詩編108
あなたの愛する人々が助け出されるように
右の手で救い
私に答えてください。(7節)
この詩編108はとても興味深い詩編です。前半の2節から6節までと後半の7節から14節までの二つの部分から成り立っています。さらに、前半は詩編57:8~12とほとんど同じです。108:2の最後の行と57:9の一行目が僅かに違いますが、それ以外はほとんど同じようです。また、後半は詩編60:7~14と同じです。ぜひ、読み比べてみてください。つまり、この詩編は第57編と第60編の一部分を抜き出し、それらを組み合わせて新しい詩編にしたもの、ということになります。
詩編57は1節の表題を見ると、「ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき」とあります。サウル王の家臣であった青年ダビデは人望があり、また軍人としてもとても優秀で、民衆から絶大な人気がありました。サウル王はダビデを妬み、また脅威に感じ、彼を殺そうと企んだ。ダビデの命を狙われていたときの祈りの言葉として、詩編57は覚えられています。
それでは詩編60にはどういう事情があるのでしょうか。同じように1節の表題を見てみると「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」と書かれています。こちらはダビデが王になった後のことです。他国と戦争をしたとき。ダビデの家臣ヨアブはエドム人を討ったようですが、イスラエル全体としては苦境にあります。2節を見ると「神よ、あなたは私たちを拒み、打ち倒し、怒っておられます」とあることからも分かります。
詩編57は言ってみればダビデの個人的な苦境からの救いを求める祈りの言葉。詩編60はイスラエルという共同体全体の苦境への救いを求める祈り。個人的な救いと共同体全体の救い。この二つが組み合わされているのが、今日の詩編108ということになります。
詩編一〇八では、詩編60に見られる共同体全体の危機のための祈りが詩編57のダビデという一人の信仰者の救いへの確信によって、乗り越えられています。「あなたの愛する人々が助け出されるように、右の手で救い、私に答えてください」という祈りの言葉は、一人の信仰者が神の救いを信じ、確信することで、共同体全体の救いの確信に昇華されているのです。私たちの信仰は個人的な事柄以上の意味を持ちます。この私への救いは、共同体の救いと一つだからです。私たちは自分のためだけではなく、隣人のためにも信じるのです。
あなたの愛する人々が助け出されるように
右の手で救い
私に答えてください。(7節)
この詩編108はとても興味深い詩編です。前半の2節から6節までと後半の7節から14節までの二つの部分から成り立っています。さらに、前半は詩編57:8~12とほとんど同じです。108:2の最後の行と57:9の一行目が僅かに違いますが、それ以外はほとんど同じようです。また、後半は詩編60:7~14と同じです。ぜひ、読み比べてみてください。つまり、この詩編は第57編と第60編の一部分を抜き出し、それらを組み合わせて新しい詩編にしたもの、ということになります。
詩編57は1節の表題を見ると、「ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき」とあります。サウル王の家臣であった青年ダビデは人望があり、また軍人としてもとても優秀で、民衆から絶大な人気がありました。サウル王はダビデを妬み、また脅威に感じ、彼を殺そうと企んだ。ダビデの命を狙われていたときの祈りの言葉として、詩編57は覚えられています。
それでは詩編60にはどういう事情があるのでしょうか。同じように1節の表題を見てみると「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」と書かれています。こちらはダビデが王になった後のことです。他国と戦争をしたとき。ダビデの家臣ヨアブはエドム人を討ったようですが、イスラエル全体としては苦境にあります。2節を見ると「神よ、あなたは私たちを拒み、打ち倒し、怒っておられます」とあることからも分かります。
詩編57は言ってみればダビデの個人的な苦境からの救いを求める祈りの言葉。詩編60はイスラエルという共同体全体の苦境への救いを求める祈り。個人的な救いと共同体全体の救い。この二つが組み合わされているのが、今日の詩編108ということになります。
詩編一〇八では、詩編60に見られる共同体全体の危機のための祈りが詩編57のダビデという一人の信仰者の救いへの確信によって、乗り越えられています。「あなたの愛する人々が助け出されるように、右の手で救い、私に答えてください」という祈りの言葉は、一人の信仰者が神の救いを信じ、確信することで、共同体全体の救いの確信に昇華されているのです。私たちの信仰は個人的な事柄以上の意味を持ちます。この私への救いは、共同体の救いと一つだからです。私たちは自分のためだけではなく、隣人のためにも信じるのです。