2022年2月7日月曜日

2022年2月7日の聖句

この方はあなたを翼で覆い、あなたは逃れ場をその方の翼のもとに得る。(詩編91:4)
あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。(フィリピ4:7)

本当にすごい御言葉だと思います。「あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあった守る」と書いてあります。心と考え。まさにそこで失敗することが多いからです。心や考えは、普段は人から見えません。覆い隠せてしまいます。心の中では毒づきながら取り繕うこともできるし、本当は不満があってもそうではない振りをすることもできます。ところがついフトしたときに心の中にあるものが顕わになって、人を傷つけてしまったり、人間関係をおかしくしてしまったり・・・。ところが、聖書は言うのです。「あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」
ここで、私たちの心と考えとを守るのは、「あらゆる人知を超えた神の平和」だと言います。私の平和や、私の願う平和では、どうしようもありません。私の思う平和や私の願いは、どこまでも「私の」に過ぎず、私がどんなに良いと思っても、所詮は浅はかな思いつきや自己本位な思い込みに過ぎません。しかし、あらゆる人知を超えた神の平和が、私の心も考えをも、守ってくださるというのです。しかも、キリスト・イエスにあって。キリストによって私たちにもたらされた神の平和。これこそが私たちの救いであり、私たちの心や考えを清める、神さまの知恵です。
「この方はあなたを翼で覆い、あなたは逃れ場をその方の翼のもとに得る。」私たちは祈ります。主イエス・キリストにあって、神さまに祈ります。あなたの翼で私を覆い、私を守ってください、と。私の心の考えることにおいても、どうか私を守ってください。私を罪に渡すことなく、神さまのものとして守り、神さまの御許においてください、と。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。」これが、今日の私たちの祈りです。

2022年2月6日日曜日

2022年2月6日の聖句

彼は現れ、彼らは主の力の下に牧草をはむ。(ミカ5:3)
イエスが民をご覧になり、憐れまれた。彼らは飼うもののいない羊のように不安にかられちりぢりであったからである。(マタイ9:36)

今日の旧約聖書ミカ書の御言葉は、いわゆるメシア預言の一節です。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」と始まって、今日の箇所に至っていきます。つまり冒頭に掲げられた御言葉の「彼は現れ」というのは、メシア、救い主なる方が現れる、ということを意味している。そして、私たちは主イエス・キリストという神からのメシアが来てくださったことを知っています。
「彼は現れ、彼らは主の力の下に牧草をはむ。」主イエス・キリストは私たちの羊飼いとなってくださって、私たちを牧草をもって養ってくださる。その様子を、新約聖書ではこのように伝えています。「イエスが民をご覧になり、憐れまれた。彼らは飼うもののいない羊のように不安にかられちりぢりであったからである。」
主イエスさまが私たちをご覧になったとき、そのお心は、憐れみでした。キリストは私たちが飼うもののいない羊のようになっているので、憐れみに心かきむしられました。私はときどき牧場に行って羊の群れを見るのですが、羊は本当に弱い動物だと思います。世話してくれる人が牧草を準備して、夜になったら安全なところで守ってやならないと生きていけません。近くで大きな音を立てれば不安になる。現代の日本の牧場ではまずあり得ないでしょうが、もしも狼にでも襲われたら本当にちりぢりになってしまいます。羊には羊飼いが必要です。
今、毎日の生活を不安な気持ちで過ごしていないでしょうか。テレビを付けても携帯を開いてみても、不安になるようなニュースばかりが目に飛び込んできます。しかし、私たちには、私たちの羊飼いでいてくださる方がおられます。私たちを守り、世話をし、私たちのために心を揺さぶりながら憐れみ、愛し抜いてくださる羊飼いが。この方は私たちに平安を得させるために来てくださいました。羊の群れである私たちを、神さまの御許に連れ戻すために来てくださいました。主イエス・キリストの祝福と恵みが、今日もあなたにありますように。アーメン!

2022年2月5日土曜日

2022年2月5日の聖句

いかにさいわいなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。(詩編33:12)
あなた達は今や子であるから、実に「アッバ、父さん」と呼びかけるみ子の霊を、神は私たちの心に送られた。だからあなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば神による相続人です。(ガラテヤ4:6~7)

「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です」と、聖書は私たちに宣言します。あなたは子、神の子。これが、聖書が私たちに告げる福音の事実です。あなたは神の子です。
アメリカ合衆国長老教会が20年くらい前に「はじめてのカテキズム」という本を出しました。最初に、このように問います。「あなたは誰ですか。」こう問われたら、あなたはどう応えますか?私は宮井岳彦ですといった具合に名前を答えるか、どこそこに住んでいますとか、何の仕事をしていますとか、誰々が家族ですとか、そういう答えもできるかも知れません。このカテキズム(信仰問答)では、このように答えます。「わたしは神さまの子どもです。」あなたは誰ですかと尋ねられたら、私たちは、私は神さまの子どもですと答えることができる。私たちは、自分が神の子だと、自分という人間を知ることができるのです。
私は神さまの子ども。それは、私たちが神さまを「父」とお呼びして祈っている事実によって確かめられます。「あなた達は今や子であるから、実に『アッバ、父さん』と呼びかけるみ子の霊を、神は私たちの心に送られた。」神さまは、私たちが神さまを「父」とお呼びして祈ることを、主イエス・キリストにあって喜んで受け入れてくださいます。神さまを呼び求める私たちが「父」とお呼びしたとき、お前は私の子ではないとはおっしゃらないのです。「アッバ」は、幼児が父を呼ぶときの、ほとんど喃語に近い言葉です。主イエスさまは「アッバ」と言って祈りをなさいました。私たちが神さまを父とお呼びするのは、主イエスさまのまねです。主イエスさまの口まねをして、私たちも祈る。そう祈っているとき、すでに神様ご自身の霊が私たちの心の中に働いてくださっているのです。
私たちが神さまの子というのは、本当に壮大な福音です。私たちは神さまの御子イエスさまの口まねをして、この天地のすべてをお造りになった方を「アッバ」とお呼びします。そのとき既にその神様ご自身の霊が私の中で働いてくださっている。そうやってわたしたちに祈りの言葉を与え、私たちを喜んでご自分の子としてくださるお方への祈りのときを今日も尊く過ごしていきましょう。

2022年2月4日金曜日

2022年2月4日の聖句

白髪の人の前では起立し、年配者を重んじなさい。(レビ19:32)
相手に対して尊敬をもって、まず接しなさい。(ローマ12:10)

相手に対する敬意。これがあらゆる人間関係の基礎なのだと改めて思います。
先日、ラジオに目の不自由な人が出演して、こういうことで苦労しているというような話をしておられました。その中で、子どもに話しかけるような口調で話しかけてくる人がいるというようなことをおっしゃっていました。腫れ物に触るような気持ちで気を遣って、そのようなことになってしまったのでしょうか。
あさひ教会の鈴木淳牧師は、通所介護施設フレンドシップあさひを造るときに、利用してくださるお年寄りへの礼儀を大事に考えたいと言うことをしきりにおっしゃっていました。これまで他の介護施設や病院で、お年寄りになれなれしかったり、無礼だったりする態度を散々見てきた。フレンドシップあさひではお年寄りに敬意をもって接することを大切にしたいということでした。
相手への敬意が、やはり大事なのだと思わされます。白髪の人にも、あるいは若い人にも。障害がある人にも、そうではない人にも。男性にも女性にも。相手に敬意をもって接し、丁寧に人間関係を気づくことは、尊いことです。
こうして聖書を読んでみると、聖書にはこのようなことも書いてあるのだなと少し驚いてしまいます。私たちの人間関係の機微というか、秘訣というか、そういうことだと思います。しかしその本当に基本的なことは難しいし、そこで失敗してしまうということも少なくありません。
マザー・テレサは「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」という主イエスの言葉を思いながら人に接していたそうです。私たちの小さな愛を、主イエスさまが受けてくださり、憶えていてくださいます。私たちの今日一日の業が、主へのささげ物でありますように。

2022年2月3日木曜日

2022年2月3日の聖句

私たちを助けてください、神、私たちの救い主よ、
そして私たちを集めてください、あなたの聖なる名を讃えるために。(代上16:35)
イエスは祈る:聖なる父よ、わたしにくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください。私たちと同じように、彼らが一つになるためです。(ヨハネ17:11)

「私たちと同じように、彼らが一つになるためです」というのは、主イエスさまの祈りの言葉です。最後の晩餐の席で、最後に主イエスが長い祈りをなさった。その時の祈りの言葉です。「私たちと同じように、彼らが一つになるためです。」私たちというのは、父なる神様と主イエスさまとのことでしょう。すでに主イエスさまは「私と父とは一つである(ヨハネ10:30)」とも言っておられて、ご自分が父なる神様と一体の神ご自身であることを宣言しておられました。ここでは、父なる神様とキリストご自身がおひとつでいらっしゃるのと同じように、彼らが一つになりますように、と祈っておられます。
この「彼ら」は、主イエスの目の前にいる弟子たちのことであり、また同じように主イエスさまを信じる私たちのことでもあります。私たち教会が一つになるように、主イエスがこのとき既に祈ってくださっている。しかも、その「一つ」のあり方が、父なる神様と御子キリストがおひとつでいらっしゃるのと同じように私たちも一つでありますようにと祈っておられます。神秘的な「一つ」が、私たちの間に実現する。
今は世界がバラバラになっているような時代です。教会も、そういう時代の空気の中でいつの間にかバラバラになりかねません。コロナのことをどう考えるのか、どういう対策を良しとするのか。そのようなこと一つを取ってみても、考え方や受け止め方は人それぞれです。それぞれの意見に従ってバラバラになりかねない。私たちは弱い存在です。しかも、罪深い存在です。私たちに、一体どうしたら御父と御子のような神秘的な「一つ」が実現するのでしょうか?
「私たちを集めてください、あなたの聖なる名を讃えるために」「聖なる父よ、わたしにくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください」。御言葉はそのように言います。神さまのお名前を讃えるために。神さまのお名前のゆえに。神さまが私たちを助けてくださって、私たちは神さまをあがめることで一つになることができます。私たちは神さまを見上げ、讃えるとき、心を本当にひとつにすることができるのです。その絆は、キリストにある愛です。神さまとキリストの愛にあずかって、私たちも愛の共同体の一員へ招かれている。人間の力ならぬ、神ご自身の力、すなわち聖霊が私たちの間に働いてくださいます。

2022年2月2日水曜日

2022年2月2日の聖句

私は主を称えます、いつの時も。主への讃美は永遠に私の口にあるでしょう。(詩編34:2)
いつの時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。(1テサロニケ5:15~16)

今日の新約聖書の御言葉はとても印象的です。「いつの時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。」この御言葉そのものの讃美歌があります。私の子どもが以前教会でそれを覚えて、私の父の前で歌いました。私の父はキリスト者ではないのですが、子どもたちの歌を聴いて、良い歌詞だなと言っていたことがありました。多くの人の心を捉える御言葉ではないでしょうか。「いつの時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。」
しかし、実践するとなると少し難しいような気もしてしまいます。喜べないとき、感謝できないときもあるからです。そういうときには、このように考えてはどうでしょうか。神さまは、神さまの目からご覧になっていちばんよいことをご存じです。だから、必ず、最もよい答を私たちの祈りのために準備してくださっているはずです。だから、私たちは祈りはじめたとき、もう既に神さまへの感謝を先取りすることができます。神さまはこの祈りを必ず聞いて、いちばんよい答を与えてくださるから。そのことを信頼して、私たちはまだ自分の目に見えて現実になっていないことにつても神さまに感謝することができる。
「いつの時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。」この御言葉は、神さまの慈しみへの信頼を呼び起こします。喜びも、祈りも、感謝も、神さまとの深い関わりの中から生まれます。私たちは神さまの御前に生き、神さまに顔を向け、神さまの慈しみを呼吸して生きていきます。だから、こうして聖書を読み、祈りをする時間は尊く、私たちの命をつなぐ時間です。今日も私たちがキリストを思い起こし、キリストと共に歩み、どんなことでも祈り、感謝と讃美に満ちた一日でありますように。主イエス・キリストの祝福を祈っています。

2022年2月1日火曜日

2022年2月1日の聖句

ユダの家の救われて残った者は、改めて下方に根を下ろし、上方に実を結ぶ。(王下19:30)
根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。(ローマ11:16)

根をしっかり張らなければ、よい実を結ぶことはできません。そしてその根はその植物に適した土に張っていないと、結局全体が涸れてしまいます。水の量や肥料の種類や量など、とにかくたっぷりやれば良いというわけではなく、適した量を適したタイミングで与え、植物の生育をよく見守ることが大切なのだと思います。
「根が聖なるものであれば、枝もそうなのです」と言っています。根が聖なるものになるというのは、聖なるものに根ざしているからではないでしょうか。旧約聖書の方の御言葉では「ユダの家の救われて残った者は」と言っています。救われて残った者。神さまに救って頂いた者です。この救いの出来事こそ、私たちの根ざす聖なるものに他ならないのではないでしょうか。私たちは、私たちを救ってくださるキリストの愛と憐れみに根ざして、聖なる根を張るから、聖なる枝を張り、聖なる実を結ぶことができるのです。
例えば、パンデミックに襲われたこの二年間のことを考えてみると、今この世界は深刻に愛を必要としていることは間違いないのではないかと思います。世界は無関心や不寛容に覆い尽くされた様相を呈しています。パンデミックが始まる前からそうでした。この二年、社会のいろいろなところに無理が出ているので、覆い隠せなくなってより鮮明になっています。ドラックストアにマスクや消毒液を求めて人が殺到し、店員が罵声を浴びせられていたのは、それほど昔の話ではありません。似たような不寛容はいろいろなところで顔をのぞかせるし、自分のことで精一杯で他人に関心を払う余裕が私たちになくなってしまっているように思います。今、世界は深刻に愛を必要としている。
しかしだからといって、自分の頑張りで愛を搾りだそうとすると、すぐに無理になってしまいます。枯れてしまう。頑張りや努力ではどうしようもない。愛の実を結ぶには、聖なる根が必要です。聖なるキリストの救いに根ざす根を下ろさなければ、私たちには愛の実を結ぶことができません。キリストが私を無限に愛して飼い葉桶に生まれてこられたこと。キリストが私のために十字架にかけられたこと。キリストが私の罪を赦すために甦ったこと。そういう一つひとつのキリストの出来事に根を張るなら、その時初めて、私たちにも愛の実りが結ばれます。キリストの愛に根をおろして、私も、愛の実りを結ぶのです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...