詩編73
神はなんと恵み深いことか
イスラエルに、心の清い者たちに。(1節)
そのように言って始まる詩編ですが、すぐに意外な言葉が出てきます。
それなのに私は、危うく足を滑らせ
今にも歩みを踏み誤るところだった。(2節)
この詩編は罪との闘いの詩編です。足を滑らせ、歩みを踏み誤りそうになりながらも神にすがりつき、立ち帰ろうとする者の祈りの言葉です。なぜ、足を滑らせてしまいそうになったのか。「悪しき者の安泰を見て、驕り高ぶる者を妬んだ(3節)」とある通り、他の人のあり方に誘われたのです。神の恵みのみに生きようとしない、正しく生きようとしない、そういう生き方がうらやましくなってしまったのです。神さまを信じて生きていて、そういう気持ちになったことがないという人はいないのではないでしょうか。なんだか自分は信仰のために損をしているのではないか、神さまのことなんて知らなかった方が自由だったのではないか。彼らが「安穏に財をなしてゆく」のが腹立たしくもあり、うらやましくもあり・・・。そこに罪への誘惑が潜んでいるのです。
しかし、この詩編作者はまっすぐに神を見上げます。
何と空しいことか。
私は心を清く保ち
手を洗って潔白を示した。(13節)
悪しき者、驕り高ぶる者が求めているものは空しい。豊かになること。人から誉めてもらうこと。安心・安全・便利・快適のようなものでしょうか。しかし、彼らを妬む私も、やはり同じものを求めている。空しいものを求めて空しい者になってしまっているのは、他ならぬこの私自身。だから、この詩編は言います。
私の心は痛み
はらわたの裂ける思いがする。
私は愚かで物を知らず
あなたと共にありながら獣のようだった。(22節)
神の前で悔い改めます。獣のような私、足を滑らせて歩みを踏み誤る私を、神さまの前にお詫びしています。他の人が間違っているということよりも、この私が誤っていることを告白します。
この身も心も朽ちるが
神はとこしえにわが心の岩、わが受くべき分。(26節)
そこに希望がある。救いがある。だから、神のもとに立ち返ります。そう告白するのです。
神はなんと恵み深いことか
イスラエルに、心の清い者たちに。(1節)
そのように言って始まる詩編ですが、すぐに意外な言葉が出てきます。
それなのに私は、危うく足を滑らせ
今にも歩みを踏み誤るところだった。(2節)
この詩編は罪との闘いの詩編です。足を滑らせ、歩みを踏み誤りそうになりながらも神にすがりつき、立ち帰ろうとする者の祈りの言葉です。なぜ、足を滑らせてしまいそうになったのか。「悪しき者の安泰を見て、驕り高ぶる者を妬んだ(3節)」とある通り、他の人のあり方に誘われたのです。神の恵みのみに生きようとしない、正しく生きようとしない、そういう生き方がうらやましくなってしまったのです。神さまを信じて生きていて、そういう気持ちになったことがないという人はいないのではないでしょうか。なんだか自分は信仰のために損をしているのではないか、神さまのことなんて知らなかった方が自由だったのではないか。彼らが「安穏に財をなしてゆく」のが腹立たしくもあり、うらやましくもあり・・・。そこに罪への誘惑が潜んでいるのです。
しかし、この詩編作者はまっすぐに神を見上げます。
何と空しいことか。
私は心を清く保ち
手を洗って潔白を示した。(13節)
悪しき者、驕り高ぶる者が求めているものは空しい。豊かになること。人から誉めてもらうこと。安心・安全・便利・快適のようなものでしょうか。しかし、彼らを妬む私も、やはり同じものを求めている。空しいものを求めて空しい者になってしまっているのは、他ならぬこの私自身。だから、この詩編は言います。
私の心は痛み
はらわたの裂ける思いがする。
私は愚かで物を知らず
あなたと共にありながら獣のようだった。(22節)
神の前で悔い改めます。獣のような私、足を滑らせて歩みを踏み誤る私を、神さまの前にお詫びしています。他の人が間違っているということよりも、この私が誤っていることを告白します。
この身も心も朽ちるが
神はとこしえにわが心の岩、わが受くべき分。(26節)
そこに希望がある。救いがある。だから、神のもとに立ち返ります。そう告白するのです。