2022年5月31日火曜日

2022年5月31日の聖句

主よ、あなたの民に約束された恵みに従って私を顧みてください。あなたの救いを私たちに示してください。(詩編106:4)
私たちの誰もが、キリストに与えられている尺度に従って恵みが与えられています。(エフェソ4:7)

旧約聖書の出エジプト記を見ると、奴隷の家であったエジプトを脱出し、荒れ野を旅したヘブライ人たちの記録が記されています。荒れ野を旅する神のために、神さまはマナというパンを与えてくださいました。安息日以外の毎日、必ず。朝、露が渇くと地表に霜のようにうっすらと積もっていたのです。一日あたり、一人一升ずつです。明日の分まで欲張ってはいけない。その日、その日と、神さまは日ごとの糧を与えてくださった。二日分かき集めると、翌日には腐ってしまっていました。安息日の前日だけは二日分です。ここで興味深いのは、平日について、一日分であれば「ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ると、多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りなくなることもなく、それぞれ自分の食べる分を集めていた」(出16:17~18)というのです。
ここに端的に、聖書の平等観が表れています。「みんな同じ」が聖書の考える平等ではありません。その日必要な分は人によって違う。二日分(つまり必要以上に)集めることは禁じられていますが、一日の必要量については各自が分に応じて必要な量を集める。すると皆一升になっている。この「分に応じて」というのが聖書の平等観です。
「私たちの誰もが、キリストに与えられている尺度に従って恵みが与えられています。」キリストに与えられている尺度に従って、と言っています。私たちの自前の尺度ではありません。あるいは自分の欲望に従ってでもありません。世間の評価でもない。キリストの尺度に従って、神さまは私たちに分に応じて計り与えてくださっている。
しかしそうは言っても、多く与えられた方が得ではないかと私たちには見えます。しかし多く与えられた者は分に応じて多くを献げる義務があります。少なく与えられた者は、だから何もしなくて良いというのではなく、やはり分に応じて献げます。分に応じて与えられ、分に応じて献げる。そこにあるのは神さまの気まぐれや意地悪ではない。キリストによる尺度というからには、神の深い愛に満ちた尺度に違いないのです。「主よ、あなたの民に約束された恵みに従って私を顧みてください。あなたの救いを私たちに示してください。」神の恵みが、今日の私の生きる分を定めています。だからこそ、祈りつつ今日の日を生きていきたいと願います。

2022年5月30日月曜日

2022年5月30日の聖句

私は貧しく、惨めです。主はしかし私を気遣ってくださいます。(詩編40:18)
希望が水疱に帰されることはありません。(ローマ5:5)

主イエス・キリストと出会って私たちが知る希望は、私たち自身に依存しない希望です。私が私自身を見つめていても、希望は生まれてきません。「私は貧しく、惨めです」と詩編は言っています。この詩編は1節を見ると「ダビデの詩」と書かれています。ダビデは王ですから、貧しいわけではありません。もちろん子どものころは羊飼いの家に生まれたのですし、王になってからも息子に起こされた政変で命からがら逃亡生活を強いられたこともあります。しかし、ここで言っている貧しさや惨めさは、そういう一時的な苦難のことに留まらないと思います。神さまの前で、私は何と貧しく、惨めなのか、ということではないでしょうか。神さまの御前にあって自分の小ささや卑しさを知る。そこでは「私は貧しく、惨めです」と告白しないわけにはいかない。状況がもたらす苦難や卑賤もあるのでしょうが、それ以上に、神さまの御前にある自分の姿を告白しているのではないかと思います。
しかし、貧しく惨めな私を、神はお見捨てにはならなかった。「私は貧しく、惨めです。主はしかし私を気遣ってくださいます。」主が私を気遣ってくださった。苦しみや悲しみを嘗める時、しかし主が私を気遣っていてくださる。主の御前にも、人の前にも顔向けできない私を、しかし主が気遣い、再び立たせてくださる。この詩編は深くその事実に信頼し、神さまの御前にある希望を告白しているのです。
この希望を、神を信じる者は抱いています。そして「希望が水疱に帰されることはありません。」決して、神さまは神さまに望みをかける私たちを捨ててしまったりはなさらない。神さまは私たちの希望を、主イエス・キリストにあってかなえてくださいます。貧しく惨めな私を、神はご自分の前に立たせ、私たちがキリストにあって神の愛の中を生きるように、私たちを今日も守っていてくださいます。
今日も、神は私たちを祝福してくださっています。いつ、どこにいようとも、神さまの祝福の手が私たちから離れることは決してないのです。

2022年5月29日日曜日

2022年5月29日の聖句

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。ましてわたしが建てたこの宮など、なおさらのことです。(王上8:27)
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにとどまり、神の愛がわたしたちのうちに全うされてるのです。(1ヨハネ4:12)

今日の旧約聖書の御言葉は、ソロモン王が七年の年月をかけて建造した神殿が完成し、いよいよこれを神に献げるというときの祈りの言葉です。技術の粋とたくさんの財産を献げて完成した主の神殿。しかし、「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。ましてわたしが建てたこの宮など、なおさらのことです」と祈ります。本当に真実な、正直な思いなのだと思います。どんなに精一杯のささげ物をしても、神さまの偉大さ、その大きさ、すばらしさをこの建物に閉じ込めることなどどうしてできるでしょうか。この世界を造った方を、私が造った建物などにどうして閉じ込めることができるのか。
これは建物だけのはなしではないと思います。私の期待や、私の願い、私のこだわり、そういうものだって、神さまを閉じ込める事なんて本当はできません。しかし、私たちは自分の思惑に神さまを収めてしまいたくなります。自分の予測の範囲内に収まる小さな神さまを好みます。しかし、例え天でも、それどころか天の上に広がる天の天によっても、神さまを閉じ込めてしまうことなどできやしない。神さまは完全に自由で、私の思惑に留めてしまうことはできない。
ところが、その神さまが私たちの内にいてくださる、と聖書は言います。「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにとどまり、神の愛がわたしたちのうちに全うされてるのです。」私たちが互いに愛し合う時、神さまは私たちの内にとどまってくださって、私たちの内に神の愛を実現してくださる、と言うのです。驚くべき言葉です。
今日は主の日です。教会堂は、神さまを収めるための場所ではありません。私たちが祈り、礼拝を献げるための場所です。私たちは心を一つにして神さまを礼拝します。天も地もお造りになった方を礼拝し、この方の前にひれ伏します。私たちは、キリストに頂く愛で互いに愛し合います。主イエス・キリストの愛が私たちの間で実現し、そこにキリストは留まってくださる。その約束を信じて、愛し合う私たちの間にキリストがいてくださることを信じて、私たちは今日も神の民として礼拝を献げます。

2022年5月28日土曜日

2022年5月28日の聖句

あなた方は君主を頼みにするな。彼らは人を助けることなどできない人間なのだ。(詩編146:3)
イエス・キリストは確かな証人で、死者の中から初めて生まれた方であり、以上の王たちの君主です。(黙示録1:5)

かつて、イスラエルには王がいませんでした。周辺諸国には王がいて、国としても強く、イスラエルは外圧に晒されていました。しかも当時の指導者サムエルは年を取り、後継者と目される息子たちは堕落し、ついにイスラエルの人々は不安にかられて王を立てるように要求します。自分たちも周りの普通の国のように王がほしい。まさに君主を頼みとして生きていきたい、と要求したのです。
神さまは人々の声を聞いて「私が彼らの王となることを退けている」とおっしゃいましたが、それでも民の要求を受け入れて、イスラエルに王をお立てになります。その王がサウルという人物でした。やがてサウルは自分の王位にしがみつき、民から徴用し、民のものを奪うようになります。
「あなた方は君主を頼みにするな。彼らは人を助けることなどできない人間なのだ。」これは、サウルという特定の王、あるいはヘロデやローマ皇帝という特定の人々が殊更にあくどいという話ではありません。むしろ、君主や王というものは不可避的に人を助けない人間になってしまう、という面がどうしてもあるのだと思います。あの名君ダビデでさえ、自分の欲望を満たすために臣下ウリヤを殺し、その妻バト・シェバを手籠めにしたのです。権力は、必ず腐敗してしまう。
たった一人の腐敗しない王、それがイエス・キリストに他なりません。「イエス・キリストは確かな証人で、死者の中から初めて生まれた方であり、以上の王たちの君主です。」キリストは支配するために人を殺すのではなく、私たちに命を与えるためにご自分を殺す者の手に渡してしまいました。キリストはご自分を献げて、私たちを生かしてくださいました。十字架にかけられ、復活をした王、それがイエス・キリストです。
明日は日曜日、主の日です。キリストが復活したことを記念し、喜ぶ日です。私たちは、私たちのためにご自身を十字架につける者の手に委ね、私たちのために復活したキリストを仰ぎ、キリストの命の御業に与るために、明日、キリストの御前に礼拝を献げようとしているのです。

2022年5月27日金曜日

2022年5月27日の聖句

行きなさい。主がおまえと共にいてくださるように。(サムエル上17:37)
誰かが仕えようとするなら、神が与えてくださる力をもって行きなさい。(1ペトロ4:11)

神さまは私たちが他者に仕えるための力を与えてくださいます。「誰かが仕えようとするなら、神が与えてくださる力をもって行きなさい。」普通、力をもって行くというのなら、仕えるためではなく支配するためです。仕えるためにわざわざ神さまの力を借りる必要などない、と普通は考えます。ところが聖書はとても意外なことを言います。「誰かが仕えようとするなら、神が与えてくださる力をもって行きなさい。」
そのことは、主イエス・キリストを見てもよく分かることです。キリストは神の子でありながら、僕の身分になってくださいました。へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした。僕になる神の子のへりくだりの道にこそ、神の力が現されたのです。仕えるために、神さまはご自分の全能の力を発揮してくださいました。だから、私たちも仕えるために神の力により頼みます。そうでなければ、どうして私たちがキリストがそうしてくださったようにまことにへりくだり、仕えることができるでしょうか。
「行きなさい。主がおまえと共にいてくださるように。」主なる神さまが私たちと共にいてくださるというのは、私たち神を信じる者の確信するところです。どこにいるにしても、何をするにしても、神は私たちと共にいてくださる。今日、私たちが特に覚えることは、他者に仕える時、私たちの僕になってくださった主イエス・キリストが共にいてくださる、ということです。私たちと共におられ、仕えるための神の力を私たちに与えてくださる。主イエスさまが、今日もあなたと共にいて、あなたのすることに豊かな祝福を下さいますように。今日一日の神の愛を祈っています。

2022年5月26日木曜日

2022年5月26日の聖句

主の家に植えられ、私たちの神の前庭で茂る。そして年を重ねても、なお花が咲き、実を結び、生き生きとしているだろう。(詩編92:14~15)
イエスは言う:わたしはあなた方にまた会います。そしてあなた方の心は喜ぶでしょう。あなた方のその喜びを誰もあなた方から取り去ることはありません。(ヨハネ16:22)

「主の家に植えられ、私たちの神の前庭で茂る。」とても素敵なイメージです。私たちは主の家の庭に植えられた木です。さがみ野教会にも、場所を上手に使って少しの木と、花壇には花々が植えられています。少し前にはドウダンツツジがきれいでした。もう少しすればアナベルが咲くことでしょう。美しい花も緑の木の葉も私たちの楽しみです。神さまの家の庭に植えられた私たちが神さまにとっての楽しみなのだとしたら、そんなに幸せなことはありません。
木はやがては枯れます。どんなに美しい花も、永遠に咲き続けることはありえません。私たちも生きているものとして必ず衰えますし、若い時の美しさは失われていきます。しかし、神さまの庭に咲く花としては、そうではないのです。「そして年を重ねても、なお花が咲き、実を結び、生き生きとしているだろう。」神さまの御前にあって、私たちは年を重ねても花を咲かせてその美しさを神さまは喜んでくださるし、実りを楽しんでくださる。私たちは神さまの前に生き生きとし続けることができる。神さまの祝福は、私たちの衰え以上に確かで、私たちを生かす恵みに満ちているのです。私たちの死をも超えて、神さまは私たちをご自分の庭に植えていてくださいます。生きている時にも死にゆく時にも、私たちは主イエス・キリストのものです。
「わたしはあなた方にまた会います。そしてあなた方の心は喜ぶでしょう。あなた方のその喜びを誰もあなた方から取り去ることはありません。」主イエス・キリストが私たちと出会い、私たちと共にいてくださるのは、永遠のことです。私たちをとこしえまでも神の庭に植え、世話するために、キリストは私たちと出会い、永遠に神さまのものとしてくださるのです。キリストの御名があがめられますように。

2022年5月25日水曜日

2022年5月25日の聖句

あなたのものです、主よ、偉大さと力と栄光と誉れと統治権は。つまり、天と地にあるすべてのものはあなたのものです。(歴代誌上29:11)
その方、それは、ただ一人の神で、神と人間のただ一人の仲介者です。すなわち人であるキリスト・イエスで、みなの身代金としてご自分を与えられました。(1テモテ2:5~6)

今日のこの二つの御言葉が合わせて与えられているというのは、ただならないことだと思います。
旧約聖書では偉大さと力と誉れと統治権、それらはすべて主なる神さまのもの。天と地にあるすべてのものはあなたのもの、と告白しています。神さまがこの世界にあるすべてのものを造り、それらを治めておられる。神さまこそがまことの王であり、まことの神だという信仰の告白です。
この世界が単なる偶然の産物に過ぎず、強い者が力によって奪い取るのも仕方がないと考えるのか、あるいはまことの神がおられてこれを造り、今も統治しておられると信じるのか。それによってこの世界に対する見方も、人生観も全く違ってくるのではないでしょうか。聖書のまことの王を知り、この方の前にへりくだる知恵は深いと思います。神を知り、神の前に身をかがめる時、私たちは本当に希望を持って生きることができるのではないでしょうか。
新約聖書では、そのお方、ただおひとりの神、この世界を、天と地とそこにあるすべてのものをお造りになった方と私たちのと仲介者、それはイエス・キリストだと言います。しかも、単なる取り次ぎ役というのではなく、キリスト・イエスはご自分を身代金としてお与えになったのだ、と言います。
私たちが神を信じることも、神さまに祈るのも、神の愛を信じて今を生きることができるのも、すべてはキリスト・イエスのお陰です。この世界を作った方は暴君ではなく、この世を支配しているのは悪ではないと私たちが心から信じて希望を持っていきられるのは、主イエス・キリストがおられるから。キリストによって現された神の愛が、今日の私を生かしてくださっていると私たちは信じて一日過ごすことができる。キリストのお陰で。ですから、今日与えられているこの御言葉は、私たちが今日というこの日を喜んで生きるための秘訣に他ならないのです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...