2022年11月5日土曜日

2022年11月5日の聖句

主よ、あなたの御手には力と権力があり、あなたに立ち向かうことのできるものは誰もいません。(歴代誌下20:6)
私は確信しています。死も命も、天使も諸勢力も諸権力も、現在のものも未来のものも、高きにあるものも低きにあるものも、他のどのような被造物も、私たちを私たちの主であるキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38~39)

今日の新約聖書の御言葉は、私にとっては最愛の御言葉の一つです。「私たちを、私たちの主であるキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできません。」私が強いからだとか、私の確信が深いからだとか、私が信仰深いから、というのではありません。キリスト・イエスにあって示された神の愛が確かだから、何ものであっても私を神の愛から引き離すことができない、と言います。この神の愛への確信こそが、「信じる」ということです。
「主よ、あなたの御手には力と権力があり、あなたに立ち向かうことのできるものは誰もいません。」旧約の御言葉はそのように言っています。ここでもやはり、神さまの御手の力と権力への確信と信頼を言い表しています。神さまの力を確信するとき、私がどのようなものかということは、ほんの小さなことになってしまいます。私の弱さや至らなさではなく、神さまの御手の力に目が向くからです。
私たちの信仰生活にとってとても大切な祈りの一つは、罪の告白の祈りです。先日もご紹介したルターの95箇条の提題の第一の命題ですが、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、彼は私たちが日ごとに悔い改めることをお望みになったのである」と、「日ごとの悔い改め」と理解する伝統もあるそうです。私たちは日ごとに罪の悔い改めの祈りを捧げて生きています。この祈りは、自分の罪深さの中に拘泥したり、自分の至らなさへの自己嫌悪に浸ったり、自己憐憫にうずくまることではありません。圧倒的なキリストの赦しの恵みをいただくことです。キリストの愛の光の中で、初めて私たちは自分の罪を知ることができるのです。
私たちを神の愛から引き離すものは何もありません。それは、どのようなものであっても、不可能です。キリスト・イエスの愛よりも強いものはこの世界に存在しないからです。私たちはキリストによって示された神さまの絶対的な愛によって、今日も守られています。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...