところが聖書ははっきりと、神は妬むお方であり、しかもその妬みは焼き尽くす火のように激しいと言っているのです。
神さまは私たちに関心をお持ちの方です。私たちが、私たちの命の造り主である方、私たちを愛してくださっている方に向いて生きることを望んでおられます。私たちが自分の貪欲を神としたり、この世が礼賛する価値を神のように信じて生きることを妬まれる。私たちの愛がどこに向いているのかに神さまの関心が向けられているのです。
神さまの妬む愛の激しさを真剣に受け止めましょう。神さまは私たちと適当でいい加減な関係を結ぼうとなさらず、真剣にこちらを向き、私たちの真剣な愛を求めておられる。神を畏れ敬い、神に喜ばれるように仕えましょう。神さまが私たちに求めておられるのは、私たちが世の常識や自分の基準に対して完璧であることではなく、ただただ神さまだけを見上げることにおいて一途であることではないでしょうか。

2026年4月17日金曜日

2026年4月17日の聖句

(神よ、あなたは)地の深い淵から(私を)再び引き上げてくださいます。
私を大いなるものとし
慰めを与えてくださいます。(詩編71:20~21)
イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、その死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子を母親にお渡しになった。(ルカ7:14~15)

私たちは、私たちの愛する人についてもこの主イエスの御言葉を信じます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」主イエスがそうお語りくださり、私たちの愛する人のことをも起こしてくださることを私たちは信じます。若者も、年をっていても、誰であっても、キリストは御声をかけてくださって必ず起こしてくださいます。
あなたの愛する人、既に眠りについた人たちの話です。その眠りは、キリストに起こしていただくための眠りです。キリストの御声を聞くための眠りです。イエス・キリストは私たちがどんなに深い地の深い淵であっても呼び覚まし、私たちを引き上げてくださいます。主イエス・キリストに降りることのできない深みなどありません。陰府にまで降ったお方は私たちがやがて横たえられることになる地の深い淵にも来てくださいます。いや、既にキリストがそこにいて待っていてくださる。死んだときにもそこにキリストがおられるなら、それで良いのではないでしょうか。その事実こそが私たちの救いなのではないでしょうか。

2026年4月16日木曜日

2026年4月16日の聖句

主は言われた。「あなたは怒っているが、それは正しいことか。」(ヨナ書4:4)
あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36)

旧約聖書のヨナ書はとても面白い書です。ヨナという預言者がニネベという町に行くように神に命じられますが、ヨナはそれを拒みます。ニネベはアッシリアの首都です。アッシリアはやがてヨナの祖国イスラエルを滅ぼす国、ニネベはその中心地。敵の本部のようなもの。そんな相手に神さまのメッセージを伝えるなんてごめんだ、とヨナは神さまの命令を拒みました。その後、魚に呑み込まれるような大事件を経験しながら、ヨナは最終的にはニネベに向かうことになります。そこでニネベの人々に、神さまからのメッセージを伝えた。するとニネベの人々はそれを聞いて悔い改めました。これがまたヨナには面白くない。はっきり言って、ニネベの人たちには悔い改めずに滅んでほしかったのです。
ヨナが怒ったその日はとても暑い日だったようです。暑くて暑くて、ヨナは死んだほうがましだと言いました。そんなヨナに神さまは一本のとうごまの木をお与えになった。よい木陰ができてヨナは嬉しかった。しかし、すぐに虫が湧いて木は枯れてしまった。ヨナは怒りました。そんなヨナに主は問います。「あなたは怒っているが、それは正しいことか。」もちろんです。怒りのあまり死にそうです。ヨナは言います。すると、主なる神さまはヨナにおっしゃいました。お前は自分が植えたのでもなく一夜にして生えたとうごまの木を惜しんでいる。それならば、私がこの大いなるニネベの都を惜しまないはずがないではないか、と。
今日、私たちに主イエス・キリストの言葉が響きます。「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」父の慈しみは、私たちが思っているよりもずっと大きくて広いのです。私たちの敵にさえ向けられ、私たちが憎んでいる者をも神は慈しんでおられます。あなたはどう生きるのか、と主は私たちに問うておられます。

2026年4月15日水曜日

2026年4月15日の聖句

主の前に大いなる激しい風が吹き、山を裂き、岩を砕いたが、主はその風の中にはおられなかった。激しい風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。また、地震の後に火が起こったが、火の中にも主はおられなかった。しかしその火の後に、柔らかなそよ風のささやきが聞こえた。(列王記上19:11~12)
いまだかつて、神を見た者はいない。神御自身であり、御父と最も親しい交わりを結んでおられる御独り子だけが、誰が神であるのかを私たちに語り示されたのである。(ヨハネ1:18)

今日の旧約は預言者エリヤが神の山ホレブで経験した出来事です。山を裂き岩を砕くような激しいか善。地震。火。そのような力強く、いかにも神がかったような大きな出来事の中に神はおられなかった、と聖書は伝えています。
この時のエリヤの状況はどのようなものだったのか。エリヤの時代のイスラエルの王はアハブという人で、その妃はイゼベル。この二人は徹底して主なる神さまへの信仰を破壊し、バアルという異国の神を礼拝することをイスラエルに強いました。エリヤは350人ものバアル預言者と対決して勝ちましたが、イゼベルの怒りを買い、殺されそうになって逃げた。エリヤは疲れ果て、自分の死を望むほどになっていました。そんなエリヤを神は力づけてくださって、遂に彼はホレブまでたどり着き、上記の経験をすることになったのです。
このときのエリヤの状況を考え、彼の気持ちを想像すると、彼は何を求めていたのでしょうか。もしかしたら再びバアルの預言者に打ち勝ち、王妃イゼベルに対抗できるような神の力を見ることを求めていたのかもしれません。それこそ、山を裂く風のような力、大地を揺るがす自身のような力、すべてを焼き尽くす火のような力を。しかし、そういうエリヤの期待を裏切るようにして、柔らかなその風のようなささやき声の中に主はおられたのです。神は私たちの期待するような力や豊かさではなく、私たちの納得できるようなもっともらしさではなく、静かな語りかけによってご自身を現されるというのです。
それはまさに十字架にかけられたキリストにおいて神が示された、ということではないでしょうか。独り子イエスだけが私たちに父なる神様を示してくださいました。独り子なる神のへりくだりと弱さそのものである十字架にこそ、神の栄光は輝いています。キリストという小さなささやきの声に耳を傾けましょう。この世の大きな声の中でかき消されてしまいそうなこの御声こそ、私たちのための真理の声です。

2026年4月14日火曜日

2026年4月14日の聖句

ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、この僕の咎を取り去ってください。」(サムエル下24:10)
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)

神さまはご自分の義と真実を実現するためにこの世界をお造りになりました。神さまの慈しみに適う世界を、神はお造りになりました。その神さまの御心を踏みにじることは、私たちの罪です。神さまの愛を裏切り、隣人を損なう私たちのあり方は、神の慈しみの発露であるこの世界にふさわしくない。私たちの咎は神さまの愛への裏切りです。
ダビデがここで告白している罪は、イスラエルの王として行った国内の人口調査です。なぜ人口調査が罪なのか。その理由はここでは詳しくは説明されていません。恐らく、ダビデが国民を神のものではなく自分の所有物であるかのように考えた、ということが問題であったのではないかと思います。人口調査をしたダビデにとっての国民は自分のための豊かさをもたらす道具でした。結局、民の数を数えたことはダビデにとって良心の呵責になりました。そして言ったのです。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、この僕の咎を取り去ってください。」ダビデの咎は、主の厳しい裁きを招くことになりました。
しかし大事なことは、ダビデは間違いを犯してもなお神に告白する信仰をもっていた、ということです。私たちは過ちを犯すし、勘違いをし、神さまの御心を蔑ろにします。神が慈しみを込めて造ったこの世界や他者を自分のものであるかのように思い込み、神さまの愛を裏切ってしまう愚か者です。しかし、そのようなどうしようもない私たちの祈りに神は耳を傾けてくださいます。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、あらゆる不正から清めてくださいます」と書かれているとおりです。キリストの憐れみにすがって、今日の祈りの道を上りましょう。

2026年4月13日月曜日

2026年4月12日の聖句

私の時は御手の中にあります。(詩編31:16)
そこで、知恵のない者ではなく、知恵のある者として、どのように歩んでいるか、よく注意しなさい。(エフェソ5:15)

「知恵」とエフェソの信徒への手紙は言います。知恵のある者として、自分がどのように歩んでいるのかをよく注意しなさい、と。聖書は、知恵の初めは主を畏れることにあると言います。主を畏れ、主に従順になることから知恵が始まる。主を畏れる知恵のある者として自分がどのように歩んでいるのかに注意する。主の前に歩く者としてふさわしいのか?主に生かされた命を主に献げているのか?
「私の時は御手の中にあります。」今日の旧約の御言葉はそう言います。神さまの手の中に私の時がある。私の生きるときも死ぬときも、すべては神さまの慈しみに満ちた手の中にある。主を畏れる知恵を持って自分に注意を払うというのは、神さまの御手の中に私のすべての時間があるという事実に習熟することです。神さまに与えられている命であり、この時間だということを畏れ、神さまを敬うことです。
私たちの今日一日に何が待ち受けているのか、私たちには分かりません。しかしそのすべてを神がご自分の手の中に治めていてくださることを私たちは信じます。キリストの御名が崇められ、キリストに従う私として生きられますように。

2026年4月12日日曜日

2026年4月12日の聖句

今週の聖句:
神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3)

今日の聖句:
満たされよ、わが魂よ、再び安らぎのうちに。
主がお前に良いことをなしてくださっているのだ。(詩編116:7)
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:26)

主イエスさまが私たちのところへ来てくださって「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださる。これは、私たちが毎週礼拝で経験していることそのものです。キリストは私たちのところへ来てくださっています。私たちに平和の言葉を宣言してくださっています。キリストの平和が私たちを満たしています。
「満たされよ、わが魂よ、再び安らぎのうちに。主がお前に良いことをなしてくださっているのだ。」
今日の詩編も本当にすばらしい御言葉です。私たちも、自分の魂に語りかけましょう。「満たされよ」と。主はもうすでに私に良いことをしてくださっている。恵みの言葉を語ってくださっている。私たちはキリストの平和を頂いている。キリストの復活によって確かにされた平和です。キリストが私たちを訪れてくださることによって私たちにもたらされた平和です。私たちがどこにいようとも、主イエス・キリストの平和のうちに、私たちの新しい一週間の日々が始まります。

2026年4月11日土曜日

2026年4月11日の聖句

私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。(詩編38:5)
(その犯罪人は)そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ22:42~43)

今日の旧約で「咎」と翻訳されている言葉があります。原語ではアーヴォーンという単語です。これはとても意味が広い言葉です。犯してしまった「罪」、あるいはその「責任」、そして罪の結果生じる「罰」までを含む意味を持っています。その意味では、日本語の「罪」とか「罰」といった言葉とは語感が違います。しかし、私たちの実感としてはよく分かる、と思います。何らかの過ちを犯してしまったとき、その責任に苦しみ、あるいは自分がしでかしてしまったことから生まれた結果に自分も苦しみ、周りの人も苦しめている。自分ではどうやっても解決できなくなってしまう・・・。そのすべてがアーヴォーンです。私たちにも身に覚えがあることではないでしょうか。
「私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。」
私のアーヴォーンはもはや頭を越えてしまっている。自分で背負うことがもうできない。それはあまりに重くて私を押し潰してしまいます。
今日の新約は、主イエスが十字架にかけられた時のことを伝えています。両隣に二人の犯罪人が十字架にかけられていました。その内の一人が主に言ったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」すると主はこの人に言われました。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
自分のしてきたアーヴォーンを負いきることができず、最後は十字架にかかって責任を取らねばならない。いや、それでもその重荷のすべてを負えたことにはならない。この犯罪人も、私たちも、自分の頭を越えるアーヴォーンに押し潰されてしまいます。ところが主はそんな私たちに言ってくださるのです。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」私たちは、主が私を思い起こしてくださること、私を憐れんでくださることにこそ望みがあります。私は自分の責任を自分で背負いきることすらできない愚か者です。私のアーヴォーンは神に赦して頂くより他ない。キリストの憐れみにおすがりするしかない。主よ、私を思い起こしてください。それが私たちの祈りですし、主はこの祈りに既に応えてくださっているのです。

2026年4月10日金曜日

2026年4月10日の聖句

私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。(創世記28:15)
イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履物も持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。(ルカ22:35)

主の日の礼拝の最後の祝福の前に「派遣の言葉」というものがあります。私たちは神さまに呼び集められて礼拝を献げ、最後には再びこの世界へと派遣されていきます。私たちの家庭も、学校も、職場も、病院も、介護施設も、ありとあらゆるところが「神によって遣わされた場所」です。その遣わされた場で、私たちは主に託された務めに仕えます。私たちのしていることは主がお遣わしになったところで、主に委ねられた働きをしているのです。そして主は、私たちを遣わすにあたって私たちに必要なものをすべて備えてくださいます。
イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履物も持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。
財布も袋も履物も持たずにというのは、礼拝に行くときの恰好だ、という説があるそうです。魅力的な解釈だと思います。礼拝を献げた私たちは、この世界で生きていく時間にも主を礼拝する。そして礼拝する者として主の御業に仕え、主に委ねられことを遣わされたところでするのです。そのために必要なものは神が備えてくださいます。
「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。」この約束が今日も私たちを導き、支え、守ります。私たちは主に仕え、隣人を愛して、主に託された一日を生きていくのです。

2026年4月9日木曜日

2026年4月9日の聖句

神の前に言葉を注ぎ出そうと
焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。
神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。
言葉を控えよ。(コヘレト5:1)
(イエスの言葉)「あなたがたの父は、あなたがた求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(マタイ6:8)

主イエス・キリストは、父なる神様が私たちの求める前から私たちの必要をご存じだとおっしゃり、そうであるからこそこう祈れといって主の祈りを教えてくださいました。
主は、ここで私たちが祈りにおいて犯す過ちを指摘しておられます。人に見せるため、褒められるための祈り。くどくど長ったらしく祈るけれど、結局は神を信頼していない祈り。そのようなものではなく、神が父としてあなたを知っていてくださり、あなたに配慮してくださっていることを信じて祈る。人に見せるためではなく、ただ神の前で祈る。主はそのような祈りの心をお教えくださいました。本当に、そのように祈る者でありたい、と願います。
今日の旧約の御言葉を読むと、神を畏れることがどんなに大事なことかを教えられます。「神は天におられ、あなたは地上にいる」と言っています。神さまを本当に神さまらしく崇め、自分は神に造られた者としての分をわきまえる。しかも、天におられるお方が私のような者の父として愛してくださっている。祈りは、本当は途方もない営みです。神の大きさと、小さな私に向けてくださっている愛との両方を信じるところで生まれるのです。
神さまは、今日も私たちの祈りを待っていてくださいます。ですから、祈りましょう。何よりも先ず主がお教えくださったとおりに、主の祈りを祈ることから始めましょう。

2026年4月8日水曜日

2026年4月8日の聖句

寡婦、孤児、寄留者
貧しい者を虐げてはならない。(ゼカリヤ書7:10)
そうして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私がよそ者であったときに宿を貸してくれたからだ。」(マタイ25:34~35)

今私たちが聞いている毎日の御言葉は『日々の聖句』というヘルンフート兄弟団が出している聖書日課に従っています。一年365日、毎日の旧約の御言葉をくじで引き、それに相応しい新約の御言葉が添えられています。昨日の御言葉も今日の御言葉もくじで引かれたわけですが、なんと今日の旧約の御言葉は昨日頂いた御言葉と同じ趣旨のことを言っています。それに合わせた新約ということで、昨日とほぼ同じ箇所です(昨日は34,36節で、今日は34,35節)。
ただ、昨日の旧約は申命記でしたが、今日はゼカリヤ書です。内容は同じ主旨ですが、別々の箇所の御言葉です。つまり、聖書はいろいろなところでこのことを語りかけている、ということになります。「寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない。」聖書が考える社会正義は、弱い人たちを虐げることなく分かち合うことから始まる。それが聖書の一貫した主張なのだと思います。
預言者ゼカリヤは、ユダの国が捕囚から解放された時期の人物です。エルサレムの再建に携わっていたようです。崩壊した国を再建する。そういう状況を考えると「自分のことで精一杯」だったのではないかと思います。しかしそういうときにこの預言者は「寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない」と言いました。貧しい人と共に生きるところから私たちの再生は始まる、と説いたのです。驚くべき言葉です。私たちの社会の状況も日に日に厳しさを増しています。あなたはどう生きるのかと、私たちも主に問われているのではないでしょうか。

2026年4月7日火曜日

2026年4月7日の聖句

(主は)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。(申命記10:18~19)
そうして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が裸のときに着せてくれたからだ。」(マタイ25:34,36)

寄留者というのは、文字通り、一時的に滞在している人という意味です。従って、その土地に先祖代々住んでいる人とか、腰を落ち着かせて生活しそれが安定している人というのではありません。移民や難民という意味です。その人たちを愛しなさい、と聖書は私たちに命じます。この一事をもって、私たちには移民や難民を排斥するという選択肢はないということになります。主なる神様ご自身がこれらの人々を愛しておられ、食物や衣服といった生活必需品の配慮をしておられるからです。
現代社会でも、聖書の舞台となった古代の社会でも同じです。移民や難民のような寄留者は、社会を不安定にします。「よそ者」なのですから、先にいた人たちにとっては時に邪魔になるし、これまでの和や秩序を乱す存在です。しかしその人々を神が愛しておられ、そうであるからこそあなた方も彼ら彼女らを愛しなさいというのは、私たちにとってはかなり思い切ったご命令です。
私たちは主が寄留者を愛しておられ、主は私たちが寄留者を愛することを求めておられるという事実によって、知らされます。この世界は私たちだけのためのものではなく、自分たちの生活が安定することを目的としたものではない、ということを。よそ者であったり、時に邪魔になる人が共に生きられるように受け入れ、愛し合うことが、むしろ神さまの目的に合致しているのです。安定よりも、分かち合いを。秩序よりも、愛し合うことを。主は私たちに求めておられます。
ここで言う「寄留者」は、何か抽象的な「寄留者的存在」みたいな話ではなく、文字通りの寄留者のことに違いありません。それは今日本にも増えつつある移民であり、あるいはこの国が排除しようとしているオーバーステイの人々や、社会が犯罪者扱いしている外国人のことです。そして日本がかたくなに受け入れようとしない難民のことです。この人たちを愛しなさい、と主は私たちの愛を試しておられるのです。

2026年4月6日月曜日

2026年4月6日の聖句

主は民をご自分の瞳のように守られる。(申命記32:10)
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38~39)

今日の新約の御言葉は、私の最愛の聖句の一つです。私たちは、移ろいます。心も、生き方も、不確かです。そして信仰も。神さまを信じる思いが揺らいでしまうこともあるし、かつての情熱は消え去って冷めた信仰生活を送るときもあります。祈っても独り言のような気がして空しくなることもあるし、聖書を読んでも他人事のようで全然面白くもなく興味も湧かないということだってあります。私たちは移ろいます。人間ですから。
しかし、神さまは人間ではありません。そうであるからこそ、神さまの愛はどんなときにも決して変わることがないし、取り消されてしまうことはありません。その確かな愛によって私たちはいつ、どんなときにも神さまに掴まれています。
「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」
私は決して神さまから離れません、とは言っていません。私の信仰の確かさや私の決心の固さが問題なのではない。神さまの側の話をしています。神の愛が私たちを掴んではなさい、誰もそこから私を引き離すことはできない。私たちが信じられるのは、神の愛の確かさだけです。そして、それだけで十分です。
自分自身のことではなく神の愛の確かさ、それだけを信じましょう。そのことにおいて確信をもちましょう。自分から目を離して神さまに私たちの眼を向けましょう。「主は民をご自分の瞳のように守られる。」これは確かな知らせです。

2026年4月5日日曜日

2026年4月5日の聖句

今週の聖句:
わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(黙示録1:18)

今月の聖句:
あなたはわたしの敵の前で、私の前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます。(詩編23:5)
最後の敵として滅ぼされるのは、死です。(1コリント15:26)

キリストは甦りました。主は生きておられます!私たちを縛り付ける力、それが死や滅びをこの世界にもたらす悪であろうと、この世を支配する暴力であろうと、それがキリストの復活の力に勝つことはできません。主は甦られた!主イエス・キリストは死に打ち勝たれたのです。それが私たちが頂いた福音です。「最後の敵として滅ぼされるのは、死です。」
キリストの勝利を祝って、私たちはイースターを喜びます。イースターの朝の賛美を歌います。私たちが十字架につけて殺したキリストは甦りました。すべては新しくなったのです。人を抑圧したり、人から奪って豊かになったり、もっと強くなって相手をやっつけたりすることが「現実」なのではない。キリストの甦りこそが新しい現実です。
今この世界で起きている戦争や貧困など、人間の悪から始まった死の支配を、必ずキリストが征服し、神の国をこの地に来たらせてくださる。私たちはそのことを信じて、今日、神の御前に祈りましょう。「御国を来たらせたまえ!」

2026年4月4日土曜日

2026年4月4日の聖句

万軍の主よ
あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。(詩編84:2)
わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。(ヨハネ14:2)

今日の聖書の御言葉を読んで思い起こした詩編があります。新共同訳でご紹介します。
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(詩編27:4)
主の宮、主の家を私たちは慕い求めます。「万軍の主よ、あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。」主の御側近くに私もいさせてください。私たちはそう願い求め、そう祈ります。主の家に、主の宮に帰ることを、私たちは願っています。
実は、毎週、私たちは主の家に帰る経験を重ねています。神を崇めるために神の民が集まる家、礼拝の民である教会です。私たちは神の家に帰って神を礼拝し、新しい一週間に出て行きます。
今、礼拝に出にくい方、教会堂にまで足を運ぶことが困難な方たちのために、教会は祈ります。主の家を慕う私たちは神に祈ります。自分の信仰のためにも、仲間たちの礼拝生活のためにも。
「私の父の家には住むところがたくさんある」と主イエスはおっしゃいました。教会には、あなたの場所があります。私たちは神の家で神を礼拝します。そして、やがてキリストが準備してくださった父の家に帰る日が訪れるのです。
キリストの祝福と恵みによって、今日もあなたの祈りの歩みが守られますように。

2026年4月3日金曜日

2026年4月3日の聖句

主を賛美せよ、すべての国よ。
主をほめたたえよ、すべての民よ。(詩編117:1)
(玉座の周りにいる)天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を、受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)

賛美は新しい世界を開く想像力です。
私たちの目に映るものは、この世の繁栄であり、富であり、力であり、それを独占する人、抑圧された人、戦争で命を奪われる人、それを指示する人です。この世界の力の物語は、十字架は、イエスの神の国運動や愛の行いの失敗だとします。
しかし、賛美は新しい世界を想像します。私たちの目には見えないけれど、神の救いが確実に進んでいる世界です。私たちの目に映るところはそれと矛盾するけれど、確かに神の愛が向けられている世界です。
「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を、受けるにふさわしい方です。」
屠られた小羊、それはキリストです。このお方にこそ私たちの救いはある。この世の力が最後まで意味のある力なのではありません。この世の富はいつか朽ちます。この世の知恵は限りあるものでしかないし、その限界を忘れれば化け物の知恵になってしまいます。この世の威力は暴力と嘆きを生みます。この世の誉れはそれを独占する者と奪い取られる者とを生みます。この世の栄光が賛美される世界は、地獄です。しかし、本当はそうではない。屠られた小羊こそがそれらすべてを受けるにふさわしい方!神とそのキリストを賛美することこそが私たちの真の救いなのです。
「主を賛美せよ、すべての国よ。主をほめたたえよ、すべての民よ。」そこにこそ私たちの救いがある。私たちの目の前に広がるこの世界の様相の圧倒的な力。しかし、それにもかかわらず、神は必ず私たちをご自分の民とし、私たちの救いでいてくださることを私たちは信じます。

2026年4月2日木曜日

2026年4月2日の聖句

幸いな者、ヤコブの神を助けとし
望みをその神、主に置く人。(詩編146:5)
また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイ28:27~28)

私たちの助けは、主イエス・キリストにある。私たちはそう信じています。キリストが私たちのために肉を裂き、血を流してくださった。その肉と血を頂く聖餐の食卓こそ、私たちの命の食卓です。キリストはご自分の御言葉の通りに生きられました。ご自分を私たちのために献げ、私たちを愛するためにご自分のすべてを傾けてくださいました。そのキリストが「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」と言ってくださる杯こそ、私たちの救いです。
この杯について、主は「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」。契約の血、と主は言われます。この「契約」は、かつてヘブライ人たちがエジプトを脱出したときに神が起こした過越の血、あのときに結ばれた契約のことです。エジプトで奴隷であった民をご自分のものとするために、神は大いなる御業を行われました。過越の血は、彼らが神のものとされたことのしるしです。キリストはご自分の流す血こそが究極の過越の血だと言われます。私たちはキリストが流した血によって、永遠に神の民だというしるしを付けられたと主は言われるのです。
私たちはキリストを「私の救い」と信じ、主に望みをおきます。私たちが十字架に掛けて流したこのお方の血が私たちを救ってくださることを信じます。私たちはこのお方がいなければ生きられない。その事実が私たちの原点なのです。

2026年4月1日水曜日

2026年4月1日の聖句

今月の聖句:
イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)

今日の聖句:
私は大いなる集いの中で、あなたに感謝し、
多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。(詩編35:18)
すべての舌が
「イエス・キリストは主である」と告白して
父なる神が崇められるためです。(フィリピ2:11)

今日、私たちの舌に上る言葉が「イエス・キリストは主である」と告白し、父なる神を崇める声でありますように。私たちの心に思うことが主をほめたたえ、私たちの行いが神の前にひれ伏すものでありますように。
今日の詩編は歌います。「私は大いなる集いの中で、あなたに感謝し、多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。」賛美は、「大いなる集会の中で」「多くの民の中で」献げられる、とこの詩編は言っています。私たちは神の民の一員としてキリストに賛美を献げます。共にキリストの前で身を低くして祈ります。私たちは神を崇めることで一つに結び合わされるのです。
受難週の木曜日を迎えました。パンを裂き、杯を取り、祝福して与えてくださったキリストを思い起こしましょう。十字架に掛けられたキリストの御前にひれ伏し、このお方を崇める一日を過ごしましょう。

2026年6月30日の聖句

立ち帰れ、背信の子らよ。 私こそがあなたがたの夫なのだから。 私はあなたがを選び取り、シオンに連れて行く。(エレミヤ3:14) ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、いけにえ...