見よ、主を畏れること、これが知恵であり、
悪を避けること、これが分別です。(ヨブ28:28)
ですから、自分の内の光が闇にならないように気をつけなさい。(ルカ11:35)
今日の新約聖書の御言葉の直前の34節にはこのように書かれています。
「あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。」そしてそれに続いて、今日の御言葉にいたります。「ですから、自分の内の光が闇にならないように気をつけなさい。」
私たちの光である目が曇り、悪くなって、光が闇になってしまわないように気をつけなさい、と言うのです。
確かに目は光を感じるための器官ですから、自分の体、つまり自分自身にとって目が光だというのはその通りなのかも知れません。しかしこれは象徴的な言葉なのでしょう。私たちは何を見ようとしているのか、何に目を向けているのか。それによって、例え肉体の目が開いていても暗くなってしまうことがある。目が悪くなって、光が闇になってしまう。そういうことがあるのではないでしょうか。あるいは逆に、盲目の人であっても、その心の目をどこに向けるかによって、闇ではなく光の中に生きているということに違いないと思います。
私たちの目は何に向かうとき、まことに体の光と呼ぶにふさわしくなるのか。それを示すのが、今日の旧約聖書の御言葉です。「見よ、主を畏れること、これが知恵であり、悪を避けること、これが分別です。」主を畏れ、悪を避けて生きること。主なる神様にこの目を向けるとき、私たちの目は光なのです。
先だって、皆既月食がありました。私もずいぶんと長い時間月を眺めて楽しみました。少しずつ月が欠けて暗くなっていき、皆既食になると今度は赤銅色に変わります。幻想的です。普通の満月も、あるいは他の日の月も、そして月食になっていても、すべては太陽の光を受けて光っています。その当たり方や地球との位置関係によって、あのような不思議で美しい色になる。私たちの「目」は、月と同じようにそれ自体が光ることはできません。私たちを包む光があるから、初めて体の光として機能することができます。私たちは主なる神様という光の中で、初めて光として生きることができる。その平安、その救いは、どんなにすばらしいことでしょう。キリストの光の中を、今日も生きていきましょう。
悪を避けること、これが分別です。(ヨブ28:28)
ですから、自分の内の光が闇にならないように気をつけなさい。(ルカ11:35)
今日の新約聖書の御言葉の直前の34節にはこのように書かれています。
「あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。」そしてそれに続いて、今日の御言葉にいたります。「ですから、自分の内の光が闇にならないように気をつけなさい。」
私たちの光である目が曇り、悪くなって、光が闇になってしまわないように気をつけなさい、と言うのです。
確かに目は光を感じるための器官ですから、自分の体、つまり自分自身にとって目が光だというのはその通りなのかも知れません。しかしこれは象徴的な言葉なのでしょう。私たちは何を見ようとしているのか、何に目を向けているのか。それによって、例え肉体の目が開いていても暗くなってしまうことがある。目が悪くなって、光が闇になってしまう。そういうことがあるのではないでしょうか。あるいは逆に、盲目の人であっても、その心の目をどこに向けるかによって、闇ではなく光の中に生きているということに違いないと思います。
私たちの目は何に向かうとき、まことに体の光と呼ぶにふさわしくなるのか。それを示すのが、今日の旧約聖書の御言葉です。「見よ、主を畏れること、これが知恵であり、悪を避けること、これが分別です。」主を畏れ、悪を避けて生きること。主なる神様にこの目を向けるとき、私たちの目は光なのです。
先だって、皆既月食がありました。私もずいぶんと長い時間月を眺めて楽しみました。少しずつ月が欠けて暗くなっていき、皆既食になると今度は赤銅色に変わります。幻想的です。普通の満月も、あるいは他の日の月も、そして月食になっていても、すべては太陽の光を受けて光っています。その当たり方や地球との位置関係によって、あのような不思議で美しい色になる。私たちの「目」は、月と同じようにそれ自体が光ることはできません。私たちを包む光があるから、初めて体の光として機能することができます。私たちは主なる神様という光の中で、初めて光として生きることができる。その平安、その救いは、どんなにすばらしいことでしょう。キリストの光の中を、今日も生きていきましょう。