2019年6月15日土曜日

2019年6月15日(サムエル記下23〜24)

今日の通読箇所:使徒言行録10:1~23、サムエル記下23~24、ヨブ記27

サムエル記下23~24;
ついに、ダビデの治世の最後を迎えました。第24章には、最後の大事件が記録されています。ダビデは「イスラエルのすべての部族の間を巡り、民の人口を調べ(24:2)」ることを思い立ち、将軍ヨアブにそれを実行させます。しかしヨアブはダビデのこの指示はよいことだとは思いませんでした。王をいさめます。ところが王の命令は厳しく、ヨアブはこれに従います。
「だが、民の数を数えたことは、ダビデの良心の呵責となった(10)」のでした。なぜなのでしょうか。また、ヨアブは何がよくないと思ったのでしょうか。そして、神ご自身がこれを過ちとみておられるようですが、どうして人口調査が罪深い行いなのでしょうか。実際、。民数記でも大規模な人口調査をしているのです。
恐らく、ダビデのこの人口調査は、ダビデにとっては国民をあたかも自分の所有物のように勘違いしてしてしまったことなのだろうと思います。主イエスがお生まれになるとき、皇帝アウグストゥスによる人口調査が行われていました。これと似ているのではないかと思います。ダビデにとっては、この人口調査では徴兵と租税の意味があったのでしょう。それは、国王として国民を所有物のように取り扱う誘惑であったのだと思います。
この罪への裁きを、ダビデは人ではなく神の手に委ねました。三日間、国中が疫病に襲われたのです。七万人が死にました。その後、ダビデはエブス人アラウナという人の麦打ち場を購入して、そこに主のための祭壇を築き、礼拝をします。実は歴代誌下3:1で、「ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた。そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である」と言っているのと同じ場所です。アラウナとオルナンは同一人物と考えられます。ダビデが罪の悔い改めの礼拝を献げた場所に、やがて主の神殿が建てられるのです。私たちの神への礼拝は、何よりもまず罪の悔い改めであり、神の憐れみに自分を委ねようという信仰を献げる場なのです。

2024年12月23日の聖句

私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...