2021年12月7日火曜日

2021年12月7日の聖句

主は、地を力により造り、天を英知により拡げられた。(エレミヤ10:12)
信仰により、この世界が神の言葉によって造られたことを悟ります。(ヘブライ11:3)

「主は、地を力により造り、天を英知により拡げられた。」神さまがこの世界をお造りになったという事実を、私たちは信仰によって悟ります。神がこの世界をお造りになったこと、神がお造りになったこの世界をご覧になって、「極めて良い」と言ってくださったこと。お造りになった世界を、私たちをご覧になって祝福の言葉をかけてくださったこと。その事実を、私たちはただ信仰によって悟るのです。神さまを信じる人は、この世界が神の祝福に包まれているという根源的な事実を悟っている、本当に幸いな人だと言うことができます。
この世界の始まりを解明する試みは、人類の英知を結集して様々なアプローチで進められています。どのようにして世界が生まれたのか。科学の力は、驚くべき知恵でもってそれを明らかにしていく。しかし、どんな科学者も、この世界がなぜ生まれたのかという問いには答えられない。どうしてこの世界は生まれたのか、どうしてこういう宇宙が生まれたのか。「なぜ」への答えは人間の知恵の外にある。なぜなら、私たちのこの世界そのものへの「なぜ」は、この世界の外を知らなくては、この世界よりも大きな存在によってでしか、答えようがないからです。
しかし神を信じる者は知っています。「主は、地を力により造り、天を英知により拡げられた。」聖書は、この世界は神の力と英知によって造られ、拡げられたのだ、と言います。神さまがこの世界をお造りになった。それは、この世界を愛するためです。神さまはご自分のめぐみの契約の相手として私たちを造り、私たちに命を与え、私たちを愛してくださいました。この世界を神がお造りになったという事実は、この私が、なぜこのような私として生まれ、生き、ここにいるのか、という答でもあります。神は、この私を愛し、祝福を与えるために、私を私として造ってくださった。それが聖書の伝える根源的な事実なのです。
「信仰により、この世界が神の言葉によって造られたことを悟ります。」神を信じる者は、自分の命の秘密を知っています。この世界の根源の秘密を知っています。神の愛によって、神の愛のために、私たちは造られた。神の祝福の相手として、神は私たちを造ってくださった。今日という私たちの新しい一日も、神の愛のゆえに、私たちに与えられた尊い一日に他ならないのです。

2021年12月6日月曜日

2021年12月6日の聖句

神はモーセに言われた。「こちらに近づいてはならない。履物をぬぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だからです。」(出3:5)
揺るぎない御国を受けている私たちは、感謝しましょう。神に喜ばれるように、畏れ敬いながら仕えていきましょう。(ヘブライ12:28)

モーセは柴の間で燃え上がる炎の中に、神様と出会いました。近づいてくるモーセをご覧になって、神さまは言われます。「こちらに近づいてはならない。履物をぬぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だからです。」モーセは聖なる地、つまり神さまの御前にいたのです。
ここは、荒れ野の中にある山の片隅です。モーセはここで羊飼いをしていました。かつてはエジプトで王子として育てられていましたが、人を殺し、荒れ野に逃れ、この地で結婚してひっそりと暮らしていました。モーセのここまでの歩みを考えてみると、彼自身は、聖くも何ともないし、彼の人生が聖に向かって上昇していたわけでもないし、あるいはこの土地が何かいわれのある霊験高らかな場所というわけでもないただの荒れ野に過ぎなかった。しかし、そういうモーセを選んで、何の変哲もない荒れ野の一隅を選んで、神さまがモーセと出会ってくださった。だからこそここは聖なる場所、神の山と呼ばれたのです。
私たちが神様と出会う場所、そこが聖なる場所です。神さまはどこで私たちに出会われるのか。私たちが生きる、ここです。モーセは、社会的に見れば犯罪者ですし、落伍者です。しかしそんなモーセを選んで、モーセが社会の真ん中にいたときではなく周辺にさまよい出たときに、神がモーセと出会い、その場所が聖なる土地になった。神さまは、今日、私たちと出会ってくださいます。だから、私たちが今いる場所も、聖なる土地です。神はここを神の山にしてくださる。「神に喜ばれるように、畏れ敬いながら仕えていきましょう」と今日の新約聖書の御言葉は言います。私たちは畏れます。神の前、聖なる場所に今いることを。この畏れは、神と出会う畏れです。神が私と共にいてくださる意実への畏れです。今日、ここで、私は神の前に進み出ている。それが、今私たちが祈りを献げているということの意味する事実です。

2021年12月5日日曜日

2021年12月5日の聖句

私にお示しください、主よ。私があなたの真(まこと)のうちに歩むあなたの道を。(詩編86:11)
イエスは言われた:私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)

私たちさがみ野教会の姉妹教会に、希望が丘教会という教会があります。この教会に附属するめぐみ幼児園という小さな幼稚園に、私は通っていました。ここで私はキリストと出会いました。たくさんの讃美歌を教えてもらいました。その中でも特に好きで、幼稚園で歌ったことを今でもよく覚えている曲がいくつかあります。その中の一つに「主に従い行くは」という子ども讃美歌があります。
「主に従い行くは、いかに喜ばしき。心の空晴れて、光は澄むよ。御跡を踏みつつ、共に進まん。御跡を踏みつつ、歌いて進まん。」
御跡を踏みつつ、というところが好きです。主イエスの足跡ということでしょう。一歩前を歩いておられるイエスさまの足跡に、自分の足を重ねるようにして歩いて行く。主と共に歩いて行く。主と共に歩く道の何と嬉しく幸いなこと、と歌います。
主イエス・キリストの道は、喜びの道です。キリストと共に歩む喜びの道です。私たちは一歩前に進んでおられるキリストの足跡にこの足を重ねて、喜びの道を歩きます。キリストが進んでおられるから、この道は真理の道です。もっとはっきり言えば主イエスご自身が道だから、真理の道なのです。「私にお示しください、主よ。私があなたの真のうちに歩むあなたの道を。」主なる神様は、キリストの跡を進むこの道を照らしてくださいます。私たちには、私たちが行く道がこの先どうなるのか分かりません。しかしキリストの福音の中に歩くのですから、絶対に大丈夫です。
キリストと共に歩む道は命の道です。私たちに命を得させる神の愛の福音を聞きながら、私たちは歩いて行きます。神を賛美する賛美の歌を歌いながら、私たちは毎日の歩みを進んで行きます。今日も、私たちは喜んで賛美を献げましょう。道を行きながら賛美を口ずさみ、止まったときには祈りを献げ、いつも喜び、この道を歩いて行きましょう。主イエス・キリストが、今日もあなたと共にいてくださいます。

2021年12月4日土曜日

2021年12月4日の聖句

イスラエルは永遠の救いによって主に救われ、あなたがたは、永遠に恥じ入ることも辱められることもない。(イザヤ45:17)
義しい人々は、彼らの父の家の太陽のように輝く。(マタイ13:43)

今日の御言葉を読んで、私は、私たちの教会の信仰の大先輩、 YTさんのことを思い出しました。かつて、YTさんがまだ地上の生涯を生きておられたとき、お目にかかると、いつも熱い祈りを一緒に献げておられました。キリストの勝利を信じ、神の栄光を仰ぐ内容の祈りをいつも献げていました。本当に熱い信仰者です。
神さまは、私たちを永遠の救いによって救ってくださいます。私たちを太陽のように輝かせてくださるのです。YTさんはキリストの勝利をいつも信じて祈り、神さまの栄光を仰いでおられました。このキリストの勝利に私たちもあずかり、神さまの栄光に照らされて、私たち自身も光のように輝く救いの時が必ず来る、と聖書は言います。
今、私たちが味わっている現実は、それとは全然違うかも知れません。「永遠に恥じ入ることも辱められることもない」と聖書は言います。しかし私たちの現在は、恥や辱めの中にあるかも知れません。神さまを信じているがために、いやな思いをさせられたり、恥をかかされたり、つらい目に遭うことが、私たちには必ず起きます。キリスト御自身が迫害されたのですから。弟子は師に優りはしない。しかしそうであるからこそ、私たちはやがてキリストの栄光にあずかり、キリストの勝利にあずかる。私たちの目の涙がことごとく拭われるときが来る。それが、神さまの約束です。
明日の日曜日は第二アドベントです。私たちは、明日もキリストを待ち望んで、祈りの道を上っていきます。キリストを待ち望む。それは、キリストの勝利を仰ぐということです。神さまの栄光の前にひれ伏すということです。神を礼拝するとき、私たちはキリストの光の中にすでに置かれているのです。

2021年12月3日金曜日

2021年12月3日の聖句

ファラオは雨、雷、雹が止んだのを見て、またもや罪を犯し、心を頑なにした。(出9:34)
神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことを知らないのですか。(ローマ2:4)

神さまはエジプトの国で奴隷として追い使われていたヘブライ人を救うために、モーセを遣わされました。モーセはファラオに会ってヘブライ人たちを解放するように願いましたが、ファラオは徹底的に拒みました。そこで、神さまはモーセを通してしるしを行われました。ナイル川が血に変わってしまったり、蛙が大量発生したり、ブヨが大量発生したりしました。そのたびにファラオは考えを改めて、ヘブライ人たちが国から出て行くことを認めた。しかしすぐにまた心変わりし、やっぱり行くことはまかり成らんと言う・・・その繰り返しです。
今朝の御言葉は、七つ目の災いです。大きな雹が降ってきた。しかもエジプト人のところにだけ降り、ヘブライ人はその害を免れた。今度もやはりファラオは言ったのです。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのは私と私の民である」と。しかし、その後災いが去り、ファラオは再び心を変えました。「ファラオは雨、雷、雹が止んだのを見て、またもや罪を犯し、心を頑なにした。」
このファラオとモーセのやりとりは、昔話のように読んでいると、ファラオは愚かだなと言ってしまいがちですが、我が事として読むと、とても身につまされる出来事です。何度も何度も同じようなことを繰り返し、痛み目を見て反省するのに、すぐにまた元どおり。それは多くの人が身に覚えのあることではないでしょうか。私たちが自分の生き方や習性を変えるのはなんと難しことでしょう。
御言葉は私たちに言います。「神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことを知らないのですか。」私たちの注目を引くのは、「神の慈しみが」と言っていることです。「神の怒りが」とか、「神からの罰が」とか、そういうふうには言っていません。ファラオやエジプトに起こったことを考えると神の怒りや罰と言った方が良さそうな感じさえしますが、神さまはもはやファラオにしたのと同じようには私たちに振る舞わないということではないでしょうか。キリストにあって、私たちのために、神さまは忍耐し、慈しみをもって接してくださる。もしも神さまが、神さまとして当然の怒りや裁き、罰をもって臨んだら、私たちはあっという間に滅びるべきです。しかし神さまは慈しみを選んでくださいました。愛を選んでくださいました。この神の慈しみは、私たちを悔い改めに導く慈しみです。今日、生かされているこの命をもって、神さまの御前に悔い改めの祈りを献げましょう。

2021年12月2日木曜日

2021年12月2日の聖句

私に注目しなさい、私の民よ
私に聞きなさい、私の民よ。
教えは私から出ており、私の公正をすぐにも諸国民の光とするからだ。(イザヤ51:4)
闇が過ぎ去り、既にまことの光が輝いているからです。(1ヨハネ2:8)

日曜日からアドベントを迎えました。アドベントの楽しみの一つは、アドベントクランツです。毎週一本ずつロウソクの火を灯していくと、クリスマスを待ち望む喜びがあふれてきます。特に私は、前の日曜日に灯したロウソクが短くなっていく様子が好きです。先週も礼拝をささげ、その時に火を灯して、その分だけロウソクが燃えて短くなった。今日も新しい一本を燃やして・・・そうやって、毎週少しずつロウソクが短くなっていきます。その分だけ、クリスマスが近づいてきます。クリスマスは光の祭りです。光の降誕祭を、私たちは待ち望んでいます。アドベントは光を待望する季節です。
「闇が過ぎ去り、既にまことの光が輝いているからです」と聖書は言います。私はこの「既に」という言葉が好きです。私たちの目に映るところでは、周りは真っ暗です。光の兆しは私たちには見えません。この世界を覆っているのは神さまの光であるよりも、人間の罪の闇であるとしか私たちには確かめられない。しかし、既に光が輝いています。しかも「まことの光」です。偽りの光、ごまかしの光ではありません。私たちの望みとしても決して裏切られることのない光です。私たちの目をくらますだけの光ではない。まことの光が、もう既に輝いている。闇の中に。私たちを包むや身がどんなに暗くても、神のまことの光がもう既に輝いています。
アドベントは、主イエス・キリストという光を待ち望む時です。私たちは待ち望む。しかし、それはまだない光を遠くに待つということではない。既に来た光を、しかしなお今も待ち続ける。主イエス・キリストという光は来る朝ごとに新しく光り輝くから。今日の私を新しい輝きを持って照らすから。私たちに神の光の祝福を与えてくださる方を、私たちは今日も新しい思いを持って待ち望みます。この方に注目しましょう。この方の御言葉に聞きましょう。私たちを決して闇の中に捨て置くことのない光の福音が、今日新しく私たちに届けられています。

2021年12月1日水曜日

2021年12月1日の聖句

モーセは主に言った「あなたの御顔が前を行ってくださらないなら、私たちをここから、引き上がらせないでください」。(出33:15)
良い羊飼いは羊の先頭に立って行き、羊は従う。羊は羊飼いの声を知っているからだ。(ヨハネ10:4)

私たちの先頭に立って私たちを導いてくださるのは、私たちの羊飼い、主イエス・キリストです。私たちは行く当てのない旅路を進んでいるのではありません。私たちの旅路は、先頭に主イエス様が立ち、私たちを導いてくださっています。しかも、主イエスは私たちの先頭に立ってご自分の御顔を私たちに向けています。私たちは、私たちの優しい羊飼い、主イエス様の御顔を仰ぎながら、今日という一日の旅路を続けていくのです。
私たちには分からないことがたくさんあります。特に現代は、分からなさを加速させる時代だと思います。一昔前からすると考えられないほどたくさんの情報があふれています。テレビで得る情報量は、もう社会の中では少ない部類です。ネットからあふれ出してくる情報のなんと多いこと。そして、なんと不確かなこと。子どもが最近YouTubeを好きになってしまって、野球の情報を仕入れています。面白い番組もありますが、真偽不確かな噂をまことしやかに流布しているものもあります。大人もほとんど無批判に不確かな情報にさらされています。野球だけで話が済めば良いのですが、ネット空間には訳の分からない情報があふれかえっています。ほとんどが匿名で、無責任な言葉です。しかし、なぜか見る者の心を揺さぶり、訴えかけてくる強さを持っている。説得されてしまう人も少なからずいる。そういう巷の声は魂を損ないます。
主イエスは「羊は羊飼いの声を知っている」と言います。そうです。私たちは主イエス様の声を知っているのです。本当に大切な声、私たちに命を与え、神の愛を実現するみ声を、私たちはもうすでに知っています。世の巷にどんな流言があふれても、私たちは私たちの羊飼いの声を知り、そのみ顔を仰いでいるのです。
主イエス・キリストの御声を、耳を澄まして聞きましょう。この声こそが、私たちの命です。聖書の御言葉に耳を傾けましょう。私たちに命を与え、私たちが白髪になるまで背負ってくださる神の語りかけが、ここにあります。神さまを愛し、神さまを礼拝し、祈り、そのみ声に聞くことにこそ、私たちの最高の幸せがあるのですから。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...