2022年9月24日土曜日

2022年9月24日の聖句

わたしは、ぶどう酒のかすの上によどみつつ、心の中で「主は良いことも、悪いこともしない」と言っている者どもを罰する。(ゼファニヤ1:12)
あなたは、「私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要なものはない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金を私から買うが良い。自分の裸の恥をさらさないように、身にまとう白い衣を買い、また、見えるようになるために目に塗る薬を買うが良い。(黙示録3:17~18)

「心の中で『主は良いことも、悪いこともしない』と言っている者ども」というのは、一言で言って、神さまを嘗めていることに他ならない。自分が何をしたって、神さまはどうせ何もしないし遠くから眺めているだけなのだから、どうだっていい、と嘯いている。あるいは、心の中で神さまを小さく見積もっている。これは預言者ゼファニヤを通して語られた神さまの御言葉です。この預言者は、そうやって神さまを嘗めている人を「ぶどう酒のかすの上によどみつつ」というイメージで表しました。どういうことなのでしょうか。ぶどう酒のかすというのは、実を搾った後に残る皮とか種とか軸など、本来は取り除くべきゴミのことだろうと思います。どうしても入り込んでしまうが、そのまま残してしまうと、せっかく作ったぶどう酒の味が落ちてしまいます。それがよどんでいる。私たちの心の有り様のことなのかも知れません。本当のぶどう酒の価値を損なうかすが残ったままになってしまっている。それが、「どうせ神さまなんて・・・」というつぶやきになって現れているのかも知れません。
そんなとき、実は、私たちは自分自身の姿にも気づけなくなっている、と今日の新約の御言葉はいっています。自分が本当は惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であるのに、十分満ち足りていると満足してしまっている。確かに外面的には本当に裕福です。毎日不自由なく食べられています。しかし、神さまの前に、どうなのでしょうか。
それが見えるようになるために、目に塗る薬を買え、と言っています。ぶどう酒のかすを取り除けということでしょう。しかしそのためには、神様ご自身に取り除いて頂かなくては、どうしようもない。主イエスは、何度も繰り返し、聖霊を受けなさいと弟子たちにお命じになりました。聖霊、それは神様ご自身の霊です。神さまご自身を頂かなくては、私たちは自分で自分を清めること、見えるようになること、かすを除くことができないからです。しかしキリストは、私たちが神のものとして生きるために必要な聖霊を与える、と約束してくださいました。私たちが祈るとき、既に、私たちはその霊にあずかっているのです。

2024年12月26日の聖句

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