2021年10月31日日曜日

2021年10月31日の御言葉

私は主である。私が語ることは起こり、引き延ばされることはない。(エゼキエル12:25)
神の国は言葉の中にはありません、力の中にあります。(1コリント4:20)

言葉は、何のためにあるのでしょうか?
もちろんコミュニケーションを取るためにある。何のためにコミュニケーションを取るのか。それは何かの出来事を起こすためです。赤ちゃんは、泣くとか笑うとか、言葉にならないような言葉によって出来事を起こします。お腹がすいたとか、お尻が気持ち悪いとか、そういうことを伝えて、自分の世話をするように伝えます。すると出来事が起こる。大人の言葉はもっと複雑です。出来事の起こし方にも手が込んでいる。率直な物言いをすることもあれば、婉曲に何かを伝えたり、伝えない振りをして伝えたり。しかしいずれにしても、言葉によって何かの出来事を起こそうとする。だからこそ、無視されると傷つきます。自分の言葉が空しく地に落ちると、とてもさみしい気持ちになります。
言葉は出来事を起こすために語られる。神さまは言葉を語りかけることを通して、私たちの間に出来事を起こします。神の国は、力の中にあると言います。空しく地の落ちる言葉ではない。神の国は、それを実現させる神の力の中に実現する。私たちはこの神の力を、例えば礼拝のときに目撃しています。神さまが神の民を招集し、それに応えて神の前に集まる。私たちは神に祈り、御言葉を待ち望み、賛美を献げます。神さまが私たちを福音の出来事の中に呼び集めてくださっていることを信じて、私たちは神の前に集まっています。神の国は私たちの間にあるのです。キリストは「神の国は近づいた」と言われます。キリストがそう言われたからには、それは本当のことです。神の国は、もう私たちのところに来ています。駅員さんが「電車が来ました」と言ったら、もう電車が来ているのと同じです。神の国はもう来ている。だから私たちも神を信じるようになったし、今日も祈りによって一日を始めようとしているのです。神さまの御言葉によって、私たちに出来事が起こる。
今日、私たちは、神さまの始める出来事に開かれているでしょうか。神さまの御言葉の起こす出来事を待ち望み、その出来事を楽しみましょう。私たちに語りかけるために、神は今私たちの前に立っておられます。

2021年10月30日土曜日

2021年10月30日の聖句

私は主、あなたの医者である。(出エジプト記15:26)
日が沈むと、様々な病に悩む者たちがイエスのところに連れてこられた。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。(ルカ4:40)

主なる神様は、私たちの医者です。私たちの傷や痛みに優しく手を伸ばして触れ、癒やしてくださいます。しかも、主イエスは「一人一人に手を置いて癒やされた」といいます。一人ひとり、というこの言葉はなんと慰めに満ちていることでしょう。主イエスは私たちを十把一絡げに扱うのではなく、一人ひとりに手を置いてくださる。私たちの声に耳を傾け、痛みを知り、この私をいやしてくださるお方です。
そうは言っても、いくら祈っても癒やされない、私のこの痛みを神さまは癒やしてくださらない、そういう経験もしばしばです。どうしてなのか。なぜ神さまは私を癒やしてくださらないのか。ある人は、それはあなたの悔い改めが足りないからだと言います。あるいはあなたが癒やされないのは、それが神さまの御心だからだと言います。そのような言葉はまったく間違っています。間違っているどころか、甚だ不遜です。誰が神さまに成り代わってそのようなことを言っていいのでしょうか?人に対する神さまの御心を騙ることなんて、私たちには許されていません。
それでは、なぜ癒やされないことが起こりうるのか?それは私たちには分からない。ただ一つ言えることは、主イエス御自身が誰よりも痛みを知り、病を知り、悲しみを知っておられる方だということです。イザヤ書第53章によれば、イエスは「多くの痛みを負い、病を知っている」、しかも「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった」のです。それなのに「私たちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」。この方が私たちの罪や咎をすべて背負ってくださったから、私たちは罪ゆるされ、生きることができたのです。だから、主イエス・キリストこそが私たちの医者なのです。
イエス・キリストという医者は破格の医者です。私たちを癒やすために私たちの病を負い、罪を背負ってくださいました。私たちは、今もなお肉体や心の痛み、苦しみを負わなければならないかもしれません。それはキリストの苦しみの欠けたところを補う痛みであり、苦しみです。キリストにあって、私たちの痛みには意味があるのです。

2021年10月29日金曜日

2021年10月29日の聖句

あなたのものです、主よ、王国も。あなたはすべてのものの上に、かしらとして崇められます。(歴代誌上29:11)
だから憐れみを受け、恵みにあずかり、折りに叶った助けを得るために、堂々と恵みの座に近づきましょう。(ヘブライ4:16)

主の祈りの最後の部分、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という頌栄の言葉は、もともと主イエスが弟子たちにお教えになった祈りではありません。後に教会が付加した神への賛美の告白です。主イエスがお教えになった主の祈りオリジナル言葉ではない。そのことははっきりしています。しかし世々の教会はこの言葉をも主の祈りの欠かせない一部として祈り続けてきました。「国と力と栄え」、これらはどれも政治の匂いがする言葉です。世の支配者たちは自分の「国」を築くことにやっきになり、そのために「力」を振りかざし、自分たちを信頼させようと「栄光」を身にまとおうとします。しかし私たちは、国と力と栄光とは、永遠に主なる神様のものであると信じ、そのように祈っているのです。
「あなたのものです、主よ、王国も。あなたはすべてのものの上に、かしらとして崇められます。」神が国を支配し、すべてのものの頭として崇められますように。私たちの国や社会を形成している原理やシステムは、どういう価値観や考えの上に造られているのでしょうか。もしもそれが消費することを豊かさのしるしだと考えるものであったり、成功することが人生の価値だと考えたりするものであったとしたら、それは主イエスの教えてくださったこととは違っていると言わざるを得ないと思います。ただ、私たち人間がすることは、例えどういう人が権力を持つにしても不可避的に、神さまから離れた国作りにならざるを得ないのかも知れません。だからこそ、私たちは祈る。「あなたのものです、主よ、王国も。あなたはすべてのものの上に、かしらとして崇められます。」神を崇め、身を低くして生きることが、私たちが人間らしく生きる第一歩だと私は信じています。

2021年10月28日木曜日

2021年10月28日の聖句

本当に、私たちの神、主のもと以外には、イスラエルの救いはありません。(エレミヤ3:23)
イエスは群衆を地面にすわらせ、七つのパンと魚を取り、感謝してからそれを裂き、弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。(マタイ15:35~36)

ここに書いてあるのとは別の出来事ですが、主イエスがガリラヤのカナというところで、婚礼の席のために水をぶどう酒に変えたという奇跡がありました。古代教会の教父の一人、アウグスティヌスという人がこの奇跡について、このような趣旨のことを言っています。主イエスがこのように水をぶどう酒に変えたという奇跡を聞くと、皆驚く。しかし、神は太陽を昇らせ、雨を降らせてぶどうを実らせ、人はそれを酒舟でぶどう酒にする。実はぶどう酒を生み出す神の奇跡はいつでも行われている。しかし人はそれを驚かない。
私がこの話思い出したのは、マタイが伝えている今日の御言葉を読んだからです。この日、主イエスは七つのパンと魚によって4000人の群衆を養いました。しかも大人の男だけで4000人と書いてありますから、総勢何人でしょうか。それをたった七つのパン、そして魚だけで。大変な奇跡です。私たちはこれを見て驚く。ところが、その4000人、あるいは女子どもも合わせたもっとたくさんのそこに集まった人たちは、毎日食事をし、水を飲み、生活を営んでいます。こうやって一度にたくさんの人が少ないもので養われたと言われれば大変な奇跡だと思いますが、実は毎日の生活も神さまの慈しみに満ちた奇跡の上に成り立っているのです。私たちが毎日を生きていること、食べていること、飲んでいること、それらは皆当たり前のことではありません。私たちを養う神さまの慈しみ深い奇跡の上に、私たちの命は保たれているのです。
「本当に、私たちの神、主のもと以外には、イスラエルの救いはありません。」本当に、そのとおりです。私たちの神、主のもとに、私たちの救いがあるし、私たちの命があるし、私たちの生活があります。この世にいるすべての人が、今日も神の慈しみの中に保たれています。神の慈しみと無関係に生きられる人なんていない。この大いなる神の愛に感謝をし、私たちのためにパンを裂いてくださるキリストの愛の中を、今日私たちは生かされているのです。

2021年10月27日水曜日

2021年10月27日の聖句

主を崇めよう、私と一緒に、共々に御名を崇めよう。(詩編34:4)
神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。だから私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え栄光を帰します。(2コリント1:20)

私たちの周りには「否」があふれています。新しい課題に直面すれば「でも、無理なんじゃないか」、何かのアイデアを考えれば「こういうよくないところがある」、あるいは他の人がしていることが気に入らなかったり、近しい人の小さな欠点が許せなかったり・・・。とにかく、私たちの周りにはたくさんの「否」があふれているのではないかと思います。ところが、神さまはそうではありません。神さまは大いなる「然り」を告げてくださっています。ちっぽけな、その場をごまかすだけ、調子を合わせるだけの「然り」ではありません。「大いなる然り」です。
「神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。」神の約束、とこの聖書の言葉を書いた使徒パウロは言います。神の約束とは何か。例えば同じ手紙の5:18を見ると「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」と書いてあります。私たちは、神と敵対していた。神は私たちにとって不倶戴天の仇に他ならなかった。私たちの命の根本、存在の根幹は、神さまです。私たちに命を与えた神さまと敵対しているから、私たちは自分らしくいきられないし、人間らしさを失っている。ところが神の方から、私たちと和解してくださった。先ほどの言葉に続けて、パウロはこのように言います。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」キリストによって、神は私たちをご自分と和解させた。だから、「神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。」つまり、キリストによって、私たちの存在や命が根本から「然り」となったのです。神と和解させていただいたから。私たちの命の根源であるかたと、私たちはもはや敵対していないから。
私たちの周りには「否」があふれています。それは考えてみれば、私たちがいろいろなものと、知らず知らずのうちに敵対しているということなのかも知れません。自分のこだわりだったり、相手の至らなさを許せない自負心だったり、お互いの感情のしこりだったり、いろいろな理由で私たちはお互いに「否」を向け続けてしまうのかもしれません。どうやったら和解できるのか、もはやよく分からない。しかし、神さまがまず私たちに和解の手を伸ばしてくださいました。私たちに「然り」を、大いなる然りを向けて、私たちの存在を根本的に然りとし、キリストの愛の光の中に置いてくださった。ここに、私たちの口に和解の言葉が生まれるのです。

2021年10月26日火曜日

2021年10月26日の聖句

ある者は戦車を、ある者は馬を信頼する。しかし私たちは私たちの神、主のみ名に思いを寄せる。(詩編20:8)
自分に定められている競争を忍耐強く走りましょう。信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめて。(ヘブライ12:1~2)

昨日、保育園に行って祝福式の礼拝のお手伝いをしました。子どもたち一人ひとりの名前を呼んで、祝福の祈りをしました。コロナの前は一人ひとりの頭に手を置いていたのですが、今保育園ではそれはできません。来年にはできればと願っています。子どもたちのための祝福の祈りをする前に、聖書のお話をしました。今週私に割り当てられていた聖書の御言葉を読みました。中風の人をイエスさまのところへ連れて来た四人の友達の話です。屋根に穴を開けて病人をつり降ろしたと放したら、子どもたちが「エー!」と言ってびっくりしながら聞いてくれました。楽しい時間でした。この子たちが、イエスを見つめて歩む人生を送ってほしいと切に願います。
「自分に定められている競争を忍耐強く走りましょう。信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめて。」私たちはイエスを見つめて走るとき、行くべき道を進むことができるし、その道を走ることに勇気を持つことができるのです。
私はマラソンはしたことがありません。42キロもの距離をどんなことを考えながら走っているのだろうと思います。世界のトップアスリートでも二時間以上かかります。大変な競技です。この大変な競技も、ゴールがあるから走れるのだと思います。ゴールの場所が分からないで走り出すことはありません。10キロ地点なのか、40キロなのか、100キロ走ってもゴールにたどり着かないのか。それが分からなければどのように走ったら良いのか分からないのではないかと思います。
私たちは、キリストを見つめながら自分に定められたを走ります。私たちの人生の競争は、マラソンのように長い距離の人もいれば、短い時間で走り終える人もいます。端から見るとなだらかに見える道の人も、非常に険しい道の人もいる。それは神さまが長駄目になった競争です。距離は決まっていない。しかし、私たちはキリストを見つめて走ります。その点は同じ。そして、キリストを見つめて走るからこそ、私たちはゴールを目指して忍耐強く走ることができる。栄冠に輝くとき、必ずキリストが迎えてくださるからです。
私たちの今日一日が、キリストを見つめながら進むものでありますように。キリストの祝福の中で走る一日でありますように。

2021年10月25日月曜日

2021年10月25日の聖句

神よ、沈黙しないでください。神よ、だまり続けないでください。ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ちあなたを憎む者が頭をもたげています。(詩編83:2~3)
私たちを悪より救いだしてください。(マタイ6:13)

「私たちを悪より救いだしてください。」これは、主の祈りの一節です。キリストが私たちに教えてくださった祈り。キリストは私たちに「救ってください」と祈ることを教えてくださいました。私たちは祈って良いのです。救ってください、助けてください、と。
「私たちを悪より救いだしてください。」こう祈る者は、私たちに襲いかかる悪の力を知っています。リアリストの祈りです。かつて、シモン・ペトロは自分に襲いかかる悪の力の苛烈さを知りませんでした。あるいは、嘗めていました。主イエスがペトロにおっしゃいます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」しかしそう言われた当のシモン・ペトロは言います。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」私たちは聖書を読んで知っています。シモンはその夜の内に、イエスを知らないと繰り返して口にし、悪魔のふるいにかけられてしまったこと、そして悪魔の力に見事に負けてしまったことを。私たちを襲う悪の力は強く、私たちは弱いのです。
「神よ、沈黙しないでください。神よ、だまり続けないでください。ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ちあなたを憎む者が頭をもたげています。」この詩編が「神よ、沈黙しないでください」と祈るのは、私たちが悪の力に弱いからに他なりません。悪の力に私たちは自分で打ち勝つことができない。だから、「神よ、沈黙しないでください」と私たちは祈る。「私たちを悪より救いだしてください!」
シモン・ペトロが立ち直ることができたのは、主イエスが彼のために祈ってくださったからです。やがて立ち直ったシモン・ペトロは、悪の力に立ちすくむ他の兄弟姉妹を力づけてやるために手紙を書きます。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんでいたあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださいます(1ペトロ5:8~11)。」
私たちは今日も祈ります。「私たちを悪より救いだしてください!」

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...