主を畏れるところには強い信頼が生まれる。(箴言14:26)
神から生まれた人は誰も罪を犯しません。(1ヨハネ5:18)
今日の新約の御言葉を聞くと、私たちは脳内で勝手に変換してしまうのではないでしょうか。「罪を犯した人は神から生まれた人ではありません」「罪を犯す私は神から生まれた人ではありません」、と。
ヨハネの手紙一の殆ど冒頭に近いところにこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」この手紙は、私たちが罪人であることを私たち以上によく知っています。そうであるからこそ私たちに罪の告白を求めます。罪を告白し、真実で正しい神の赦しをいただき、このお方に清めて頂こう、と私たちを励まします。
ですから「神から生まれた人は誰も罪を犯しません」というのは、完全無欠であれとか、失敗するなとか、そのような言葉ではありません。私たち罪人が神さまの圧倒的な愛の光の中に置かれていることに気付かせる御言葉なのです。私たちは自分の力で罪を犯さない人になることなんて絶対にできません。私たちはただひたすら、誠実に罪を告白し、赦して頂き、主が私をも新しくし、清くしてくださることを信頼するだけです。私のうちにも神さまは御業を始めてくださる。私たちは神さまを待ち望みます。
「主を畏れるところには強い信頼が生まれる。」主を畏れ、主を待ち望み、主を信頼しましょう。私たちのうちにも御業を始めてくださるお方を信じましょう。私たちの罪よりももっと深く、神さまの御業は私たちを捕らえてくださっているのです。
神から生まれた人は誰も罪を犯しません。(1ヨハネ5:18)
今日の新約の御言葉を聞くと、私たちは脳内で勝手に変換してしまうのではないでしょうか。「罪を犯した人は神から生まれた人ではありません」「罪を犯す私は神から生まれた人ではありません」、と。
ヨハネの手紙一の殆ど冒頭に近いところにこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」この手紙は、私たちが罪人であることを私たち以上によく知っています。そうであるからこそ私たちに罪の告白を求めます。罪を告白し、真実で正しい神の赦しをいただき、このお方に清めて頂こう、と私たちを励まします。
ですから「神から生まれた人は誰も罪を犯しません」というのは、完全無欠であれとか、失敗するなとか、そのような言葉ではありません。私たち罪人が神さまの圧倒的な愛の光の中に置かれていることに気付かせる御言葉なのです。私たちは自分の力で罪を犯さない人になることなんて絶対にできません。私たちはただひたすら、誠実に罪を告白し、赦して頂き、主が私をも新しくし、清くしてくださることを信頼するだけです。私のうちにも神さまは御業を始めてくださる。私たちは神さまを待ち望みます。
「主を畏れるところには強い信頼が生まれる。」主を畏れ、主を待ち望み、主を信頼しましょう。私たちのうちにも御業を始めてくださるお方を信じましょう。私たちの罪よりももっと深く、神さまの御業は私たちを捕らえてくださっているのです。