私は主である。私が語ることは起こり、引き延ばされることはない。(エゼキエル12:25)
神の国は言葉の中にはありません、力の中にあります。(1コリント4:20)
言葉は、何のためにあるのでしょうか?
もちろんコミュニケーションを取るためにある。何のためにコミュニケーションを取るのか。それは何かの出来事を起こすためです。赤ちゃんは、泣くとか笑うとか、言葉にならないような言葉によって出来事を起こします。お腹がすいたとか、お尻が気持ち悪いとか、そういうことを伝えて、自分の世話をするように伝えます。すると出来事が起こる。大人の言葉はもっと複雑です。出来事の起こし方にも手が込んでいる。率直な物言いをすることもあれば、婉曲に何かを伝えたり、伝えない振りをして伝えたり。しかしいずれにしても、言葉によって何かの出来事を起こそうとする。だからこそ、無視されると傷つきます。自分の言葉が空しく地に落ちると、とてもさみしい気持ちになります。
言葉は出来事を起こすために語られる。神さまは言葉を語りかけることを通して、私たちの間に出来事を起こします。神の国は、力の中にあると言います。空しく地の落ちる言葉ではない。神の国は、それを実現させる神の力の中に実現する。私たちはこの神の力を、例えば礼拝のときに目撃しています。神さまが神の民を招集し、それに応えて神の前に集まる。私たちは神に祈り、御言葉を待ち望み、賛美を献げます。神さまが私たちを福音の出来事の中に呼び集めてくださっていることを信じて、私たちは神の前に集まっています。神の国は私たちの間にあるのです。キリストは「神の国は近づいた」と言われます。キリストがそう言われたからには、それは本当のことです。神の国は、もう私たちのところに来ています。駅員さんが「電車が来ました」と言ったら、もう電車が来ているのと同じです。神の国はもう来ている。だから私たちも神を信じるようになったし、今日も祈りによって一日を始めようとしているのです。神さまの御言葉によって、私たちに出来事が起こる。
今日、私たちは、神さまの始める出来事に開かれているでしょうか。神さまの御言葉の起こす出来事を待ち望み、その出来事を楽しみましょう。私たちに語りかけるために、神は今私たちの前に立っておられます。
神の国は言葉の中にはありません、力の中にあります。(1コリント4:20)
言葉は、何のためにあるのでしょうか?
もちろんコミュニケーションを取るためにある。何のためにコミュニケーションを取るのか。それは何かの出来事を起こすためです。赤ちゃんは、泣くとか笑うとか、言葉にならないような言葉によって出来事を起こします。お腹がすいたとか、お尻が気持ち悪いとか、そういうことを伝えて、自分の世話をするように伝えます。すると出来事が起こる。大人の言葉はもっと複雑です。出来事の起こし方にも手が込んでいる。率直な物言いをすることもあれば、婉曲に何かを伝えたり、伝えない振りをして伝えたり。しかしいずれにしても、言葉によって何かの出来事を起こそうとする。だからこそ、無視されると傷つきます。自分の言葉が空しく地に落ちると、とてもさみしい気持ちになります。
言葉は出来事を起こすために語られる。神さまは言葉を語りかけることを通して、私たちの間に出来事を起こします。神の国は、力の中にあると言います。空しく地の落ちる言葉ではない。神の国は、それを実現させる神の力の中に実現する。私たちはこの神の力を、例えば礼拝のときに目撃しています。神さまが神の民を招集し、それに応えて神の前に集まる。私たちは神に祈り、御言葉を待ち望み、賛美を献げます。神さまが私たちを福音の出来事の中に呼び集めてくださっていることを信じて、私たちは神の前に集まっています。神の国は私たちの間にあるのです。キリストは「神の国は近づいた」と言われます。キリストがそう言われたからには、それは本当のことです。神の国は、もう私たちのところに来ています。駅員さんが「電車が来ました」と言ったら、もう電車が来ているのと同じです。神の国はもう来ている。だから私たちも神を信じるようになったし、今日も祈りによって一日を始めようとしているのです。神さまの御言葉によって、私たちに出来事が起こる。
今日、私たちは、神さまの始める出来事に開かれているでしょうか。神さまの御言葉の起こす出来事を待ち望み、その出来事を楽しみましょう。私たちに語りかけるために、神は今私たちの前に立っておられます。