今日の通読箇所:テトスへの手紙1、エレミヤ書1~2
エレミヤ書1~2;
預言者エレミヤは、南王国ユダの王ヨシヤの時代、そしてその子ヨヤキム、さらにゼデキヤ王の終わり、つまりバビロンに捕囚されるまで活動した預言者だと冒頭に述べられています。列王記で以前読みましたが、ヨシヤ王の時代は神様にむき直し、神様の御言葉に従って生きていましたが、その後は信仰の民としては見事に転落し、国は完全に崩壊してしまいました。エレミヤは、そういう崩壊の時代を生きた預言者です。神の民が滅ぼされるのを目の当たりにした預言者です。
エレミヤはこの時代の中で民の問題を具体的に語りましたので、当然のこととして、話題は政治的な勧告も含まれました。それはイザヤと同じです。しかし単に政治問題を政治の次元で考えるのではなく、神との関係をそこに問います。
「彼らは空しいものの後を追い、空しいものになり果ててしまった(2:5)」と言っていますが、この言葉が神様と民との関係を言い表していると思います。民は空しいものを追っているつもりはありませんでしたが、実際に彼らは空しい生き方に終始していた。その根本的な理由は、神を捨てて空しいものを追い求めていたからです。「わが民は二つの悪をなした。命の水の泉である私を捨て、自分たちのために水溜を掘ったのだ。水をためることもできないすぐに壊れる水溜を(2:13)」。神様を捨てて、空しいものの後を追ったことに、預言者は民の罪の根を見ています。
私たちは、何を求めているのでしょう。私たちは、何の後を追っているのでしょう。自分自身空しいものにならざるを得ない空しいものというのは、自分の欲望であったり、承認欲求を満たすための評判であったり、そういうものでもあるのかもしれません。
神様は、そんな民をご覧になって言われます。「彼らは木に向かって『あなたは私の父』と言い、石に向かって『あなたは私を産んでくださった』と言う。私に顔ではなく背を向けておきながら、災難に遭えば『立ち上がって、お救いください』と言う。あなたが造った神々はどこにいる。災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら、彼らが立ち上がればよい(2:27~28)」。私たちを本当に救う力をお持ちの方に、私たちはひれ伏しましょう。私たちを救うために、私たちが呼ぶ前に、もうすでに立ち上がっていてくださる方に、私たちは祈りましょう。主なる神様は、私たちを求めて、ご自分に立ち帰れと招き続けてくださっています。
2024年12月27日の聖句
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