私、私が主である。
私のほかに救う者はいない。(イザヤ43:11)
(イエスの言葉)私と父とは一つである。(ヨハネ10:30)
今日私たちに与えられている聖書の御言葉は、神さまの深い御決意の表明であると思います。「私、私が主である。私のほかに救う者はいない。」ただおひとりの救い主でいらっしゃるお方が私たちに言ってくださいます。「私、私が主である」と。
ここにある「主」というのは、神さまのお名前を現す言葉が使われています。「私、私が主である」と御自分のお名前を名乗り、他の誰でもなくこの私がお前を救うと宣言してくださっています。私たちには、主以外の救いはありません。
お名前を名乗るというのは、私たちとの関係を結ぼうという神さまのご意志の表れと言ってよいと思います。私たちにとっての真の救いというのは、私たちに向かって御自分のお名前を名乗ってくださるお方と関係を結ぶことです。神さまが私たちの名前を呼んでくださり、私たちが「主よ」とお呼びして祈る。それがもう既に救いなのです。
私たちには神さまなど分からない、神さまのことなど知りようがないと言う必要はありません。「私と父とは一つである」とイエス・キリストが言ってくださいます。私たちはキリストの言葉を聞き、イエスこそ父がお遣わしになったメシア、そして独り子なる神と信じるとき、私たちは「主」とお名前を名乗ってくださる神ご自身と出会っている。ですから、神さまとの関係を結ぶというのは、もう少し言葉を換えて言えば、イエスこそ救いと信じるということです。イエスに現された神の愛こそが神の御心と信じるということです。
「私、私が主である」と、今日、神さまはあなたに語りかけておられます。
私のほかに救う者はいない。(イザヤ43:11)
(イエスの言葉)私と父とは一つである。(ヨハネ10:30)
今日私たちに与えられている聖書の御言葉は、神さまの深い御決意の表明であると思います。「私、私が主である。私のほかに救う者はいない。」ただおひとりの救い主でいらっしゃるお方が私たちに言ってくださいます。「私、私が主である」と。
ここにある「主」というのは、神さまのお名前を現す言葉が使われています。「私、私が主である」と御自分のお名前を名乗り、他の誰でもなくこの私がお前を救うと宣言してくださっています。私たちには、主以外の救いはありません。
お名前を名乗るというのは、私たちとの関係を結ぼうという神さまのご意志の表れと言ってよいと思います。私たちにとっての真の救いというのは、私たちに向かって御自分のお名前を名乗ってくださるお方と関係を結ぶことです。神さまが私たちの名前を呼んでくださり、私たちが「主よ」とお呼びして祈る。それがもう既に救いなのです。
私たちには神さまなど分からない、神さまのことなど知りようがないと言う必要はありません。「私と父とは一つである」とイエス・キリストが言ってくださいます。私たちはキリストの言葉を聞き、イエスこそ父がお遣わしになったメシア、そして独り子なる神と信じるとき、私たちは「主」とお名前を名乗ってくださる神ご自身と出会っている。ですから、神さまとの関係を結ぶというのは、もう少し言葉を換えて言えば、イエスこそ救いと信じるということです。イエスに現された神の愛こそが神の御心と信じるということです。
「私、私が主である」と、今日、神さまはあなたに語りかけておられます。