2023年10月11日水曜日

2023年10月11日の聖句

主よ、あなたは苦難にある貧しい者たちの砦、
横暴な者たちが荒れ狂うとき、
嵐を前にした避けどころ、
暑さに直面したときの日陰であられた。(イザヤ25:4)
私たち生きているものは、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(2コリント4:11)

私たちは、苦難の時に思い起こすことができます。神様が私たちの避けどころとなってくださっていることを。神様が嵐の日に私たちを守ってくださっていることを。神が日陰となって私たちを照りつける太陽のような苦しみから守ってくださっていることを。
だから私たちにとっては、もはや苦難の意味が変わっています。苦難は単に苦難で終わるのではない。ただ苦しいだけのものではない。神がこの苦難の逃れ場となってくださっている以上、この苦難にも意味はある。主イエス・キリストにあって、この苦しみにも必ず意味がある。
そのことを使徒パウロはこのように言います。「私たち生きているものは、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。」私たちの苦難は、主イエスさまの死がこの肉体に現れたのだ、と言います。かなり大胆な言葉です。しかし、真実の言葉です。私の苦しみは、単に私だけの苦しみではない。私の苦難は私がただ苦しんでいるだけではない。主イエス・キリストの御苦しみの一端を味わわせて頂いている。キリストに連なる意味があるのです。
私たちは、神が私の苦難に連帯してくださった以上、私もまた隣人の苦しみに寄り添い、苦しむ人と共に生きるように召されているのではないでしょうか。隣人のための苦しみこそ、キリストが私のために負ってくださった苦しみではないでしょうか。
私たちは、今日、キリストの愛の道に招かれているのです。

2026年5月2日の聖句

私の足取りをあなたの仰せで 確かなものにしてください。 どのような悪にも私を支配させないでください。(詩編119:133) 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(1ヨハネ2:6) 「あなたの仰せ」、すなわち神...