2019年9月12日木曜日

箴言6:20~35「心に結びつく声」


父の戒め、母の教え。それは聖書の教えのことであろう。それを心に結びつけ、首に巻き付けよという。それは「目覚めればあなたに話しかける」からだ。実のところ、私たちに語りかける声は多い。特に現代になって、声や文字を通してたくさんの情報がもたらされるようになった。ところがそのすべてが有益ではない。24節以降で言っている姦淫の罪へと誘う言葉に溢れている。だからこそ命の道である主の戒めの言葉を心に結びつけよう。

2019年9月11日水曜日

2019年9月11日(イザヤ書25〜26)

今日の通読箇所:コロサイの信徒への手紙1、イザヤ書25~26

イザヤ書25~26;
「主はこの山で、すべての民の顔を覆うベールと、すべての国民にかぶせられている覆いを破り、死を永遠に呑み込んでくださる。主なる神はすべての顔から涙を拭い、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた(25:7~8)」。
ここで「すべての民の顔を覆うベール」と言っているのは、何のことでしょうか?すべての国民に覆いがかぶせられている、と言っています。顔をベールが覆っていれば、顔と顔とを直接合わせる妨げになります。ベールをかぶっている人の素顔がどういうものなのか、周りの者には分かりません。逆にベールの中からも、恐らく見にくいのだろうと思います。このベール、顔の覆いは、ここでは、死という隔ての象徴であるように思います。死が壁のように立ちはだかって、私たちは神様の救いをしっかりと見ることができない。死が、私たちと神様との間を邪魔している。
しかし、主は「この山」で、そのベールを破ってくださる、と言います。「この山」というのは、富士山とか丹沢とか、そういう具体的などこかの山ではなく、象徴的な意味であろうと思います。思えば、モーセはシナイ山で神と顔と顔とを合わせて語りました。同じように、神様が私たちとも顔と顔とを合わせて親しく出会ってくださる時が来る、と約束します。その時には、死は滅ぼされる。私たちの目からは涙が拭い去られる。私たちは死から救われる。その時が必ず来る。聖書は、私たちにそう約束します。「あなたの死者は生き返り、私の屍は立ち上がります。塵の中に住む者よ、目覚めよ、喜び歌え。あなたの露は光の露、地は死者の霊に命を与えます(26:19)」。神が、私たちを、死者の中から起こしてくださる救いの時が必ず来る。預言者はそう宣言しています。
使徒パウロは言いました。「実際、今日に至るまでモーセの書が朗読されるときは、いつでも彼らの心には覆いがかかっています。しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります(コロサイ3:15~17)」。私たちに命を得させるために、神の霊が私たちのベールを破り、神ご自身が私たちに顔を合わせて出会ってくださる。それは、死を越えた私たちの望みです。

2019年9月10日火曜日

2019年9月10日(イザヤ書23〜24)

今日の通読箇所:フィリピの信徒への手紙4、イザヤ書23~24

イザヤ書23~24;
「地は乾き、しぼみ、世界はしおれ、しぼむ。天と地は共にしおれる。地はそこに住む者たちの下で汚された。彼らが律法に背き、掟から逸脱し、永遠の契約を破ったからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者たちは罪の負い目を受ける。それゆえ、地に住む者たちは減り、僅かな人間だけが残される(24:4~6)」。
神様は、私たちのために律法を定めてくださいました。私たちがこれに従って生き、幸いを得るために。神様が与えてくださった律法は、私たちに向けられた神様の御心そのものです。私たちがこのように生きてほしいという、神様の願いです。その神様の願いが、法という形で与えられています。法という形式を採っていることが、とても大事なのではないかと思います。
ですから、そのことを受け継いで、教会も法によって支配されています。法が支配するというのは、人が支配するのを防ぐために定めます。牧師にも長老にも、自分の好きなように教会を支配することは許されていません。神様の御心を尋ね求めながら教会が定めた法に従って、私たちの教会は地上での営みを重ねていきます。
あるいは、国家も法に支配される存在であるはずです。国権の最高機関に付託されているのは、立法の権威です。法を定める国会それ自体も、憲法という「法」に支配されます。ですからどんなに偉い人でも法に従わなければならないし、憲法に従うことは政策の問題ではなく、権力を預けられた議員の義務です。そこには右も左もありません。
まして神がお与えになった法を人々が蔑ろにしたとき、一体何が起こったのか。天も地もしおれた、といいます。呪いが地を食い尽くしたと言います。そこで受けているのは、私たちの罪の負い目です。
法が蔑ろにされている私たちの社会は、私たちのことも、この造られた世界そのもののことをも、決定的な仕方で損なってしまっているのではないでしょうか。
「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」私たちは、今朝、そう祈って新しい日を始めましょう。

2019年9月9日月曜日

2019年9月9日(イザヤ書21〜22)

今日の通読箇所:フィリピの信徒への手紙3、イザヤ書21~22

イザヤ書21~22;
セイルから私を呼ぶ者がいる。「見張りの人よ、今は夜の何時か。見張りの人よ、今は夜の何時か。」見張りは言った。「朝は来る、だが、まだ夜だ。尋ねたければ尋ねよ。もう一度来るがよい。」(21:11~12)
讃美歌の236番に「見張りの人よ」という曲があります。このイザヤ書の御言葉から作詞されています。「見張りの人よ、夜明けはまだか。いつまで続くこの闇の夜は」。これはアドベントに歌う讃美歌です。この闇の中にある世界で主イエスを待ち望む信仰に生きる、希望の讃美歌です。この讃美歌では、先ほどの歌詞に続けて見張りの人からの返答としてこのように歌います。「旅ゆく人よ、東の空にあけの明星、ひかり輝く」。あけの明星、それは主イエスです。キリストという夜明けを告げる星が輝いている。夜明けは誓い。必ず朝は来る。しかし、私たちは知っています。日が昇る直前、夜明け前の時間こそ、一日の中で一番冷え込む時間帯でもあるということを。夜明けを待ち望むそのときこそ、一番夜が更けているときでもあるのです。しかし、朝を焦がれるものに、必ず朝は来る。預言者はそのように語ります。
主は、夜明けを待ち望むものに呼びかけておらます。「その日、万軍の主なる神は『泣き、嘆き、神をそり落とし、粗布をまとえ』と呼びかけられた。ところが、お前たちは喜び祝い、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、酒を飲み、『食べたり飲んだりしよう、どうせ明日は死ぬのだから』と言う(22:12~13)」。彼らにとっての「明日」は、希望の夜明けではありませんでした。絶望、諦め、いや、そもそも「明日」が来るなどとは誰も真剣に考えていなかったのかもしれません。明日が来る。それは、信仰に属する確信です。神を信じるところで与えられる望みです。だから、私たちは希望を持って告白します。明日は来る。救い主が私たちのところに来てくださる明日は来る。この世界に、この痛んでいる私たちのところに、救い主は再び来てくださる。この望みによって、私たちは新しい一日に送り出されていきます。

2019年9月8日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章35から41節「この体は救われうるのか?」


 先週の木曜日に、私の卒業した東京神学大学の学長をしておられる大住雄一先生が亡くなりました。旧約聖書神学がご専門で、私も教えていただいた者の一人です。私が最も尊敬する旧約学者でした。神を畏れ、身をかがめて生きることに、はっきりとした思いを持っておられた方だと私は受けとめています。教会は人間主義的な「良い事」を語ってみせるのではなく、しっかりと聖書が伝える主イエス・キリストの福音を語ろうと力強くおっしゃっていました。まだ64歳での急逝でしたので、とても驚き、また悲しい思いでいます。そんな私にとって、今朝の御言葉の始まりは、いささかショックでした。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。」愚かな人だとは穏やかならざる言葉です。私たちにとっては、大切な人が亡くなったときに、今あの人はどうしているのか、神さまはあの人をどうやって復活させてくださるのか、そういうことが気になるのは人間としてある意味当然なのではないでしょうか。それにたいして愚かだとまで言われると、少し躓いてしまいます。
 何年か前に「千の風になって」という歌が大ヒットしました。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、眠ってなんかいません。千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています。」もともと外国の方が作った詩ですが、日本人の死生観に見事にマッチしたのでしょう。多くの人の心を捉えたようです。しかし、この詩は死と向き合い損なっています。
 あるいは、宗教改革はルターが贖宥状を巡って疑問を呈したことに始まりましたが、贖宥状も愛する者の死の問題です。愛する者が死んだとき、罪のために煉獄で苦しみ、その日で魂が浄化されなければならない。贖宥状を買うとその苦しみを縮めるために功徳を融通する効果があるとされました。
 「千の風になって」も、贖宥状も、愛する者の死という危機の中での呻きのように聞こえます。ルターは贖宥状を買って功徳をお金で融通するのは間違っている、と言いました。いや、問題の根はお金ではない。私たちは功徳で救われるのではない。ただキリストを信じる信仰によってのみ救われるのです。キリストが私たちを死から救ってくださる。「愚かな人だ」とパウロは言います。なぜそこまで激しい言葉使いをするのか。コリント教会の人びとが、キリストとの関係を見失っていたからです。自分自身や愛する人の死に際して、キリストを消し去っていたからです。キリストの復活こそが、あなたを、あなたの愛する人を、死から救うのです。神学校での伝道者養成に生涯を献げた大住先生でしたが、伝道者になるというのは、キリストの復活の証人になることだとおっしゃっていました。人間主義的な良い言葉、すばらしい人生訓。いろいろな言葉がこの世界にはあります。しかし、私たちを死から救うのはキリストの復活の知らせなのです。
 私たちの肉体をどんなに熱心に見つめても、復活しそうな要素は見つかりません。種粒は、小さくて地味な砂利のようです。しかしその死んだ種粒から美しい花を咲かせてくださるのは、神の御業に属しています。死んだものから神に与えられた命が芽吹くのです。それは、ただただキリストの故。キリストの復活の命に、神は私たちをも与らせてくださる。その救いが、ここにあります。

2019年9月8日(イザヤ書19〜20)

今日の通読箇所:フィリピの信徒への手紙2、イザヤ書19~20

イザヤ書19~20;
「その日には、イスラエルは、エジプトからアッシリアまで大路が敷かれ、アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人と共に主に仕える。
その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアに続き、地上のただ中において祝福される第三のものとなる。万軍の主は祝福して言われる。『祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエルに』と(19:23~25)」。
エジプトもアッシリアも、イスラエルにとっては敵です。自分たちを抑圧し、ついには滅ぼしてしまう恐るべき敵です。しかし、神様にとっては、彼らもご自分の手による一つの民に過ぎません。だから、エジプトもアッシリアも、やがては主に仕える、と言われます。そのための大路を主が敷かれる。一から十まで神様が主導権を握ってそのようになさるのだ、と宣言されています。
注目すべきは、そのような主の日、救いの日に起きることは、「イスラエルは・・・地上のただ中において祝福される第三のものとなる」というところです。エジプトとアッシリアの次に祝福を頂くことになる。敵だと思っていた存在が自分よりも先に神の祝福を頂くというのは、心穏やかには聞けません。それは、私たちと神様との、圧倒的なスケールの差なのかもしれません。神様からご覧になったら、すべてはご自分がお造りになったものなのですから。「祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエルに(25節)」。
私たちの想像を超えて遙かに大きく、広がっていく神の祝福が、今日、あなたの上にありますように。

2019年9月7日土曜日

2019年9月7日(イザヤ書16〜18)

今日の通読箇所:フィリピの信徒への手紙1、イザヤ書16~18

イザヤ書16~18;
「その日には、人は造り主の栄光を仰ぎ、その目はイスラエルの聖なる方を見る。もはや、自分の手で造ったものである裁断を仰がず、自分の指で造った、アシェラ像や香の祭壇を見ることもない(17:7,8)」。
偶像礼拝という言葉がありますが、これは、単に刻んだ彫像のようなものを拝むということではないと思います。少なくとも、それだけではない。むしろ、私たち人間が自分の欲望を神とすること、あるいは神を礼拝しているようでも自分の理想とする神のイメージを押しつけること、それが偶像礼拝の本質です。ですから、私たちには、まことの神を礼拝しているつもりでありながら実のところ偶像を礼拝している、ということがしばしば起きてしまいます。
しかし、その日、主の栄光の日、もはや私たちは聖なるお方、神のみを見るようになります。自分自身の手、あるいは自分の願望が造り出した神の像を見ることはなくなる。私たちが、私たちのためではなく、本当に神の前にひれ伏し、礼拝するために神を見る日が来る。預言者はそのように言います。
私たちの心がどうしようもなく偶像に傾いてしまう理由について、預言者はこのように言います。「あなたは救いの神を忘れ去り、自分の砦である岩を心に留めることはなかった。それゆえ、あなたが好みの植木を植え、そこに他国の枝を挿し、植えたその日に成長させ
、蒔いたその朝に芽を出させても、病と癒やしがたい痛みの日が来て、収穫は消え去る(11節)」。私たちが偶像に傾いてしまうのは、私たちが救いの神を忘れているからだと訴えます。私たちを救ってくださる岩を忘れて、自分の願いが叶うことこそ私の救いと勘違いしてしまうことが、私たちを偶像に誘います。ですから、私たちが、私たちの真実な救い主、イエス・キリストのものであることを心に留めていたいと願います。そうでないと、私たちの願望は結局は私たちを傷つけ、損なってしまう。私たちは、私たちのためにすべてを献げてくださったイエス・キリストに祈り、この方を礼拝し、この方のものとして生きるとき、本当に癒やされ、慰めを得、そこに救いがあることを知るのです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...