2021年12月14日火曜日

2021年12月14日の聖句

私は地では旅人です。(詩編119:19)
ですから、自分がどう歩いているか、こまかく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵ある者として、機会を十分に生かしなさい。(エフェソ5:15~16)

今日の旧約聖書と新約聖書は、とても面白い組み合わせだと思います。私は地では旅人。旅人には旅人としての歩き方がある、と言うのです。それは「知恵のない者としてではなく、知恵ある者として、機会を十分に生かす」という歩き方です。
旅の一つの醍醐味は、予期せぬ出来事だと思います。私はあまり予定を立てないで知らない町を歩くのが好きです。何年か前にブラジルに行ったときのこと。日本への帰り道だったと思いますが、飛行機の乗り継ぎのために米国の空港で長い時間待たされたことがありました。せっかくなので町に出てみました。公園に行ったり、町の様子を眺めたりして過ごし、インターネットでどういう町なのかを調べてみると、キング牧師にゆかりのある教会があることが分かり、そこまで行ってみることにしました。キング牧師の父親がかつて牧師として仕えていた教会で、若き日のキング牧師もその教会の副牧師を務めたのだそうです。簡単なミュージアムがあって、思わぬかたちで尊敬するキング牧師の足跡をたどることができました。旅の途上での一つの出会いだと思います。
旅人としての歩き方。知恵を使って、機会を十分に生かす。それは一つの言い方をすれば、出会いの機会を逃さないということではないでしょうか。旅では思わぬ出来事に遭遇するし、思ってもみなかった人と出会います。出会いは神さまからかけがえのないプレゼントです。人との出会いを通じて、思ってもみなかった出来事との遭遇を通じて、私たちは新し思いをもって神様と出会い、より深く神さまと交わることができます。
この出会いに気づくためには知恵が必要です。神さまが起こす新しい出来事に開かれた柔らかい心が必要です。私たちを新しい世界へ導く神さまの「時」が、私たちの前にも開かれている。それは時には嬉しい出会いばかりではなくて、歓迎したくないような出会いもあります。しかしそういう厭なことからでも神さまはすばらしい世界を開くことがおできになります。神さまを信頼する知恵が必要です。新しい出会いを主にあって期待する知恵が出会いの喜びを広げます。今日もお一人おひとりの旅路に、神さまの祝福がありますように。

2021年12月13日月曜日

2021年12月13日の聖句

主よ、小さい者たちが辱められることのないようにしてください。(詩編74:21)
エリサベトの隣人や親類は、どんなに大きな慈しみを主が彼女に示されたかを聞き、共に喜んだ。(ルカ1:58)

エリサベトは二つの意味で「小さい者」の一人だったのではないかと思います。一つは、女性であるということ。2000年前のユダヤの社会では、男と女はまったく違う扱いを受けていました。人数を数えるのは男だけ、遺産を受け継ぐ権利も基本的に男だけ。そういうことから始まって、生活のありとあらゆるところに及びます。
もう一つには、彼女には子どもがいませんでした。イザヤ書54:1にはこのような言葉があります。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。」これは主なる神様の呼びかけ、祝福の言葉です。逆説的に、子を産んだことのない人がどれだけ差別され、生きにくかったのかということがよく分かります。世から受けることのなかったすべての報いを、主なる神様御自らが与えようと約束しておられるのです。
エリサベトはザカリアという祭司の妻でした。この夫婦について聖書はこのように言います。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年を取っていた。」今日の旧約聖書では「主よ、小さい者たちが辱められることのないようにしてください」と祈っています。小さい者というのは、社会によって「小さくされている者」です。そして、何らかの烙印を押されて恥を負わされている。「私は恥ずかしい存在だ」と思わされるような呪いを社会にかけられている人々です。
神さまは、エリサベトとザカリアの夫婦に赤ちゃんを与えてくださいました。しかしそれは小さくされていた人が単に大きな人になった、という話ではありません。子供の出産にあたって、ザカリアは口が利けなくなりました。彼自身と神さまとの関わりを問われてのことです。夫妻にとって赤ちゃんが生まれるまでの時間は、静かに神さまの前に祈るときになったはずです。「エリサベトの隣人や親類は、どんなに大きな慈しみを主が彼女に示されたかを聞き、共に喜んだ。」ここに現れたのは、主がいつも関わり、例え他人や自分が恥の烙印を押しても決して慈しむことをやめない神さまの愛です。神さまは、どのようなときにも、あなたに向ける慈しみを変えることも、なくしてしまうこともなさいません。今日もキリストの祝福があなたにありますように。

2021年12月12日日曜日

2021年12月12日の聖句

私は私の聖なる名を知らせる、私の民イスラエルの中に。(エゼキエル39:7)
イエスは祈られる:私は彼らにあなたの御名を知らせ、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。(ヨハネ17:26)

名前というのは、他と区別をするために必要なものです。同じように赤い太陽でも、朝に昇ってくるから朝日と呼ばれ、夕方に沈んでいくから夕日と呼ばれます。私の名前も、宮井という家族の一員であり、その中でも他の人間と違う岳彦という人間を表すものとして使われます。
そう考えると、本来神さまには名前は必要ないはずです。八百万の神か何かであれば名前がないと区別がつかないので必要かもしれません。しかし真の神さまは唯おひとり、唯一無二の方ですから、神であるということ以外の名前は必要ないはずです。あるいは名前をお持ちでも、それを私たちに知らせる必要はありません。ところが神さまは「主」というご自分の聖なるお名前を私たちに知らせてくださいました。これは主なる神様のへりくだりです。私たちが主とお呼びすることを喜んでくださる。神さまの私たちへの愛です。
「私は彼らにあなたの御名を知らせ、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」主イエスさま御自身が、神さまのお名前を私たちに伝え、神さまの愛を私たちに知らせるとおっしゃいます。主イエスさま御自身が神さまから受けた愛によって、私たちを包んでくださる。私たちが神さまを知り、そのお名前を知って祈るとき、私たちは神さまの愛の中に生きているのです。
主イエスは、私たちに「父よ」と祈ることを教えてくださいました。神さまは主イエスさまにあって、ご自分の「父」というお名前を教えてくださった。この方は、すべての父と呼ばれる者の父です。この方は、全き、絶対的な愛のお方です。私たちのために謙って名前を教え、私たちが「父よ」とお呼びして祈ることを喜んでくださり、私たちをご自分の愛の中に生かすことを御自身の喜びとしてくださったのです。ですから、私たちは祈りましょう。「主よ」と。「父よ」と。そしてこのお方の愛の中に憩いを頂きましょう。

2021年12月11日土曜日

2021年12月11日の聖句

神はもろもろの民の計画をくじかれる。(詩編33:10)
知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神はこの世の知恵を愚かなものになさったのではありませんか。(1コリント1:20)

私たちのどんなに良いと思った計画も、これで行こうと考えていた期待も、神さまは時に打ち砕いてしまわれます。私たちは計画を変更せざるを得ず、理不尽な思いが残ることもしばしばです。
3月11日の震災で福島第一原子力発電所の事故による被害を受けた原町教会という教会があります。震災後に私も一度伺ったことがあります。幼稚園が併設されていますが、園庭に大きなモニタリングポストがありました。あの震災の翌月の4月に朴牧師という若い先生がこの教会の牧師として就任することになっていました。震災後の3月中に彼女は一度故郷の韓国に戻り、ご両親に会ってから原町教会に向かいました。あの時の恐怖感を思い出すに、相当の覚悟をもって向かったに違いありません。
実はこの朴牧師は、国立のぞみ教会の唐澤牧師の神学校での同級生なのだそうです。それで、私もそのような話を唐澤牧師を通して伺いました。しばらくして少しずつ落ち着いてきたころに、国立のぞみ教会で朴牧師を招いて礼拝の説教をして頂いた。その時の説教題は「遠足に雨を降らせる神さま」というものだったそうです。残念ながら私はその説教は聞けませんでしたが、どういう話をなさったのか、想像をかき立てる題名です。神さまは時に私たちの計画や期待を裏切るし、祈っても無駄だと思われることも起こる。しかし、神さまは私たちには思ってもみなかった救いの御業をなさる。そんな話をなさったのかな、と想像しています。きっと万感の思いで説教なさったのでしょう。
私たちがどんなに知恵を尽くし、あるいはこの世の最高の知者が計画しても、私たち人間がすることは挫折をするし、その計画が中断させられることはしばしばです。しかし神さまはむやみやたらに私たちに挫折感を味わわせるためにそのようになさるのではなくて、私たちの知恵にはとても生み出せないもっとすばらしい出来事のために、私たちの計画を時には挫くのです。それは私たちの目には大きすぎて、見えません。「よかった」なんて軽々とは言えない事柄の中に突き落とされてしまう。しかし、それでも、神さまのなさることは私たちの思いを超える救いの御業につながる。私たちはそう信じています。この神の恵みと慈しみが、今日もあなたにありますように。

2021年12月10日金曜日

2021年12月10日の聖句

私は怒りであなたを打ったが、恵みであなたを憐れんだ。(イザヤ60:10)
神は私たちに不利な規定に基づく債務証書を贖い、それを破棄して十字架に釘付けられた。(コロサイ2:14)

債務証書という言葉があります。会計の言葉です。神さまの手もとに、私たちの人生の勘定帳がある。一つひとつ、私たちの人生の良いことと悪いこととが書いてある。差し引きすると、その勘定帳は黒くなっているのか、赤くなっているのか。神さまのおつけになっている私たちの勘定帳には何と書いてあるのでしょうか。
そこには「一万タラントンの借金あり」と書いてあります。1タラントンは6000デナリオン。1デナリオンは労働者一日分の賃金に相当します。一万タラントンは6000万日(約16万年!)飲まず食わずで働かないと返せない額です。返済は絶対に不可能です。神さまの前には私たちの債務証書が積み上がっています。債務不履行です。
神さまが公正で厳格に私たちの債務の返済をお求めになったとしたら、私たちは皆首をくくるしかありません。しかし神さまはそうはなさいませんでした。あの一万タラントンの借金をしていた僕に対して、神さまは彼の借金を帳消しにしてやりました。聖書は言います。「私は怒りであなたを打ったが、恵みであなたを憐れんだ。」神さまは怒りをもって私たちに臨むのではなく、恵みによって私たちを憐れみ、私たちの借りを全部帳消しにしてくださったのです。
私たちがもしも愛の行いに生きることができたとしたら、それは、愛の借りをお返ししているだけのことです。いつまで経っても返し終わることはありません。しかし、それは私たちにとっては喜びです。なぜなら、神さまは私たちの借りを、神の恵みによって憐れみ、赦してくださったからです。私たちは神が赦してくださった借りを、せめて少しでもお返ししているに過ぎない。それが神の愛に応えるということです。
私たちの借りは主イエス様が全部引き受けてくださいました。キリストを信じて洗礼を受けるというのは、結婚のように私たちの借金が全部キリストの借金になった、ということです。キリストが私たちの花婿として全部引き受けてくださった。そしてキリストが持っておられた神の恵みと慈しみがすべてわたしたちのものとなった。これがキリストの十字架の意味です。私たちは「愛する」という神さまにお借りしている負債を、既に帳消しにして頂いた借りをお返しするために、今日、小さな愛の業に生きていくのです。

2021年12月9日木曜日

2021年12月9日の聖句

主の日は大いなる日で恐怖に満ちている、誰がこの日を耐えることができようか。しかし、今からでも、と主は言われる、心を尽くして私に立ち帰れ。(ヨエル2:11~12)
主を待ち望んでいる人のようでありなさい。(ルカ12:36)

今、教会はアドベントの季節を過ごしています。「アドベント」という言葉はラテン語で「到来」という意味です。アドベントは到来を待ち望む季節。もちろん、主イエス・キリストの到来です。2000年前にベツレヘムでお生まれになった主イエス様。私たちのために救い主がお生まれになった。この方は、十字架にかけられて復活し、天に昇り、神の右におられますが、やがて再び私たちのところに来ると約束してくださいました。アドベントは、私たちがキリストが再び到来なさるのを待ち望んでいることを新しい思いをもって確認する季節です。
「主を待ち望んでいる人のようでありなさい」。私たちは、主を待ち望む人として、この世で生きていきます。主を待ち望む備えをすることが、私たちの今生きる意味なのです。主が到来するその日を目指して、私たちは生きています。しかしこの主が再び来られる日は恐怖の日だ、と御言葉は告げています。「主の日は大いなる日で恐怖に満ちている」。なぜなら、その日は裁きの日だからです。私の生き方が問われ、私のしてきたことが神さまの前に問われる日、裁かれる日。そう言われて、堂々としていられる人などいないのではないでしょうか。恐ろしいことです。事実、聖書自身が「誰がこの日を耐えることができようか」と言うのです。
「しかし、今からでも、と主は言われる、心を尽くして私に立ち帰れ。」この御言葉を読んで私の心に残ったのは、「心を尽くして私に立ち帰れ」の「私に」という言葉です。神さまが御自ら私たちに呼びかけておられます。この私に立ち帰れ、と。一般的に言って悔い改めた方が良い、恐ろしい裁きがある、と言っているのではありません。神さまが御自ら私たちを呼んでくださっています。「私に立ち帰れ」と。私のところへ帰ってこい、私の愛の中へ戻ってこい。主の日は、誰にも耐えられない恐ろしい日です。自分の一生を率直に問われたら、しかも神さまの目からご覧になって私の知らない私の姿を問われたら、一体誰が顔を上げられるでしょう。判決は死刑、地獄に永久追放されるしかない。しかし神さまは言われます。「私に立ち帰れ。」悔い改めは、神さまに立ち帰ることです。神さまの愛の中に戻ることです。私たちの不利になる罪状書きはキリストと一緒に十字架に打ち付けられてしまいました。死ぬべき者を生かし、赦しようのない者と和解し、神さまは私たちを迎えてくださいます。主の日は裁きの日。しかし大いなる赦しの日。キリストにあって私たちが神さまの元に完全に迎え入れられる日です。私たちはこの日を待ち望んでいます。

2021年12月8日水曜日

2021年12月8日の聖句

この人たちは金で神々を造りました。どうか彼らの罪をお赦しください。(出32:31~32)
兄弟姉妹たち、あなたがたの誰にも、悪く不信仰な心がないように、誰一人、生ける神から離れないように気をつけなさい。日々お互いに語り合いなさい。(ヘブライ3:12~13)

「誰一人、生ける神から離れないように気をつけなさい」と言います。不信仰とは、生ける神から離れることです。生ける神です。神さまは、今も生きて働いておられる。神さまがあたかも死んでいるかのように、あるいは生きることのないただの物や、私たちがどうとでもできる都合の好いカミに仕立て上げることは、してはならないことです。
今日の旧約聖書の御言葉はモーセの祈りの言葉です。エジプトから脱出したヘブライ人たちは、神さまを礼拝するために荒れ野に出て行きました。彼らは遂にかつてモーセが神と出会った山までやって来ます。人々は麓で待ち、モーセが一人で山に登って、そこで神さまから十戒を授かりました。神の民がこれから生きるための道標として、神様ご自身がお与えになった指針です。しかし麓で待っていたヘブライ人たちは次第に待ちくたびれ、民から不満が噴出してきました。モーセはいつまで経っても帰ってこない、もう待てない、だから我々のための新しい神を造ってそれを拝もう、と言い出します。モーセの兄アロンは人々に手持ちの装飾具の金をもってこさせ、それを鋳造して子牛の像を造って言いました。「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」。こうして人々は金の子牛の前で踊り狂い、ささげ物を供え、飲み食いして戯れだした。それを知ったモーセは怒り、神さまから頂いたばかりの十戒の板をたたき割って民を激しく叱責しました。その後、神さまの前に出て彼は祈った。「この人たちは金で神々を造りました。どうか彼らの罪をお赦しください。」
この人たちが造った金の子牛は、これまで信じてきたのとはまったく別の神ではありませんでした。「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言って、その子牛の前で踊り狂ったのです。つまり、真の神さまを金の子牛に仕立て上げて、自分たちに都合の好いカミに堕としたのです。それは許されない罪です。不信仰とは、生けるまことの神を自分に都合の好いカミに堕とすことです。それは自分の不安の穴埋めをし、自分の願望を叶え、私たちに敬虔な振りをさせてくれます。しかしそれは生きていないので、私たちを本当に救うことができません。人間が造った神がどうして人間を救うことができるでしょうか。人間を救うことができるのは、人間を造った神だけです。
私たちの祈りは、私たちの礼拝は、どうでしょう。生けるまことの神をあがめ、この方を畏れ、神の前に誠実に膝をかがめているでしょうか。生けるまことの神だけが、私たちの罪を赦し、私たちを救う力をお持ちなのです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...