2026年6月30日火曜日

2026年6月30日の聖句

立ち帰れ、背信の子らよ。
私こそがあなたがたの夫なのだから。
私はあなたがを選び取り、シオンに連れて行く。(エレミヤ3:14)
ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。(エフェソ5:1~2)

今日の旧約では「夫と妻」、新約では「父と子」という隠喩で神さまと私たちとの関係を言い表しています。
主なる神は私たちを「妻」と呼んでくださる。私たちの夫でいてくださいます。ところがこの妻は不実な妻です。今日の御言葉に先立つ13節でこのように指摘されています。「ただ、あなたの過ちを認めよ。あなたの神である主に背き、すべての生い茂る木の下で、他国の男たちに愛を振りまき、私の声には耳を傾けなかったことをーー主の仰せ。」神は不実な妻である私たちに向かって「立ち返れ」と呼びかけてくださっています。「私こそがあなたの夫なのだから」と言い続けてくださっています。
私たちは神に愛された神の子です。そのために、キリストが私たちを愛し、ご自分を供え物として神に献げてくださいました。私たちを神の子とするために。私たちがどんなに悪くても、ダメでも、キリストが私たちを神のものとしてくださったのです。
今日の旧約と新約は、どちらも神が私たちに何をしてくださったのかを語り出しています。私たちをご自分の妻として、ご自分の子どもとして愛してくださった。神が最初に私たちを愛して、不実な者をそれでも見捨てず、ご自分のものとして選んでくださった。そのためにキリストを供え物としてくださった。神がしてくださったことが私たちの存在を支えるただ一つの土台なのです。

2026年6月29日月曜日

2026年6月29日の聖句

悪を憎み、善を愛し、町の門で公正を打ち立てよ。
あるいは、万軍の神である主が憐れんでくださることもあろう。(アモス5:15)
あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。(2コリント6:14)

軛、と書いてあります。農耕機具を二頭の家畜に引かせるために、機具のながえに軛を付けて家畜をつないで引かせる。軛でつながれた家畜は一緒に働くことになります。今日の新約では不信者と釣り合わない軛を共にしてはならない、と言っています。不法に生きる者、闇の中に潜む者と同じ軛につながれるような生き方をあなたたちはするな、ということでしょう。神の子らしく生きること、光の子らしく生きることを大切にせよ、という趣旨の言葉であると思います。
決して不信者を見下したり裁いたりすると言うことではなく、自分がどういう価値観を持ち、あるいは体現し、どう生きるのか、という問いであると思います。みんながやっているからとか、あの人に言われたら逆らえないからとか、空気にあらがえないからとか。そのようなことではなく、キリストのものとされたという事実でもって生き方を定める、ということではないでしょうか。
今日の旧約の御言葉は言っています。「悪を憎み、善を愛し、町の門で公正を打ち立てよ。」町の門というのは、現代で言うと行政や司法が行われる場所です。そこでは本来誰に対しても公平なことがなされ、正義が打ち立てられなくてはならない。しかし今も昔も、そういう権力が集中する場所では得てして不公平なことが行われてしまう。しかしそうではなく、あなたたちは悪を憎み、善を愛せよ、と言うのです。神を信じる者としてふさわしい社会生活を営め、というのです。
私たちは、今この社会をどのように形成するよう神さまに求められているのでしょうか?私たちが出会う人に、時には空気に抗ってでも公正と正義をもって共に生きるために、私たちは何を思い、何をしなければならないのでしょうか?

2026年6月28日日曜日

2026年6月28日の聖句

今週の聖句:
互いに重荷を担いなさい。そうすればキリストの律法を全うすることになります。(ガラテヤ6:2)

今日の聖句:
あなたは私の歩幅を広げ
私のくるぶしは揺らぐことがなった。(サムエル下22:37)
ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)

私たちの足を確かにしてくださるのは、主なる神さまです。「あなたは私の歩幅を広げ、私のくるぶしは揺らぐことがなった。」主が私を立たせてくださる。主が私の歩みを確かにして歩幅を広げてちゃんと歩けるようにしてくださる。主に促されて歩くならば、くるぶしが揺らぐことはない。
今朝の新約の御言葉では使徒ペトロが主イエス・キリストのお名前によって、これまで立てなかった人を立たせました。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」神の言葉が私たちを立たせる。銀や金ではなく神の言葉が。
しっかりと、神の言葉によって立ち上がり、歩きたいと願います。力や勇気をくれそうな他の何かに頼るのではなく、神とその御言葉だけに依り頼みたい。御言葉こそ私たちの力。いつ、どのようなときにもそのことを信じ、生きていきたいのです。

2026年6月27日土曜日

2026年6月27日の聖句

私の心を悪事に向けないでください。(詩編141:4)
あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5:8)

今日の二つの御言葉は、主イエスが私たちにお教えくださった祈りと軌を一にしている、と思います。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。」私たちの心を悪事に向けないでください。私たちの心に忍び寄る悪意やそこから生まれる悪事。そのような試みに、私たちは自分の力で打ち勝つことは困難です。「私の心を悪事に向けないでください。」「悪より救い出したまえ。」そのように、助けてください、救ってくださいと祈っていい。いや、そのような祈りを主は待っていてくださいます。主イエスさまが御自らそのように祈れと私たちにお命じくださったのですから。
悪や罪の力は決して侮ることができません。とってもとってもなくならない雑草のように、悪は私たちの心にはびこって増殖します。自分の心を素直に省みたことがある人ならば、尽きることなく湧き出てくる悪に絶望しない人はいないのではないでしょうか?
今日の新約の御言葉は、そんな私たちにまた違った視点を与えます。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」今神は私たちを光としてくださっている。私も光の子になっている。だから、かつての自分が闇だったことが私たちにも明らかになったのです。そもそも私たちは自分の力で光になったのではない。自分の努力で悪に打ち勝ったのではない。神が闇の子を光とし、ご自分の子、光の子としてくださった。私たちは、ただそれだけの存在です。
そうであるからこそ、「光の子として歩みなさい」と聖書は私たちに語りかける。光の子として、「私の心を悪事に向けないでください」と神に祈り、今日一日の歩みを神に献げる者でありたい、と願います。

2026年6月26日金曜日

2026年6月26日の聖句

エフラタのベツレヘムよ、あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のためにイスラエルを治める者が出る。その出自は古く、とこしえの昔に遡る。(ミカ書5:1)
イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:1~2)

ユダヤ人の王、いやユダヤ人だけではなくすべての民の王としてお生まれになったイエスは、「エフラタのベツレヘム」でお生まれになりました。預言者ミカはこの町を「ユダの氏族の中では最も小さな者」と呼んでいます。最も小さな者から最も偉大なお方がお生まれになりました。神さまの御業の不思議を感じます。
神さまは私たちの中の最も小さなもの、最もつまらないもの、最も価値がないものと思われているところで御業をお始めになります。私たちのいちばん恥ずかしくて人に見せたくない部分、自分でも受け入れがたい、自分という存在の一隅にある罪深い部分。あるいは、私たちの群れの中のいちばん弱い部分、罪深くて直視できないところ。キリストはそういう「最も小さな者」において新しい御業をお始めになるのです。私たちを治める神の子は、片隅に来られたのです。
私たちは今日、どのようにして神さまをお迎えしますか?あなたはどのようにして神さまに自分を明け渡しますか?

2026年6月25日木曜日

2026年6月25日の聖句

あなたがたは強くあれ、力を落としてはならない。あなたがたの働きには、報いがあるからだ。(歴代誌下15:7)
主人は言った。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」(マタイ25:21)

「あなたがたの働きには、報いがあるからだ」と今日の旧約に書かれています。私たちが神さまからの報いをいただけるような働きというのは、いかなる働きなのでしょうか?人からの報いや自己満足ではなく、神さまから報いをいただくというのはどういうことなのか?
今日の新約の御言葉は、主人である神様がある僕を「良い忠実な僕だ」「主人の祝宴に入りなさい」と言って報いておられる、という場面です。この人は主人から5タラントンという財産を預かり、それを用いて他に5タラントンをもうけました。ここには他にも同じように2タラントン預けられた僕、1タラントン預けられた僕もいた。2タラントンの僕も5タラントンの僕と同じように、預けられたものを用いて他に2タラントンもうけ、主人から同じ言葉で報いて頂きました。ところが1タラントンの僕は主人が怖かったので、この1タラントンを無くさないように土に埋めておき、後で手つかずの1タントンを主人に差し出しました。主人は激しく彼を責めてその1タラントンを取り上げ、5タラントンの僕に与えてしまいました。1タラントンの僕の働きは報いて頂けなかった。
主人が僕に求める「良さ」「忠実さ」は、恐らく、与えられたものへの誠実さなのだと思います。もしも1タラントンの僕のように自分では何もできないと思うなら、主人自身が言っていますが、自分のタラントンを銀行に預けるということもできた。つまり、他の人に任せてそれを用いてもらうこともできたはずだ、と言うのです。自分の能力や失敗への不安の中で「自分のタラントンの大小」にこだわるよりも、その与えられたものが生かされる道を探し、それを実行することが大事なのだと思います。与えられたものに忠実に生きる。
神さまは私たちに何を預けておられ、何を期待しておられるでしょうか。私たちは、神さまに預けられたものに誠実に生きているでしょうか?主の御前で私たちはいかに生きているか?今日、御言葉はそのことを問いかけています。

2026年6月24日水曜日

2026年6月24日の聖句

どうか主よ、激しくお怒りにならないでください。いつまでも過ちを憶えていないでください。ご覧ください。私たちは皆、あなたの民です。(イザヤ64:8)
(洗礼者ヨハネの言葉)それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。(マタイ3:8)

今日の新約の御言葉はとても厳しい言葉です。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。」ここで「それなら」というのは、罪を悔い改めるなら、ということでしょう。罪を悔い改めて神に赦しを請うのなら、口先だけではなくそれにふさわしい実を結べ、悔い改めにふさわしい生き方をせよ、ということではないでしょうか。
罪を悔い改め、それにふさわしい実を結ぶというのは、生き方を方向転換するということです。これまでまことの神さまではない何かを神として拝んで生きてきた。現代を生きる私たちにとって、多くの場合それは直接的な「異教の神々」のような何かであるよりも、現代世界に当たり前のように流布している価値観ということが多いように思います。お金がすべてに優る価値になっていることや、暴力的で非人間的な社会システムに依存しなければ生きられない仕組み、弱い者を踏みつけた上にその声を黙殺しても構わないという空気など、いろいろな顔を持っています。どれも主なる神さまを信じてこの方に従うことなど意味のないことだと吹聴しています。この世が崇める価値の方が現実的だと嘯いています。
「悔い改める」というのは、そのようなこの世の神々に背を向けて主のもとに帰ることです。私たちはこの世の価値が求める成果ではなく、主なる神さまの前にへりくだって結ぶ実、つまり「悔い改めにふさわしい実」をこそ求める。これが自然な生き方ではないでしょうか。神のもとには大いなる赦しがあります。主は御許に立ち返る者を受け入れ、愛してくださいます。
今日、あながた結ぶ実、求める実りはどのような果実でしょうか?

2026年6月23日火曜日

2026年6月23日の聖句f

我らの神は救いの神。
わが主は死から逃れさせてくださる神。(詩編68:21)
神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させてくださいます。(1コリント6:14)

「主われを愛す」という讃美歌があります。「主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、われを愛す。」私は弱い。しかし、主は強い。だから私は恐れない。怖くない。この讃美歌の英語の原詩の意味をもっと汲むのであれば、「イエスが私を愛してくださっている」と聖書が言っているから、私には恐れがない、ということになります。「何があっても私は怖くない」と虚勢を張っていっているのではなく、強がりで言い張るのではなく、聖書がそのように言っているから確かだ、という歌です。
「我らの神は救いの神。わが主は死から逃れさせてくださる神。」神さまは私たちの救いの神でいてくださいます。私たちの生きているときにも、そしてそれだけではなく死にゆくときにも神は私たちの救いの神でいてくださり、私たちを死からさえも救ってくださるお方。聖書がそのように言うのです。だから、私たちには恐れはない。私の弱いときにも主が強くいてくださるからです。

2026年6月22日月曜日

2026年6月22日の聖句

主はこう言われる。
私は覚えている
あなたの若い頃の誠実を
花嫁の時の愛を
種の蒔かれていない地、荒れ野であなたが私に従って来たことを。(エレミヤ2:2)
私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つなら、キリストにあずかる者となるのです。(ヘブライ3:14)

主なる神さまが選んでご自分の民としてくださり、鷲の翼に乗せてエジプトから荒れ野まで運んでくださった。神の民として私たちは生きる。それが聖書の民(私たちもその一員です)の原点です。「若い頃の誠実」「花嫁の時の愛」というのは、エジプトを脱出して旅した「種の蒔かれていない地、荒れ野」で神に従ったことを指しています。何もない場所、神に頼る以外に生きるすべを持たない者として、神の民は生きたのです。
やがて約束の地に入り、生活が安定すると、民は最初の愛を忘れました。神が私たちを選んでくださったという事実も、神が種の蒔かれていない地、荒れ野で生かしてくださったという恵みの出来事も、忘れてしまった。神が愛してくださった事実も、神を愛してきたことも、まるで意味を持たないかのような生き方をした。
その姿は、そのまま私たちのものです。神さまが選び出してくださったという原点も、神を愛して生きることこそ私らしい生き方であるということも、私たちはすぐに忘れてしまう。それが人間らしくない私たちの社会の現実を生み出してしまっている。
しかし、私たちが忘れても神さまは忘れないでいてくださいます。私たちが神さまのことを考えなくても、神さまは私たちのことを考え続けてくださっています。そこに私たちの救いがあるのです。神さまが私たちを御心に留め続けてくださっているという事実だけに。

2026年6月21日日曜日

2026年6月21日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
苦難の中から私が主に呼びかけると
主は答えてくださった。(ヨナ書2:3)
(パウロの言葉)主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。(2コリント12:9)

神は弱い人をご自分の御許に引き寄せてくださるお方です。ご自身の力を、私たちの弱さの中で現してくださいます。この世界が好み、礼賛する力とは異質な力です。弱い人に力を与えて人並みに強くするのではなく、弱さそのものの中にご自身の力を現されます。
パウロには持病があったようです。その肉体の刺を去らせてくださるように彼は祈りましたが、神はその祈りを叶えてはくださいませんでした。神の答は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」です。弱いままで、その弱さの中で、神の恵みの力が十分に現される、と神は言われるのです。驚くべき言葉です。
このお方は、私たちのために御子を与えてくださったお方です。誰よりも弱くなられた御子のへりくだりを私たちを救う力としてくださったお方です。このお方がそのようなお働きのゆえに、私たちはこのお方を賛美し、礼拝します。今日、私たちが御前で献げる営みは、この神の御業を喜び、たたえることです。

2026年6月20日土曜日

2026年6月20日の聖句

私の唇は喜び歌い、あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。(詩編71:23)
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリアや口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。(ルカ1:63~64)

今日の新約に登場する「父親」は祭司ザカリア。彼と妻エリサベトは既に年をとっていました。二人には子どもがいませんでした。ある日、ザカリアのもとに天使が来て「あなたの妻エリサベトは男の子を産む、その子をヨハネと名付けなさい」と言われました。しかしザカリアは「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」と言い、天使の言葉を信じませんでした。それで、天使はこのことが起こるときまで彼の口を利かなくしたのでした。
遂にエリサベトが天使の言葉のとおりに男の子を出産し、八日目を迎えたときのことです。近所の人々や親類は男児に割礼を授けるために集まりました。この日は幼子の命名の日でもあります。人々は父親の名前を取って「ザカリア」と名付けるのが良かろうと言い合いました。父親の名前や親類の名前をもらうのが当然の習慣だったのです。しかしエリサベトは、ザカリアから伝えられていたのでしょう、天使が告げた「ヨハネ」という名でなければならないと言った。そこで人々はザカリアに尋ねた。何と名付けるか?それで、父親は書き板を持って来させ、「その名はヨハネ」と書いたのです。
この名付けは、天使を通して語られた神の言葉を受け入れ、それを信じますという告白です。神さまの出来事が私にもおこっていることを信じ、それに従い、それを喜びます。ザカリアもエリサベトも、そう告白しました。そのとき、彼の口が開き、舌がほどけた。そして開かれた口に彼が最初にのぼらせたのは神をほめたたえる賛美の言葉だったのです。
今日の私たちの語る言葉が神を信頼するものであり、神をたたえる歌でありますように。

2026年6月19日金曜日

2026年6月19日の聖句

あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。(詩編31:9)
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかり立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

改革者マルティン・ルターの名著『キリスト者の自由』は、一見すると相矛盾する次の二つの命題から始まっています。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」
キリストは私たちを自由にしてくださいました。私たちは律法の下に管理された奴隷(僕)ではありません。
主イエスは、「真理はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。キリストの真理は私たちを解放する。自由にする。私たちはキリストを信じて不自由になるのではない。キリストを信じたら窮屈で不自然な生き方を強いられるのではない。自由にされる。神様の御前に、私らしく、伸び伸びと生きることができる。
ところがそれは、僕として生きることのできる自由だ、とルターは言います。「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」キリストのために仕え、隣人のために仕えることのできる自由な僕になる。私たちは与えられた自由を罪を犯す機会とするのではなく、愛をもって隣人に仕えるために用いる。ルターはそう言うのです。
私たちは広い大地に立たせて頂きました。息をつくことができるし、大きくのびをすることができる。私たちは自由です。ですからしっかりと立ちましょう、この足で。キリストがしてくださったように、誰に対しても僕として仕える自由をもって、自由な大地を歩いて行きましょう。

2026年6月18日木曜日

2026年6月18日の聖句

ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またも罪を犯し、心がかたくなになった。(出エジプト記9:34)
きょうだいたち、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心が芽生えて、生ける神から離れ去る者がないように気をつけなさい。(ヘブライ3:12)

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」を地で行くような姿です。
エジプトのファラオは、モーセがヘブライ人たちを去らせてほしいと要求したことに対して全く耳を貸しませんでした。まともに取り合おうともしなかった。そこで神はモーセを通して次々にエジプトに災いをもたらします。ナイル川の水が血に変わったり、ブヨやら蛙やらが大量発生したり、エジプト人やその家畜がいるところにだけ雹が降ってきたり。だんだんとファラオはヘブライ人たちが出て行くことを承知するようになってきましたが、災いが終わるたびに心を翻してしまいました。「ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またも罪を犯し、心がかたくなになった。」この心のかたくなさは、私たちにもよく分かります。他人事ではなく、私たち自身の問題ではないでしょうか。
「頑固」という言葉があります。「頑なで固い」と書きます。よくできた字だと思います。私の心だって別にどこもかしこも頑固なわけではない。しかし、神さまにも他人にも譲れないと自分で勝手に思い込んでいる頑固な部分があって、そこは本当にこわばっているし、凝り固まっています。
整骨院で治療してもらうと、私の体を触った先生は、ここの筋肉が固まっていますね、だからこっちが痛くなっているんですよ、とおっしゃいます。コリを甘く見て放置すると、その内ぎっくり腰のような大けがにつながってしまいます。心のコリも甘く見てはいけない。心を柔らかくするために、つまり不信仰という悪しき芽生えを摘み取るために、私たちはキリストの前に進み出て、へりくだり、悔い改めの祈りを捧げることが大切ではないでしょうか。魂の整体しキリストが私たちの心を柔らかくしてくださいますから。

2026年6月17日水曜日

2026年6月17日の聖句

私があなたの救い主、主であり
あなたの贖い主である。(イザヤ60:16)
すべての人、とりわけ信じる人々の救い主である生ける神に望みを置いています。(1テモテ4:10)

この冒頭の「私が」という言葉が、本当にすばらしいと思います。主なる神さまは言ってくださいます。「私があなたの救い主、主であり、あなたの贖い主である」と。他でもなくこの私、私こそが、と私たちに語りかけてくださるのです。
もとの言葉の語順をより生かすなら、ここは「私が主、あなたの救い主、そしてあなたの贖い主」となります。主というのは、神さまのお名前を現す言葉です。神さまは私たちに向かって「私が主、私こそが主」とお名前を名乗ってくださいます。主であるこの私があなたの救い主、あなたの贖い主だ、と言われる。「救い主」や「贖い主」は、神さまのお働きを現す言葉です。「主」とお名前を名乗ってくださる神さまは、私たちの前に「救い主」や「贖い主」という役割を果たしてくださるお方。そうやって私たちと関わってくださるお方。神さまは私たちに語りかけ、働きかけ、私たちと関係を築いてくださるお方です。
そういう神さまから結んでくださった関わりこそが私たちの望みだ、と今日の新約は言います。「すべての人、とりわけ信じる人々の救い主である生ける神に望みを置いています。」今日も生きて働き、信じる人々を救ってくださるこの方が私に望みを与えてくださる。
私たちが今日一日の歩みの中で問うべきは、この神さまが今日私たちに何をしてくださっているのか、です。神さまは今日も生きて働いて、「私が主」と言って私たちに関わり、私たちに働きかけておられます。主は、今何をしておられるでしょうか。そして、私を通してこの世界に何をしようとしておられるのでしょうか。主の手として、足として、あるいは口として、私たちをこの世界にどのように生かそうとしているのか?そのことを問いつつ今日の日を歩みたいと願います。

2026年6月16日火曜日

2026年6月16日の聖句

主を畏れるところには強い信頼が生まれる。(箴言14:26)
神から生まれた人は誰も罪を犯しません。(1ヨハネ5:18)

今日の新約の御言葉を聞くと、私たちは脳内で勝手に変換してしまうのではないでしょうか。「罪を犯した人は神から生まれた人ではありません」「罪を犯す私は神から生まれた人ではありません」、と。
ヨハネの手紙一の殆ど冒頭に近いところにこのように書かれています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」この手紙は、私たちが罪人であることを私たち以上によく知っています。そうであるからこそ私たちに罪の告白を求めます。罪を告白し、真実で正しい神の赦しをいただき、このお方に清めて頂こう、と私たちを励まします。
ですから「神から生まれた人は誰も罪を犯しません」というのは、完全無欠であれとか、失敗するなとか、そのような言葉ではありません。私たち罪人が神さまの圧倒的な愛の光の中に置かれていることに気付かせる御言葉なのです。私たちは自分の力で罪を犯さない人になることなんて絶対にできません。私たちはただひたすら、誠実に罪を告白し、赦して頂き、主が私をも新しくし、清くしてくださることを信頼するだけです。私のうちにも神さまは御業を始めてくださる。私たちは神さまを待ち望みます。
「主を畏れるところには強い信頼が生まれる。」主を畏れ、主を待ち望み、主を信頼しましょう。私たちのうちにも御業を始めてくださるお方を信じましょう。私たちの罪よりももっと深く、神さまの御業は私たちを捕らえてくださっているのです。

2026年6月15日月曜日

2026年6月15日の聖句

見よ、闇が地を覆い
密雲が諸国の民を包む。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)
(イエスの言葉)私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)

「闇が地を覆い、密雲が食の民を包む」と書かれています。恐らく具体的には、ユダの民がバビロンに捕囚として連れて行かれ、さらに何十年と経ち、故国へ帰っていって灰燼に帰した様子を目の当たりにしている。どうやって再建したらいいのか、全く将来を描くことができない。そのような本当に厳しい現実を言い表している言葉であると思います。「闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む」というような詩的な言語でなければ言い表すことのできない現実の厳しさがあるのだと思います。戦後の焼け野原や震災の後の瓦礫、あるいは今もウクライナやイランなどで広がる現実と同じものを見つめているところで生まれた言葉であると思います。
こういう言葉を読んだときに私たちは何を考えるでしょうか。「自分の生きている世界とは違う。」確かにそれはそのとおりです。私たちには簡単に「分かる」とは言えません。しかし他方で思うこともあります。自分とは関係がない世界だと思い込み、自分が享受している生活の安定や安心できる状態が永遠に続くという素朴な思い込みはとても危険だ、ということです。この世界には、神さま以外には永年なものはありません。私たちが当たり前だと思っている安心安全便利快適な生活は決して永遠ではないし、いつまでも続くものでもありません。私たちは「闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む」という聖書の御言葉を想像力豊かに聞き、へりくだることが大切なのではないでしょうか。
そして闇の中、密雲の中でこそ、希望の光は輝く。イエス・キリストという光はそのような悔い改めの中ででしか仰ぐことができないのではないでしょうか。

2026年6月14日の聖句

今週の聖句:
すべて重荷を負って労苦している者は、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の聖句:
私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。(エレミヤ24:7)
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

私たちが主を知ることができるのは、主ご自身が私たちにご自分を示してくださるからです。主が私たちに主を知る心を与えてくださるから。それだけが私たちに信仰が生まれるただ一つの理由です。
「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。」この神さまのお働きを、新約聖書では聖霊のお働きと言っています。神さまを知る心を私たちに与え、主を求める心を私たちに生み出してくださるのは、神様ご自身の霊のお働きです。
これは、私たちの信仰生活にとってとても大切な真理だと思うのです。私たちはとかく自分の信仰を小さく見積もりがちです。自分がそれほどしっかりと神さまを信じているとは考えようとしないし、自分の信じる気持ちを疑いがちではないでしょうか。確かに私たちはとっても不確かですし、自分を正直に振り返れば神さまに申し訳ない者でしかない。しかし、そんな私に信仰を与えてくださったのは神様ご自身です。そして神さまは、からし種一粒のような信仰から、新しくすばらしいことを始めてくださいます。
主イエスの二人の弟子たちは語り合いました。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」主は私たちのために御言葉を語りかけ、私たちと出会い、ご自分の霊によって私たちに信仰を与えてくださる。主の御業に素直に開かれた心でありたい、と願います。

2026年6月13日土曜日

2026年6月13日の聖句

あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が湧いている地である。(申命記8:7)
神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。こうして、あなたがたは常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ちあふれる者となるのです。(2コリント9:8)

平地でも山でも川が流れ、泉や地下水が湧き出る地。荒れ野の民にとって、それはどんなにすばらしい場所と映ったことでしょう。古代の文明は沃野に生まれた、と何十年も前に授業で教わった記憶があります。そういう場所は人間が住みやすいし、安定した生活は社会生活の欠かせない基盤です。主なる神さまが導き入れようとしている土地は、そのようなすばらしい土地です。別の所では「乳と蜜の流れる地」という表現もありました。同じイメージなのだと思います。神さまは私たちを良いもので満たし、私たちを豊かに養ってくださる恵み深いお方です。「神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
そして、神さまのあらゆる恵み深いお取り扱いは、私たちに「善い業」を生み出す。それが聖書の一貫した主張であると思います。自分に与えられた良いものを一人で満足して、自分だけのためにそれを使うのではない。私たちは与えられたものを神が期待する善き業のために用いる者となる。「こうして、あなたがたは常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ちあふれる者となるのです。」
今日、神は私たちに何を期待しておられるでしょうか。隣人のために何をすることができるでしょうか?神の御心をよく考え、そしてそれを実際にしてみる。そのような一日でありたいと願います。

*「日々の聖句」で与えられている御言葉に基づいてメッセージを配信していますが、12日の聖句と13日の聖句を誤って入れ替えてしまいました。失礼いたしました。

2026年6月12日金曜日

2026年6月12日の聖句

若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は力を得、
鷲のように翼を広げて舞い上がる。
走っても弱ることがなく
歩いても疲れることはない。(イザヤ書40:30~31)
すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ12:1~2)

子どもの頃に父に山登りに連れて行ってもらったことがあります。すごく疲れて辛かったのです。それでも頑張れたのは、頂上があるということを知っていたからだと思います。ゴールがなければ、忍耐は続かないでしょう。
私は走るのは好きではありません。仲間の牧師にはマラソンを趣味にしている人がいます。どんなことを考えながら42キロを走っているのでしょうか。日々のトレーニングに余念がないようですしそもそも走ることも好きみたいですが、それでもゴールがあるということは大切ではないでしょうか。目指すべき場所があるかないかも分からないようなレースはできないのではないかと思います。
「すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」
私たちの人生の競争にも、目指すべきゴールがあります。天の故郷です。そして、信仰の創始者また完成車であるイエス・キリストを仰ぎつつ与えられた競争を走ります。だから忍耐することができる。この上ないゴールがあるからです。
私たちは弱い存在です。絡みつく罪はしつこいし、私たちの意気を阻喪させる。天の故郷という目指すべき先を見失ってしまうこともある。そうであるからこそ、目を開いてしっかりとキリストを仰ぎましょう。主が翼を広げて私たちを迎えてくださっていることを信頼し、主の御腕の中に憩いましょう。キリストの深い憐れみが、私たちの今日生きる気力を新しくしてくださるのです。

2026年6月11日木曜日

2026年6月11日の聖句

強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。(ヨシュア1:9)
(パウロの言葉)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:9~10)

今日の旧約の御言葉で主なる神さまは「強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか」とおっしゃっていますが、聖書を開いて前後を読んでみると、その根拠がちゃんと語られています。「私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。」「あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ。」私たちが強く、雄々しく生きることができる根拠、それは神が共にいてくださることです。神が私たちを見放すことも、見捨てることもなさらないことです。例え私たちがどこに行っても、主なる神さまは共にいてくださる。だから、私たちは強く、雄々しく生きることができる。
つまり、私たちの生き方の根拠は神さまです。神さまがどのようなお方でいらっしゃるのかという事実が私たちの生きる方向性を決めるのです。
このお方は、十字架にかけられたイエス・キリストを死者の中から復活させられたお方です。そうであるからこそ、使徒パウロは言うことができました。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」キリストの十字架と復活という事実がパウロの生き方を定め、パウロに希望を与えたのです。
同じ神が私たちと共にいてくださいます。このお方は私たちを見捨てることも見放すこともなさらない。キリストを死者の中から引き上げられた平和の神ご自身が私たちの神でいてくださる。この事実が私たちの生き方を定めます。

2026年6月10日水曜日

2026年6月10日の聖句

さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。(イザヤ55:1)
(イエスの言葉)「私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

もうすぐ夏になります。暑くなると喉の渇きを自覚しやすいですが、意外と冬でも体は渇いているそうです。「喉が渇いた」と思うよりも前にしっかりと水分を摂ることが大切だ、と聞いたことがあります。魂の渇きも、もしかしたら同じなのかもしれません。渇きを自覚するよりも前に、既に私たちの魂は渇いてしまっているのかもしれない。そして、その渇きは私たちの知らないところで魂を損なっているかもしれません。
「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。」渇いている者、です。渇きを自覚している人ではない。自分でも知らないうちに渇いている人も含めて、誰のことをも、主は招いてくださっています。「私を信じる者は決して渇くことがない」と言われる方は、ご自身が生ける水の泉として私たちに命の水を飲ませてくださいます。
もう既に、今、私たちの魂は渇いている。そんな私たちの魂を癒やしてくださるのはこの方です。夏でも冬でも、普通の水を飲む者はまた再び渇きます。何度もその水を汲まなければならない。しかし、キリストという命の泉から飲む者には永遠の命に至る水が湧き出ます。主イエス・キリストこそ私たちの救いなのです。

2026年6月9日火曜日

2026年6月9日の聖句

ヤコブは旅を続けたが、その時、神の使いたちが現れた。(創世記32:2)
(パウロの言葉)「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」(使徒27:23~24)

パウロはイエスこそキリスト、私たちが待ち望んでいた真の王であり神の子だと宣教しました。そのために捕らえられた。しかしパウロはローマの市民権を持っていたので皇帝に上訴し、ローマの都に護送されることになります。海路で連行されましたが、その途上で暴風に襲われ、一行は難船してしまいました。その様子を聖書は「幾日もの間、太陽も星も見えず、嵐が激しく吹きすさぶので、ついに助かる見込みも全く絶たれてしまった」(20節)と描写しています。
その場にいた全員が絶望し、諦め、死を待つだけだと思っていたときに一人パウロだけが希望をもっていました。囚人パウロは自分を護送する兵士や、同じ船に乗り合わせたたくさんの人たちに向かって言います。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はないのです。」そしてそれに続けて口にしたのが、今日の御言葉です。「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」
パウロの希望は神に根ざしています。だから、どんな状況にあっても希望を抱き続けています。この船の中で囚人パウロがいちばん自由です。死の力に捕らわれずに希望を抱き、それどころか人々に希望を与える言葉を語り続けました。どんなときにも絶望しなかった。私たちは自分の考える状況の厳しさや、自分を取り囲む環境がどんなにひどいのかということ以上に、今ここで神が何をしておられるのかということを信仰をもって受け止めなおしたいのです。神さまは新しい出来事をお始めになっている。神さまは希望を生み出す御業を今日も進めておられる。そのことを信じて、キリストを待ち望みましょう。そしてこの希望の言葉を周囲の人々に証ししましょう。

2026年6月8日月曜日

2026年6月8日の聖句

しかし、私は言った。「私はいたずらに労苦し
意味もなく、空しく力を使い果たしました。
それでも、私の公正は主と共にあり
私の報酬は私の神と共にあります。」(イザヤ書49:4)
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカ5:5)

「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした」とペトロは言います。ガリラヤ湖の漁師ペトロは、その夜の漁では何も捕れなかった。一晩の労苦はまったくの徒労でした。
今も昔も、働いていれば珍しい話ではないでしょう。何をしても成果が上がらず、何をしても上手くいかない。誰でも経験したことがあるのではないでしょうか。ペトロもそうでした。まさに「私はいたずらに労苦し、意味もなく、空しく力を使い果たしました」という言葉しか出て来ない夜でした。私たちもよく知っている空しさです。
それでも、私たちは空しさがただ空しさだけで終わるのではないことを知っています。「それでも、私の公正は主と共にあり、私の報酬は私の神と共にあります」と聖書は言います。私はこの「それでも」という言葉が好きです。自分の労苦も費やした力も空しく意味がない。そう思われるときにそれでも主の公正と正義を私は信じる。この「それでも」が信仰なのではないでしょうか。
私たちは自分の力(あるいは無力)や状況判断よりも、キリストとその御言葉を信じます。キリストが私たちに「網を降ろせ」とおっしゃっている。キリストが私たちに新しい出来事を始めてくださっている。私たちはキリストのお言葉ですから、ただそれを信じて従う。それが私たちの信仰の道です。

2026年6月7日日曜日

2026年6月7日の聖句

今週の聖句:
あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。(ルカ10:16)

今日の聖句:
主よ、たとえ私が苦難の中を歩んでも
あなたは私を救ってくださる。(詩編138:7)
(イエスの言葉)「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

キリスト教の人は弱い、と言われることがあります。慰めとか、神さまに頼るとか、そんなのは弱い人間が言うことだ、と。そうかもしれません。しかし、生きていれば努力や根性ではどうにもならないことが必ず起きます。
「あなたがたには世で苦難がある」と主イエスはおっしゃっています。これはヨハネによる福音書が伝えている言葉です。この福音書を書いた人、あるいは最初に読んだ人たちはどういう状況の中でこの言葉を伝え、また聴いたのか?この福音書は紀元90年頃に書かれたと考えられています。この時代、既にエルサレムの神殿はなくなっていました。ユダヤがローマに反逆し、戦争が起こり、逆に滅ぼされてしまった。彼らの信仰の拠り所であった神殿も崩壊し、社会生活はめちゃくちゃな状態でした。国民は死に、あるいは散り散りバラバラになっていました。そんな中、キリスト者たちは各地のユダヤ人コミュニティからキリスト信仰のゆえに迫害を受け、追い出され、ユダヤ社会から締め出されていました。それもあってローマ帝国による迫害も起こり、その手も彼らに伸びていた時代です。本当に「世で苦難がある」のです。
そんな時に主イエスがお与えになったのが「しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」という御言葉です。どんな苦難のときにも勇気を出すことができる。キリストが世に勝っているから。私にはそれはとてもできず、どんな力を出しても及ばず、努力や根性が尽き果てても、キリストはすでに世に勝っている。十字架にかけられた方が実はこの世の罪と悪と死の力に打ち勝っておられる。それは私たちにとっても全く同じです。キリストは私たちの戦いに先んじて赴かれ、勝利を収めておられるのです。

2026年6月6日の聖句

(ダビデの祈り)神である主よ、今この僕とその家について語られた御言葉をとこしえに確かなものとし、語られたとおりになさってください。(サムエル下7:25)
神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。(使徒13:23)

今日の御言葉はどちらも「語られた御言葉をとこしえに確かなものとし」「語られたとおりに」また「約束に従って」と、神さまがお語りになった御言葉、神ご自身がお立てになった約束の確かさが言及されています。神さまの御言葉がとこしえに確かなものであるという事実が私たちの救いの拠り所なのです。
神はその確かな御言葉によって何を約束し、何を実現してくださったのか。「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」と言われているとおり、私たちに救い主イエスをお送りくださいました。イエス・キリストこそ、永遠に確かな神の救いの約束の成就です。
神さまの確かさとか、信じて好いのか悪いのかというようなことを、私たちは自分の願いが実現するかどうかというところで判断しがちです。自分の考えにお墨付きを与えてくれる神さまが私たちは好きです。ところが神の言葉の約束は、私たちの願いではなくイエス・キリストという救い主の現れによって実現した。それが聖書が語る筋道です。そのことをよくわきまえたいのです。
キリストを呼び求め、キリストを仰ぐ祈りの歩みをいたしたい、と願います。

2026年6月5日金曜日

2026年6月5日の聖句

主を待ち望め。
勇ましくあれ、心を強くせよ。(詩編27:14)
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」(ヨハネ11:21~22)

マルタのこの一言、「私は今でも承知しています」が彼女の信仰ではないでしょうか。
マルタとその妹マリア、二人の兄弟ラザロが死の病に冒され、二人は主イエスに来て癒やしてくださるように願いました。ところが主イエスはなかなか来てくださらない。何人地も待って遂に来たときには、既に兄弟ラザロは死んでいました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そう言うしかない。
マルタは、それでもなお言うのです。「しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」目の前の出来事や現実はそれと矛盾していても、それでもなお「しかし」と言って主のなさることを信じる。「私は今でも承知しています」と、今も主の御業が進んでいることを信じて待ち望む。それが「信仰」ではないでしょうか。
主は今日も私たちの間で新しい御業を進めておられます。私たちの目に見える「現実」を無批判に受け入れて諦めるのか。それとも、今も見えないところで進んでいる主の御業を信じるのか。私たちが問うべきことは、「どうしてこのようなことになったのか」よりも「主は今何をしておられるのか」なのです。

2026年6月4日木曜日

2026年6月4日の聖句

あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。(申命記30:9)
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。(1テサロニケ4:6)

先日、ある方の講演を聴きました。その先生は仕事の異動でそれまで従事していた職場を離れてしばらく経過した、という時期でした。以前の職場はたいへん忙しく、困難な仕事も多く、しかし大いにやりがいを感じていました。今はその頃とは違う働き方をしている。そこで一種のアイデンティティ・クライシスを覚えたそうです。そして気付いた。自分は「役割」をまとい、周囲の期待に応えることで「自分」を確かめようとしてきたけれど、それは間違っていたのではないか。「していること」がそのまま「自分」になるのは危険なことではないか、と。
私はそのお話を伺って、一方では「なるほど」と思いながらも、他方では「そうかな」と思います。確かに忙しさに身を委ねているだけでは大切なことがおろそかになります。祈ることや神さまの前に静まることをする暇もない、という気になってしまうのはこれ以上なく危険なことです。しかし、自分がしていること、自分の働きと「自分」とはそう簡単に切り離せないのではないか。自分の役割と自分自身を切り分けるのは、一種の抽象化ではないか、とも思います。
「あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。」ここでは、「あなたのすべての手の業」について、主がそれを喜びとされると言われています。この「あなたのすべての手の業」は時によって変わってきます。年齢の変化や自身の状況や家族の環境の変化、仕事の異動や転職、あるいは病気や老いなど、いろいろな要素があります。しかし、私たちはどこにあっても神に従い、キリストが宣言した神の国に仕えるという根本的な役割があります。やがて私たちがかつてのように元気に働き、やりたいことをすることができなくなる日が来るでしょう。それは私たちにとってはたいへんな危機です。アイデンティティが揺れます。当然です。生き方の変更を強いられているのです。しかし私たちは最後まで「御名が崇められますように」と祈り、あるいは元気に働いている元気な人のために祈ることができる。そのために合掌することはできるでしょう。「あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。」
神は私たちをご自分の子としてくださいました。私たちのすべての手の業を喜んでくださいます。だからこの手を神の愛を現すために献げたく願います。どのようなときにも、です。

2026年6月3日水曜日

2026年6月3日の聖句

主は見えない人の目を開く。(詩編146:8)
それで、(イエスは)こうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(ルカ7:22)

今日の新約の中に「ヨハネ」という名前が登場しています。主イエスにヨルダン川で洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことです。主イエスがヨルダン川に来たときに「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言い、このお方こそ私たちの待ち望んでいた救い主だと証言した人物です。しかしその後ヨハネはヘロデに捕らえられて牢につながれていました。それでも、主イエスのご登場を喜び、この方に望みをかけ、このお方がしてくださる救いの御業を待っていたのでしょう。ところが、一向にヨハネが待ち望んでいたようなめざましい活躍の噂が届いてこない。それで、ヨハネは牢の中から自分の弟子を遣わして、主イエスに尋ねさせました。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
こうやって改めて問いたくなるヨハネの気持ちは、私たちにも想像できるのではないでしょうか。信じて待っているのに何も始まらない。主イエスを信頼して祈っているのに、その祈りが無視されているとしか思えない。私はこのままこのお方を信じていいのか?もしかしたら他の救い主を待つべきだったのではないか?
主イエスはお答えになります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」主はおっしゃるのです。ここに神の国が始まったしるしがあるだろう、と。あなたたちは実はそれを目の当たりにしているではないか、と。
私たちは、ここで主イエスが言っているような「目の見えない人は見え、耳の聞こえない人は聞こえ・・・」とういうような言葉を聞くと、「イエス様のときはそうだったかもしれないけど、私はそんな出来事を見たことがないな」と思ってしまいます。しかし実は、神の国が始まっているしるしはいろいろなところに起きていて、私たちがそれを見逃しているだけなのかもしれません。ヨハネもヨハネの弟子たちも、私たちも、ここに始まっている神の国のしるしを見逃していないか、と主はおっしゃっているのだと思います。
今日の最後に「貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われています。これがいちばんの鍵であると思います。福音が宣べ伝えられてる。ここに神の国が始まっている。すべての人に福音が向けられ、語られ出している。あなたはそれを見ているではないか。そのように主は言われます。私たちのところにも神の国は始まっている。この方を来たるべきお方として待ち望んでよい。このお方こそ私たちの救い。私こそそれだ、と主は語りかけておられます。

2026年6月2日火曜日

2026年6月2日の聖句

(ボアズからルツへの言葉)「あなたがたもその翼のもとに逃れてきたイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ記2:12)
神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければなりません。(ヘブライ11:6)

本当にその通りだなと思います。「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければなりません。」神に近づくというのは、「祈る」と言い換えてもいいかもしれません。「礼拝する」と言ったり、「賛美する」と言ってもいいかもしれません。祈るならば、その祈りを聞いてくださる神がおられることを信じるのは当然でしょう。しかしそれだけでは不十分だ、と聖書は言います。神がおられるだけではない。その神は求める者に報いてくださるお方だと信じなければならない。神は必ず祈りを聞いてくださっているし、その祈りに何倍もの報いをくださり、私たちが望んだ以上のことをしてくださることを信じて祈る。それが神に近づこうとする信仰だ、と言うのです。
自分の祈りの心を省みてみると、どうも、留保を付けてしまっているように思います。半信半疑で祈っているところがあるように思います。それは、自分が願ったとおりにならなかったとき傷つかないための予防線です。つまり、不信仰なのです。神さまに信頼していないのです。しかしそれは祈りの信仰ではありません。
今日の旧約の御言葉でボアズがルツに言っているとおり、神はご自分の翼のもとに逃れてきた者に必ず報いてくださるし、必ず受け入れて守ってくださいます。そのことを単純に信じ、まっすぐに神を信頼したい。何よりも、神の慈しみ深さを信頼したい。そう願います。

2026年6月1日月曜日

2026年6月1日の聖句

6月の御言葉:
自分も一緒に捕らえられているつもりで、捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人たちを思いやりなさい。(ヘブライ13:3)

今日の聖句:
神によって御言葉を賛美します。
主によって御言葉を賛美します。(詩編56:11)
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

生ける神の言葉ご自身として、イエス・キリストは私たちのところへ来てくださいました。神さまの御言葉は空しい言葉ではない。空虚な、地に落ちてしまう言葉ではない。必ず出来事を起こす言葉、また、リアルな実態を伴う言葉です。神はご自身がお語りになった言葉を、私たちの間でこれ以上なく最上の仕方で実現してくださいました。独り子なる神として、神はご自身の言葉を私たちの間の出来事にしてくださったのです。
「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
イエス・キリストがお生まれになり、私たちの間に神ご自身が宿ってくださった。そのようにして、神はご自分の御言葉を私たちの間の現実の出来事として現してくださいました。こうして、私たちはこの世界も神の言葉で造られ、私の命も神の語りかけによって与えられたものであることに改めて気付いたのです。イエス・キリストの栄光が私たちの命をも照らしています。
御言葉こそ私たちの救い、私たちの命です。御言葉に聞きましょう。神の言葉に耳を傾けましょう。ここに私たちのための神の愛が実っているのです。

2026年7月16日の聖句

神は我らの逃れ場、我らの力。 苦難の時の傍らの助け。 それゆえ私たちは恐れない。(詩編46:2~3) イエスは、母とその側にいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネに...