2022年6月30日木曜日

2022年6月30日の聖句

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。(出エジプト15:2)
マリアは言った:力ある方が、私に大きな事をしてくださったからです。その御名は聖なるかな。(ルカ1:49)

とつぜん真夏に放り込まれてしまったかのようで、なかなか、心も体も付いて行かれません。朝から夜までずっと暑いです。何もせずとも、ただ生きているだけで毎日ヘトヘトになってしまいます。そのような時にこそ、今日の御言葉を私たち自身の言葉としたいと願います。「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。」
これはモーセとヘブライ人たちがエジプトを脱出し、葦の海にまでいたった時、後ろから迫り来るエジプトの軍勢から逃れるために神さまが海の中に道を通してくださった時の歌です。神さまが何もないところに道を造って、私たちを救ってくださった。そういう救いの出来事を経験し、神さまをほめたたえる歌です。
「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。」主なる神さまが私の力でいてくださる。私に力が湧かずあるいは行き詰まっていたとしても、主が私の救いとなってくださっている。そのように言います。
神さまが海の中に道を通し、私たちをエジプトでの奴隷生活から救いだしてくださった。その救いの経験が、この賛美を生んでいます。洗礼を受けた者も、水の中をくぐり抜けて救われました。洗礼で頭に注ぎかけられる水は、私たちを悪から救い出す水です。私たちはもはや奴隷ではなく、神様にあって自由になっている。
毎日、本当に暑いです。肉体に食い込むような厳しい暑さです。神さま、助けてくださいと私たちも祈りながら毎日を過ごしている。しかしそれでも、私たちは根本的には神さまの救いにあずかっています。神さまが私たちの力であり、救いです。
「力ある方が、私に大きな事をしてくださったからです。その御名は聖なるかな。」これはマリアの賛歌。これもやはりマリアが主イエスを胎に宿した時の賛歌であり、救いを喜ぶ歌です。神さまの起こしてくださる救いの出来事が私たちの喜びの源泉であり、私たちの喜びです。夏の暑さも冬の寒さも奪うことのできない根源的な救いが、ここにあります。

2022年6月29日水曜日

2022年6月29日の聖句

私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたがたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30:19)
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)

「永遠の命とは・・・あなたと・・・イエス・キリストを知ることです」と言われています。主イエスさまの祈りの言葉の一節です。「永遠の命=知ることと」というのは、少し不思議なことのような気がします。知るというのは読んで字のごとく知的活動のはずなのであって、それは命と同じ事になりようがないのではないか、と思うからです。どういうことなのでしょうか。
まず、聖書の「知る」は、単なる知識や知的活動の範囲では収まらない、もっと豊かで広い意味を持っています。例えば、夫婦の関係を「知る」という言葉で表現することがあります。「人は妻エバを知った(創4:1)」などです。この「知る」は、明らかに知的活動以上の事柄、肉体も心も含む深い関係を表しています。
そして「知る」対象が神さまになった時、また独特の重みを持っていると思います。「主を畏れることは知恵の初め(箴1:7)」の「知」は敬虔さや礼拝につながります。日曜日に耳を傾けたエレミヤの言葉では「誇る者はただこのことを誇れ。悟りを得て、私を知ることを」と言っていました。主を知ることは、主の公正と正義と慈しみにあずかり、またこれに従うことを意味します。
「永遠の命とは・・・あなたと・・・イエス・キリストを知ることです。」それは明らかに知的な領域の話ではない。神を愛し、主イエスを愛し、信じ、従う事です。永遠の命とは、主イエス・キリストと、この方をお遣わしになった神を愛することです。神を愛する者を、神は愛してくださいます。永遠なるお方の前で、私たちは自分の命を超えた神の愛がこの私にさえも注がれていることを知る。私も永遠の命に生かされていることを知るのです。「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたがたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」だからこそ、神さまは私たちを招いておられます。命を、祝福を選び取りなさい、と。死や呪いの中に自分を沈めていくのではなくて、私たちを永遠に愛してくださる神の愛の中に帰ってこい、と主イエス・キリストは私たちを招いてくださっています。主イエスさまの祝福を、命を、今日選び取りましょう。

2022年6月28日火曜日

2022年6月28日の聖句

主が右におられ、私は揺らぐことがない。(詩編16:8)
パウロは言う:私は今日まで神の助けを体験してきました。そして、今やここにしっかりと立ち、神の証人となっています。(使徒26:22)

「今日まで、そして今や」と言います。今日まで、私は神の助けを経験してきた。今日までの神の助けの日々が現在に迫ってきているイメージだと思います。これまで、どのような時にも神の助けが共にあって、その日々が今の私を形づくっている。
そして、今や、私はここにしっかりと立っている。これまで私を助けてきてくださった神さまは今も私と共におられ、私を支えてくださっている。神の恵みの過去が今このときも私を支えてくださっているのです。「今日まで、そして今や。」これが神を信じる者の時間の見方です。今日までそうであったように、今も神が私を助けてくださっている。
「主が右におられ、私は揺らぐことがない。」主は私の右にいてくださる。この「右」という単語は、辞書を調べてみると「右」という意味の他に「南」という意味もあるそうです。右が南を意味するということは、体は東に向かっているということになります。東に向かっている人間の右手は南に向いています。主なる神さまは、私たちの右、つまり南側にいて、私と共に歩いてくださっている。南は太陽が昇ると一日の中で一番強い日差しが照りつけてくる方角です。今年は早くも梅雨が明けて日差しが強く照りつけていますが、旧約聖書が生まれたパレスチナ地域はなおのこと日差しは強かったのではないかと思います。そのような夏の熱い日差しからも、神さまは私たちを守ってくださいます。私たちの南側に立って。
神さまは、私たちをあらゆる災いから守ってくださる方です。南にも、あるいは北でも東でも西でも、私たちを守るために必要なところに立ってくださることでしょう。私たちを守る砦となり、雛を翼で覆う親鳥となり、私たちを必ず守ってくださいます。今日までそうであったように、今も、神さまが共にいてくださるから私たちは揺らぐことがない。
私たちは、神さまが私を守り、支えてくださっていることの証人です。神の恵みの承認として、私たちは今日もこの一日を右にいてくださる神と共に歩んでいきます。

2022年6月27日月曜日

2022年6月27日の聖句

あなたの民は言う。「主は正しく行ってくれない。一方で自分たちが正しい行いをしていない」。(エゼキエル33:17)
主に喜ばれるものが何かを吟味しなさい。(エフェソ5:10)

自分の生き方を吟味しなさい、と聖書は私たちに言います。
車の免許を取りに教習所に行くと、運転前に車の点検をするようにと教わります。エンジンオイルはきれいで、必要な量が入っているのか。冷却水は、ウィンドウォッシャー液はあるのか、タイヤはすり減っていないか。そのようなことを毎回毎回点検してから運転するように、といわれる。しかし、免許を取った後、運転の度にそれを実行する人はどれくらいいるのでしょうか。あまり多くないのではないかと思います。
聖書は、私たちに自分の生き方を吟味するようにと言う。自分の生き方をもう一度点検してみよ、と。自動車であれば、点検項目は自動車が法令の定める安全基準を満たしているか、安全に走行できるか、といったことになります。私たちの生き方の吟味は「主に喜ばれるものが何か」という基準に従ってなされます。私の生き方は、主に喜んで頂けるものであるのか?その一事を基準にして、私たちは自分の生き方を問い直します。
今日の旧約聖書の御言葉は、ローズンゲンの原書であるドイツ語のこの箇所を日本語に翻訳したものです。聖書協会共同訳の同じ箇所はこのように翻訳されています。「あなたの同胞は、『主の道は公正ではない』と言っている。しかし、彼らの道こそ公正ではない。」正義に背いて不正に溺れるイスラエルの人々に、預言者エゼキエルは、悪から離れて主に従おうと呼びかけます。神さまのもとに立ち返り、罪から立ち帰って正義と公正を行おう、と。不正なのは神さまではなく、私たち自身。その事実に気づいた時、私たちは生き方を変えざるを得ません。
基準は、私たち自身の価値観や好みではなくて、神さまです。神さまは何を喜んでくださるのか。私たちが何を喜びとするのかということではなくて、神さまが何を喜んでくださるのか。今日、私たちの一日も、主が何をお喜びになるのかということを問いつつ歩んでいきたいと願います。

2022年6月26日日曜日

2022年6月26日の聖句

神よ、あなたは私たちに多くの不安と苦難を経験させられましたが、再び私たちを生き返らせてくださいます。(詩編71:20)
私は、平和をあながたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)

ふるい一週間が過ぎ去って、新しい週が始まりました。日曜日です。どのようにこの一週間を過ごしてこられたでしょうか。心が散り散りになるような思いで一週間を過ごしてきた方もおられることでしょう。心が騒ぐこと、怯えてしまうようなこともあったかも知れません。不安と苦難を経験する一週間だったという方も、もう大丈夫。私たちの信じるイエス・キリストは、「私の平和を与える」と言ってくださるお方です。しかも、「私はこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われます。他の誰でもない、主イエスさまの平和を、主イエスさまにしか与えることのできない仕方で、私たちに与えてくださる。私たちの信仰は「だからもう大丈夫」という信仰です。
「神よ、あなたは私たちに多くの不安と苦難を経験させられましたが、再び私たちを生き返らせてくださいます。」この詩編の伝える祈りの言葉は、私たちにすばらしい気付きを与えます。「あなたは私たちに多くの不安と苦難を経験させられましたが」と言っています。私たちが味わってきた多くの不安や苦難は、神さまの手の中にあったのだと言います。神さまがあずかり知らないところで、事故のように起きてしまった不安や苦難ではないのです。どのようなことであっても、それは神さまの御手の内にある。私たちの天の父として、慈しみに満ちたお方のお与えになったものと、私たちは信じることができるのです。
しかし私たちに主イエスさまがお与えになる平和は「世が与えるように与えるのではない」と言っておられますから、私たちの期待したとおりの形ではないかもしれません。私たちには平和に見えないこともあるかも知れない。しかし、このお方が下さるのは、「私の平和」、つまり主イエス・キリストの平和です。私たちのために十字架にかかってくださった方の平和です。何よりも確かで、強く、したたかな平和です。
この新しい一週間も、いろいろなことがあるでしょう。一筋縄ではいかない日々が始まることでしょう。しかし、もう大丈夫。主イエス・キリスト、平和の主であるお方がどのような時にも私たちと共にいてくださるから。

2022年6月25日土曜日

2022年6月25日の聖句

人が自分の子を育てるように、あなたの神、主があなたを育ててくださったことを、あなたは心に留めているはずです。(申命記8:5)
イエスは言う:私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。(ヨハネ13:15)

主イエスは私たちがまねるための模範を示した、と言われます。ここでは、とても具体的な出来事についての話をしている。すなわち、このヨハネによる福音書第13章を初めから読んでみると、主イエスさまが十字架にかけられる前の晩、弟子たちと一緒に囲んだ食卓で、弟子たちの足を洗った、という出来事が記録されています。これは主イエスの愛の極みであった、と聖書は記している。弟子たちの足を洗い、彼らに向かって主イエスはおっしゃいます。「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」
主イエスが私たちに示してくださった模範、それは、愛の模範です。どうやって私たちが愛し合ったら良いのか、ということを主イエスが身をもって示してくださった。互いにひざまずいて、相手の僕になり、婢になって、足を洗い合う。私たちの生活習慣では足を洗うことはありません。しかしお互いの僕・婢として仕え合うということはいくらでもすることができるし、それが主イエスが私たちに示してくださった模範です。
主イエスの愛、神さまの愛。そのことを、旧約聖書ではこのように言っています。「人が自分の子を育てるように、あなたの神、主があなたを育ててくださったことを、あなたは心に留めているはずです。」神さまは、私たちをご自分の子を育てるように愛し、慈しみ、育んでくださった。その神の愛をあなたたちは心に留めているでしょう、と言っています。これまでのあなたたちの歩みの中で、神の愛を心底味わってきたはずです。聖書はそのように言います。
礼拝のことを、英語でサービスと言うことがあります。礼拝は私たちからの神さまへのサービスでもありますが、それ以上に、神さまの私たちへのサービスです。私たちが神さまを愛し、隣人を愛するよりも先に、神さまが私を愛してくださった。神さまが私に隣人を与えてくださった。そして私のことも隣人のことも、このお方が足を洗ってくださった。すべては神の愛から始まりました。わたしが今生きているただ一つの理由、それが神の愛に他ならないのです。

2022年6月24日金曜日

2022年6月24日の聖句

主の律法は完全で、魂を生き返らせる。(詩編19:8)
群衆はヨハネに尋ねた:それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。
ヨハネは彼らに応えて言った:下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。(ルカ3:10~11)

今日の御言葉は、かなりギクリとさせられると思います。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。」下着です。生きていくために絶対になくてはならない物です。当然、現代のようにユニクロにでも行けば2枚1000円で買えるというわけではありません。趣味で集めたコレクションの話でもない。わたしにとっても、あの人にとっても、なくてはならない、人としての尊厳にさえ関わるものです。
しかも、「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい」と言っていて、10枚も持っているなら一枚くらいは、というのではないのです。三枚の内の一枚でもない。二枚の内の一枚です。それをあげてしまったら、わたしは一体どうやって下着の洗濯をしたら良いのでしょう!ここでしているのはそういう話です。わたしのなけなしの、しかし僅かに余裕があるものを隣人に与えよ、と言うのです。
そうとすると、「食べ物を持っている人も同じようにしなさい」も同じ響きを持っているに違いありません。有り余る余剰や、食べても食べなくても良いデザートの話ではなく、今日生きるために必要な食べ物。それを食べるものがない人と分かち合え、と言うのです。
私たちの生き方を根本から問うような、すごくチャレンジングな言葉です。しかし正直に言って、聞くと少し苦しくなって、聞かなかったことにしてしまいたくなる言葉でもあります。本気で従おうとしたら・・・一体できるのだろうかと思わざるを得ません。
今日の旧約聖書の御言葉はこのように言います。「主の律法は完全で、魂を生き返らせる。」魂を生き返らせるというのは、本来のわたしに戻るということなのかも知れません。主の律法、つまり神の言葉に従うとき、私は本当に私らしく生きることができる。魂が生き返る。先ほどの新約聖書の言葉も、私たちに対する高すぎる目標や過大な要求ではなく、私の魂を生き返らせる言葉。なぜなら、キリストこそが私のためにあのようにしてくださったから。聖書は、私たちにそのように語りかけているのではないでしょうか。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...