主を崇めよう、私と一緒に、共々に御名を崇めよう。(詩編34:4)
神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。だから私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え栄光を帰します。(2コリント1:20)
私たちの周りには「否」があふれています。新しい課題に直面すれば「でも、無理なんじゃないか」、何かのアイデアを考えれば「こういうよくないところがある」、あるいは他の人がしていることが気に入らなかったり、近しい人の小さな欠点が許せなかったり・・・。とにかく、私たちの周りにはたくさんの「否」があふれているのではないかと思います。ところが、神さまはそうではありません。神さまは大いなる「然り」を告げてくださっています。ちっぽけな、その場をごまかすだけ、調子を合わせるだけの「然り」ではありません。「大いなる然り」です。
「神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。」神の約束、とこの聖書の言葉を書いた使徒パウロは言います。神の約束とは何か。例えば同じ手紙の5:18を見ると「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」と書いてあります。私たちは、神と敵対していた。神は私たちにとって不倶戴天の仇に他ならなかった。私たちの命の根本、存在の根幹は、神さまです。私たちに命を与えた神さまと敵対しているから、私たちは自分らしくいきられないし、人間らしさを失っている。ところが神の方から、私たちと和解してくださった。先ほどの言葉に続けて、パウロはこのように言います。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」キリストによって、神は私たちをご自分と和解させた。だから、「神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。」つまり、キリストによって、私たちの存在や命が根本から「然り」となったのです。神と和解させていただいたから。私たちの命の根源であるかたと、私たちはもはや敵対していないから。
私たちの周りには「否」があふれています。それは考えてみれば、私たちがいろいろなものと、知らず知らずのうちに敵対しているということなのかも知れません。自分のこだわりだったり、相手の至らなさを許せない自負心だったり、お互いの感情のしこりだったり、いろいろな理由で私たちはお互いに「否」を向け続けてしまうのかもしれません。どうやったら和解できるのか、もはやよく分からない。しかし、神さまがまず私たちに和解の手を伸ばしてくださいました。私たちに「然り」を、大いなる然りを向けて、私たちの存在を根本的に然りとし、キリストの愛の光の中に置いてくださった。ここに、私たちの口に和解の言葉が生まれるのです。
神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。だから私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え栄光を帰します。(2コリント1:20)
私たちの周りには「否」があふれています。新しい課題に直面すれば「でも、無理なんじゃないか」、何かのアイデアを考えれば「こういうよくないところがある」、あるいは他の人がしていることが気に入らなかったり、近しい人の小さな欠点が許せなかったり・・・。とにかく、私たちの周りにはたくさんの「否」があふれているのではないかと思います。ところが、神さまはそうではありません。神さまは大いなる「然り」を告げてくださっています。ちっぽけな、その場をごまかすだけ、調子を合わせるだけの「然り」ではありません。「大いなる然り」です。
「神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。」神の約束、とこの聖書の言葉を書いた使徒パウロは言います。神の約束とは何か。例えば同じ手紙の5:18を見ると「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」と書いてあります。私たちは、神と敵対していた。神は私たちにとって不倶戴天の仇に他ならなかった。私たちの命の根本、存在の根幹は、神さまです。私たちに命を与えた神さまと敵対しているから、私たちは自分らしくいきられないし、人間らしさを失っている。ところが神の方から、私たちと和解してくださった。先ほどの言葉に続けて、パウロはこのように言います。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」キリストによって、神は私たちをご自分と和解させた。だから、「神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。」つまり、キリストによって、私たちの存在や命が根本から「然り」となったのです。神と和解させていただいたから。私たちの命の根源であるかたと、私たちはもはや敵対していないから。
私たちの周りには「否」があふれています。それは考えてみれば、私たちがいろいろなものと、知らず知らずのうちに敵対しているということなのかも知れません。自分のこだわりだったり、相手の至らなさを許せない自負心だったり、お互いの感情のしこりだったり、いろいろな理由で私たちはお互いに「否」を向け続けてしまうのかもしれません。どうやったら和解できるのか、もはやよく分からない。しかし、神さまがまず私たちに和解の手を伸ばしてくださいました。私たちに「然り」を、大いなる然りを向けて、私たちの存在を根本的に然りとし、キリストの愛の光の中に置いてくださった。ここに、私たちの口に和解の言葉が生まれるのです。