2019年2月2日土曜日

2019年2月2日(出エジプト記3〜4)

今日の通読箇所:マタイによる福音書25:1-30、出エジプト記3~4、詩編38

出エジプト記3~4;
モーセは神の山ホレブで、神様と出会いました。神様は「モーセ、モーセ」と彼を呼び、それだけではなくご自身のお名前を、モーセに教えてくださいます。モーセと生を呼び合う関係になろうと願ってくださったのです。
名前というのは、他のものと区別するために使うものです。私は他の家の人間ではないので宮井という名前であり、宮井の中でも他のものと異なることのしるしとして岳彦という名前です。白くて砂のような形状の調味料の中でも、塩化ナトリウムを主成分として腐敗を防止したりしょっぱい味をつけたりすることのできるものを「塩」と呼びます。塩と呼べば、似た形状の他の調味料である砂糖とは区別されます。名前というのは、社会の中で他と区別し、何なのかを識別するために使うものです。
そう考えると、神様に名前は必要なのでしょうか?もしも並んで他の神々がいるのなら、他の神ではないこの神という名前が必要です。しかし、他の神などないのなら、名前は必要ないことになります。そして、私たちは、この神に並ぶものはないと信じています。
しかし、神様はご自分の名前を私たちに名乗ってくださいます。それ自体、すでに、神様の大いなるへりくだりです。では、いかなるお名前なのか?「私はいる、というものである。(3:13)」不思議な名です。さらに、「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(15節)」とあります。「私はいる」、そして「主」、これが神様のお名前です。
「私はいる」というのは、新共同訳では「私はある」と訳されていましたが、変わりました。「ある」というのは、物に使う存在の動詞です。「いる」は、人などの、生きたものに使います。そういうことで、訳を変更したのかもしれません。神様は哲学的な概念とか、大いなる自然の驚異のようなものではなく、私たちと共にいて、私たちと名前を呼び合う関係になりたいと願っていてくださるお方です。今、私たちはこのお方のことを「主イエス・キリストの父」と知らされ、そうお呼びすることが許されています。

2024年12月22日の聖句

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