2023年2月3日金曜日

2023年2月3日の聖句

あなたがたはどうしてすべてを逆さまにしてしまうのか。あたかも粘土が陶工に等しいとでも言うように、作品が自分の作者について「彼は私を造っていない」と言い、彫像が自らの造り手について「彼は何も理解していない」などと言うのか。(イザヤ29:16)
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(エフェソ2:10)

私たちは神の作品。嬉しい言葉です。自分という存在への理解が変わります。私も神の作品なのだと私たちは信じて良いし、更にはそのことを知るべきです。私という存在の根本を支える事実です。
一口に作品と言っても、用途によってその尊卑は全然違います。尊い目的のために造られたものであれば作品自体も尊く扱われますが、賤しいことのための道具はそれ自体が賤しいものと見なされる。私たちは神の作品。何のために造られた作品なのか。私たちは「良い行いをするために」造られました。そうであるならば、私たちは神さまのお造りになった良い作品に違いありません。しかも、私たちはキリスト・イエスにあって造られました。わたしたちは神の作品として造られたとき、その最初からすでにキリスト・イエスにあって造られている。だから、わたしたちは根本から良いものとして頂いています。わたしたちがキリストにあって造られたのは悪しき業のためではなく良い業のため。私たちに命を与えられた根にあるもの、そして私たちが向かうべき先にあるもの、そのすべてがイエス・キリストご自身だと聖書は言います。すごいことです。
だから、神の作品として、神がお造りになった目的に適う私でいたいと願います。我が家では平日の朝はテレビで幼児番組が流れています。しばらく前にこんな歌が放映されていました。「あさおきられない、めざましどけい。さむがりな、ゆきだるま。むしいがにがてな、むしかご。はたらきものの、なまけもの。ひとりになりたい、いくら。あつまって、ひるねして、おやつたべて、でたこたえ。いいんじゃない、いいんじゃない、うん、いいんじゃない。またね。」とっても優しいメロディで、癒やし系の歌です。確かに誰かに押しつけられた「らしさ」を強要されのはつらいことです。無理を強いられて疲れ切ってしまうこともあります。ただ、私は同時に思います。他の人間や社会の要求ということではなく、神さまとの関わりで考えると、この歌は少し違うかな、と。私たちが神さまに造られた者としての自分らしさを失ってしまっては、「うん、いいんじゃない」とは言えない。神さまは私たちを尊いことのために造り、キリスト・イエスにあって命を下さいました。キリストにある私らしさ、神さまが愛を込めて造ってくださったものとしての私らしさは、祝福です。神の子、神に造って頂いたものであることを大事にしたい。そこにこそ私たちの本当の癒しがあるのですから。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...