2025年1月7日火曜日

2025年1月7日の聖句

主の諭しを拒むな。
主の懲らしめをいとうな。(箴言3:11)
イエスは権威をもって教えられた。(マルコ1:22)

権威ある言葉、というものが世の中にはあります。社会の中で何かの事件や出来事が起こると、テレビにはその道の権威ある人が登場して、何らかのコメントを発します。そうすると、たいていの場合、私たちは「そういうものか」と受け入れ、その人が言っているように物事を解釈します。選挙の結果についてもそうでしょうし、私たちが詳しく知らない海外の情勢や戦争の原因もそうでしょう。それだけではなく、健康についての情報や、自然災害についての解説などでも、同じだと思います。特に、現代社会を生きる私たちにとっては、テレビが言っていることは大きな権威として響きます。テレビが言っているのだからそうなのだろうと、ついつい無批判に受け入れてしまいます。
しかしそういうたくさんの権威は、案外あやふやなのものです。特にテレビは、ここのところずいぶん信用を落としているように思います。「テレビでは言わない(言えない)けど、実は・・・」というような怪しい言説も、ネット空間には溢れています。そうすると今度は逆に、それぞれの個人の感じ方や感情が小さな権威になって、この世にたくさんの権威が乱立します。学問的な研究の成果や丹念な調査と、自分の感じたこととが並列し、混乱してしまいます。一切の権威を認めないという考え方も、それはそれで不健全だと思います。
そんな時代を生きる私たちにとって、今日の御言葉はとても大切なことを伝えています。「イエスは権威をもって教えられた。」主イエスの言葉には権威があります。イエスが神の国を宣言すれば、その福音は実現しています。イエスは神ご自身の権威をもって、私たちに福音を語りかけておられます。
権威について混乱が深まっているこの時代に生きているからこそ、私たちはイエスの言葉の権威を信じ、このお方に服従しましょう。この方が語りかけてくださる御言葉に自分の生き死にがかかっていることを喜んで信じましょう。キリストとその言葉は絶対に地に落ちることはありません。この方が命じ、宣言した言葉は、必ず神の御心を成し遂げます。必ず、イエスが権威をもって宣言なさったとおり、神の国は私たちのところに来ているのです。

2025年1月8日の聖句

神よ、私の心は整いました。 私は歌い、奏でよう。 わが魂よ、目覚めよ。(詩編108:2) 脚の不自由な男は跳ね起き、立って歩けるようになって彼らと共に神殿の境内に入り、走り回り跳び回っては、神を賛美した。(使徒3:8) 12月ごろからひどい腰痛に悩まされていました。今はずいぶん回...