2021年9月12日日曜日

2021年9月12日の聖句

主よ、あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を、顧みてくださいます。(詩編10:14)
病気の子どもの父親はイエスに、「おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください」と言った。(マルコ9:22)

この子どもは汚れた霊に苦しめられていました。幼い頃からです。「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」と、父親は訴えています。どんなに苦しかったことでしょう。その子も、そして父親や、心配しながら待っていたのであろう母親も。子どもが自分を傷つけている姿は、本当につらかったに違いない。息子を苦しめる汚れた霊を、しかし、これまで誰も追い出すことができなかった。イエスの弟子にもできなかった。それで、父はわらにもすがる思いでイエスに言うのです。「おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください。」
すると、イエスは父親に言いました。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」すると父はすぐに叫んで言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。
私は、信じるというのはこういうことなのだと思います。堂々と、胸を張って「信じます」ということではない。最後の晩餐の席上でのペトロは、そうだったのかもしれません。胸を張って「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。しかし、その自信はその夜の内に砕かれました。私たちには堂々とイエスさまに宣言できる信仰なんて、ないのかもしれない。しかし、主イエスは「信仰のない私をおたすけください」と訴える信仰を無下にはなさらないのです。イエスはこの息子をいやしてくださいました。
「主よ、あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を、顧みてくださいます。」それは、自分の不信仰さえも神さまにゆだねる人のことです。自身一杯に神さまの前に立てない私を、そのままに神さまにお委ねする人を、神さまは決して捨てません。あなたの労苦も悩みも、神さまが助けてくださいます。だから、大丈夫です。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...