私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。(ダニエル9:14)
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。(ルカ24:26)
「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」これは主イエスご自身の御言葉です。「はず」とここで主は言っておられます。この言葉は「その必要がある」とか「それが必然だ」とか「それが事柄にふさわしい」とか、そのような意味を持つ言葉です。イエスは、苦しみをお受けになった。それは主イエスがメシアとしてお受けにならなければならないものだった。そう言っておられます。しかも、十字架の苦しみをお受けになり、その後、復活という栄光に入ることもまた必然であり、必要なことであった。メシア・イエスにとって、十字架の苦しみと復活の栄光は一つにつながる必然的な道だ、と主は言われるのです。
自分の心の奥底にある願いのようなものをよくよく振り返ってみて、思うのです。私は実は、十字架のない復活を求めているのではないか、と。私たちの信じる神の子は、十字架に掛けられました。しかもそれが必ず必要なのだ、とおっしゃいます。十字架は、極悪人にしか下されない残忍な死刑です。そこにはほんの僅かにもロマンや現実逃避の入り込む余地はありません。十字架は、圧倒的な死と痛みと屈辱です。主は、私は必ず十字架に掛けられなければならなかったのだ、とおっしゃるのです。「私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。」御子が十字架に掛けられることを正しいとなさるお方が私たちの信じる神様なのです。
受難週を迎えています。今日、私たちは、じっと十字架に掛けられたキリストのお姿を仰ぎましょう。復活したのは十字架の上で屈辱的な死を味わったお方だと、しっかりとこの心に刻んで頂きましょう。十字架、そして復活に、神の正しさがある。この謎めいた福音に、私たちの思いを向ける祈りの時を過ごしましょう。
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。(ルカ24:26)
「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」これは主イエスご自身の御言葉です。「はず」とここで主は言っておられます。この言葉は「その必要がある」とか「それが必然だ」とか「それが事柄にふさわしい」とか、そのような意味を持つ言葉です。イエスは、苦しみをお受けになった。それは主イエスがメシアとしてお受けにならなければならないものだった。そう言っておられます。しかも、十字架の苦しみをお受けになり、その後、復活という栄光に入ることもまた必然であり、必要なことであった。メシア・イエスにとって、十字架の苦しみと復活の栄光は一つにつながる必然的な道だ、と主は言われるのです。
自分の心の奥底にある願いのようなものをよくよく振り返ってみて、思うのです。私は実は、十字架のない復活を求めているのではないか、と。私たちの信じる神の子は、十字架に掛けられました。しかもそれが必ず必要なのだ、とおっしゃいます。十字架は、極悪人にしか下されない残忍な死刑です。そこにはほんの僅かにもロマンや現実逃避の入り込む余地はありません。十字架は、圧倒的な死と痛みと屈辱です。主は、私は必ず十字架に掛けられなければならなかったのだ、とおっしゃるのです。「私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。」御子が十字架に掛けられることを正しいとなさるお方が私たちの信じる神様なのです。
受難週を迎えています。今日、私たちは、じっと十字架に掛けられたキリストのお姿を仰ぎましょう。復活したのは十字架の上で屈辱的な死を味わったお方だと、しっかりとこの心に刻んで頂きましょう。十字架、そして復活に、神の正しさがある。この謎めいた福音に、私たちの思いを向ける祈りの時を過ごしましょう。