「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」この御言葉は、私が洗礼を受けたときに母から贈られた聖書の最初のページに書かれたものでした。私にとっては思い出深い聖書の言葉です。わが身を省みて、本当にそうだと思う言葉です。知識は、それがどんなに豊かで素晴らしいものであっても、最後は自分自身のために働きます。しかし、愛は他者のために働きます。「愛は造り上げる。」ここで造り上げるのは教会のことだと説明する人もいます。そうかもしれません。しかし、ある一人の人であるかもしれないとも思います。たった一人の人をめがけて、一人の人に愛を向け、倒れているときに側らで共に痛む愛。そんな私たちのためのキリストの愛を共に見上げる。それは、私たちを本当に造り上げるのではないでしょうか。
もう一つ、今朝の聖書の言葉で心にとまるのは6節です。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」この言葉は恐らく当時の讃美歌か何かの引用です。その歌詞を自分自身の信仰告白として、パウロがここに引いています。「わたしたちはこの神へ帰っていく」「わたしたちもこの主によって存在している」。この私が、今ここにいるのは、このキリストが命を下さり、存在させてくださっているから。
このことを、最初の知識と愛のことと併せて思い巡らすと、コリントの信徒への手紙一では最初から知識と愛の話をしていたことに気づきます。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言ったとき、その愛は何よりもまず十字架につけられたキリストの愛です。この十字架のキリストの愛が私たちを造り上げます。
ここでは、具体的に、偶像に供えられた肉の話を始めています。ギリシアの町コリントには、神々の神殿があり、祭儀が行われていました。そこで供された肉はその場で食べられたり、市場に卸されたりしていたようです。その肉が教会の人の口に入ることもあった。果たしてそれを食べて良いのかと問題になった。使徒15:20では、禁じられています。しかしパウロはここでは容認していました。「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」だから、偶像など恐れる必要はない、というのです。コリントの状況は日本と似ています。私たちで言えば、お葬式での焼香が似たケースかもしれません。焼香は偶像礼拝だと避ける人もいて、それも一つの態度だと思います。わたし自身は、愛する者を喪って悲しむ人へ哀悼と愛を適切に表す自由の幅があると考えます。私たちは自分の正しい知識を貫くことよりも、十字架のキリストの愛を映し出すことが大事なのではないでしょうか。それは、ただただ十字架のキリストがわたしを知り、愛して救ってくださったからに他ならないのです。