2021年12月21日火曜日

2021年12月21日の聖句

栄光の王とは誰か。強く力ある主。戦いに力ある主。(詩編24:8)
民は、イエスの前を行く者も、後に従う者も叫んで言った「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の名によって来られる方に。ホサナ、いと高きところに」。(マタイ21:9)

「ホサナ」とは、「救ってください」という意味の言葉です。人々はエルサレムに入城するイエスをたたえて叫びました。「ホサナ!」主イエス・キリストを迎えるのに、こんなにふさわしい言葉があるでしょうか!主イエスよ、救ってください。私たちを救ってください。私たちを神の国に迎えてください!
「栄光の王とは誰か。強く力ある主。戦いに力ある主」と言っています。主イエス・キリストは、強く、力ある方。私たちを救う力を持っておられる方です。私たちを罪の泥沼から救い出すために来てくださった私たちの王。この方は私たちを救う権威も、力も持っておられます。
今日の旧約聖書の御言葉として与えられているこの詩編のでは、主なる神様を「王」と呼んでいます。私たちの王、私たちを救う力を持っておられる私たちの主は、まさに王としてエルサレムに入城しました。王として、イエスは子ろばにのってエルサレムに凱旋しました。その出来事を、マタイは旧約聖書を引用しながらこのように紹介しています。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。私たちの王は、子ろばに乗って、私たちを救うために来られた。私たちの王は、ろばの子に乗る柔和な王様。キリストの力や栄光が、柔和さの中に輝いているというのは、本当にうれしいことです。私たちはイエスさまの優しさによって救われるのです。
昨日、YMCAの保育園の礼拝のお手伝いに伺いました。最近、0から3歳の乳児さんの礼拝もするようになりました。本当に小さな子どもたちと一緒にクリスマスの礼拝を献げました。イエスさまは優しい方です。こういう子どもたちを心から愛しておられます。王イエスは一人ひとりを抱っこして、頭に手を置いて祝福してくださる方です。主イエスさまはそういう愛で、私たちのことも愛してくださっています。それが私たちの王様。この愛が私たちの王様の栄光です。この優しさが、私たちの王様の力なのです。キリストの優しさによって、今日もあなたの一日に祝福がありますように。

2021年12月20日月曜日

2021年12月20日の聖句

私が地を造り、そこに人間を創造した。(イザヤ45:12)
この方はご自分のものたちのところに来られた。(ヨハネ1:11)

キリストが人の子としてお生まれになったことを祝うクリスマスが、一日、また一日と近づいてきています。神の子、キリスト。天と地とをお造りになった方の独り子です。人間を造り、命を与えた方の子です。この方が、一人の人間としてお生まれになった。それがクリスマスの奇跡です。
「この方はご自分のものたちのところに来られた。」キリストは、私たちのところへ来てくださる方です。私たちのことを知らんぷりしたり、放っておかれたりせずに、キリストは私たちのところへ来てくださる。一人の人間として。
パウル・ゲルハルトという人の作詞した「まぶねのかたえに」という讃美歌があります。「まぶねのかたえに われは立ちて、受けたるたまもの ささげまつる。いのちの主イエスよ、わが身も心も、とりて祝したまえ」と歌いだします。本当に美しいクリスマスの讃美歌です。日本語の歌詞の第4節でこのように歌います。「きらめく明か星 うまやに照り、わびしき乾し草 まぶねに散る。こがねのゆりかご 錦のうぶぎぞ きみにふさわしきを。」主イエスさまは、神の子です。黄金の揺り籠がふさわしく、錦の産着を着ても足りない方です。しかし、キリストは、ご自分の神の子らしさを、わびしき乾し草をベッドとし、うまやに生まれることによってお示しになりました。それが、神の子が人の子として私たちと共にいるということです。キリストは貧しくなって、惨めになって、低く低くへりくだって、私たちと共にいてくださるのです。この侘しさの中に神の子キリストの栄光が輝いています。
私たちのところへ来てくださったキリストは、私たちと共にいてくださいます。この方が負った苦しみは私たちの苦しみであり、この方が受けた傷は私たちの受けるべきだった傷です。飼い葉桶の中には、すでに十字架があります。クリスマスツリーの根元には、十字架があります。私たちは、私たちのところへ来てくださった神の子のへりくだりによって、救われたのです。

2021年12月19日日曜日

2021年12月19日の聖句

主を求める者たちの心は喜べ。(詩編105:3)
喜びなさい、自らを整えなさい、忠告し合いなさい、思いを一つにし平和を保ちなさい。そうすれば愛と平和の神はあなたがたと共におられます。(2コリント13:11)

喜びなさい!聖書から、この言葉が響いています。聖書のそこかしこから、こだまして高らかに宣べます。「喜びなさい!」私たちは喜ぶことで、思いを一つにし、平和に生きることが出来るのです。
昨日、教会で子どものクリスマスの祝いをしました。近所に住む友人が子どもたちを集めてコーラスを教えています。その子たちに教会のクリスマスを経験させてあげたいので協力してもらえないかと言われ、喜んで一緒にクリスマスの礼拝を準備しました。クリスマスの讃美歌を何曲か一緒に歌って礼拝しました。合唱を習っている子どもたちが練習してきただけあって、美しい歌声でした。クリスマスのお話をしました。よく聞いてくれました。私が伝えたかったのはただ一つ、クリスマスは、イエスさまがみんなのことを大好きだと言ってくださっている日だ、ということです。これは大人も同じです。大人も子どもも、神さまの大好きを頂いて生きています。
どんな人でも、本人が知らなくても、必ず神さまを求めています。主イエスのお名前はまだ知らないかも知れない。クリスマスの意味も考えたこともないかもしれない。それでも、どんな人も神のかたちに造られているのですから。心の深いところで必ず神を求めていると私は信じています。だから、クリスマスはすべての人の喜びの日です。神の子が私たちと同じ肉をとって、私たちの間に生まれたのです。神さまが私たちのための平和になってくださったのです。クリスマスは喜びの祝いの日です。
喜びなさい。聖書は私たちに訴えます。聖書は私たちに告げます。喜びなさい。主イエス・キリストがお生まれになったのだから!キリストがあなたと共におられるのだから!喜びなさい。大いに喜びなさい。私たちは、この神の呼び声の中で今日という一日を歩んでいきます。

2021年12月18日土曜日

2021年12月18日の聖句

神は彼らを男と女に創造され、祝福し、彼らに「人」という名前を与えられた。(創世記5:2)
神があなたがたに、憐れみと平和と愛とを豊かに与えられますように。(ユダ2)

神さまが私たちに人間を造ってくださったとき、神さまは私たちを祝福なさいました。これは、私たち一人ひとりの命を与えたときのことでもあります。私たちは、その生の初めの時から神の祝福の中に存在している。これが私たちの存在の根源的な事実です。
私も、神の祝福の中に生かされている。この事実を今日、新しい思いをもって受け入れてください。私も祝福されている!
「神があなたがたに、憐れみと平和と愛とを豊かに与えられますように。」私たちを今日一日の新しい命に送り出す祝福の言葉です。私たちは、神の憐れみと平和と豊かな愛の中に生かされています。そうは見えない現実が自分を取り囲んでいると思われるかも知れません。しかし、どうぞ信じてください。私も根源的な神の祝福の中に生かされているのだ、と。神の憐れみによって、今日私は生きている。神との平和な関わりの中に、私は今日生きている。クリスマスにキリストがお生まれになったということがその証拠です。神の愛の中に、私は今日生きている。キリストがあなたのために十字架にかけられたことがその確かなしるしです。神さまの憐れみは、平和は、愛は、どのようなときにも決して変わることがありません。無くなってしまうことが決してないのです。
神さまは、ご自分がお造りになった者たちを祝福して、「人」と名付けた、と聖書は言います。古代のユダヤ社会では、名付けは、父親が子をわが子として認めるというしるしだったと聞いたことがあります。産まれた子をわが子として受け入れる。神さまは、私たちに「人」という名を付けた。私たちを受け入れてくださった。ご自分の子として。
人間の親はあまりにも不完全ですから、育児を放り投げてしまったり、子どもにとってよくない振る舞いをしてしまったり、親であることを自ら否定してしまうようなことも珍しくありません。どの親も多かれ少なかれ身に覚えがあるのではないか。しかし神という親はそうではない。私たちに向ける根源的な祝福を放棄するようなことは、決してなさらないのです。神の祝福が変更されることはない。神の憐れみも、平和も、愛も、今日もあなたを豊かに覆っています。

2021年12月17日金曜日

2021年12月17日の聖句

主こそ私の受ける分、と私の魂は言う。だから私は主を待ち望む。(哀歌3:24)
あなたがたは、キリストを見ずに愛しており、今は見ずに信じています。あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れるでしょう。信仰の目的、すなわち魂の救いに達した時には。(1ペトロ1:8~9)

「主こそ私の受ける分」と言っています。主ご自身が私のための報酬です、という告白です。この言葉は旧約聖書の哀歌に収められています。哀歌。哀しみの歌という言葉の通り、ここには五編の哀しみの歌が残されています。ユダヤの国がバビロンに滅ぼされ、国は完全に崩壊し、主だった人々は遠いバビロン、今のイラクの辺りまで強制連行されてしまいました。哀歌はそうやって自分たちの国が崩壊した哀しみを歌う言葉です。生活の基盤や、自分たちの国の誇りや、信仰までも完全否定されてしまうような出来事です。家族も引き裂かれたに違いないし、地域コミュニティも無くなりました。土地に結びついたそれまでの生活も継続できません。何も無い。人とのつながりも無い。このような悲惨を嘗めるものたちの哀しみの歌の中で、言うのです。「主こそ私の受ける分」と。「だから私は主を待ち望む」と言うのです。
こんなに深い神さまとの交わりはありません。何に頼れなくても、どこにも確かさが無くても、どん底の現実にたたき落とされても、主ご自身が私の受けるべき報酬でいてくださる、だから私には望みがあると言い切るのです。上っ面ではない、骨身にしみた神への信仰、神への愛に生きている。
「あなたがたは、キリストを見ずに愛しており、今は見ずに信じています。あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れるでしょう。信仰の目的、すなわち魂の救いに達した時には。」この手紙を書いたのは、使徒ペトロです。三年近くにわたって主イエスと寝食を共にした人。イスラエルの中を一緒に旅してまわった人。主のお顔を見、主のお声を直接聞いた人。その人が言います。「あなたがたは、キリストを見ずに愛しているね」と。言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れているね、と。ペトロが言うのは、私たちのことです。私たちが主ご自身を報酬として喜んでいることを見て、ペトロも喜んでいる。主への愛の素晴らしさ、そしてそれ以上に主ご自身の愛のすばらしさを誰よりも知る人が、私たちの信仰のすばらしさを私たちと一緒に喜んでいます。

2021年12月16日木曜日

2021年12月16日の聖句

主、あなたがたの神は、上は天、下は地で神であられる。(ヨシュア2:11)
イエスは言われる「私はあなた方のところにいつもいます、世の終わりの時まで」。(マタイ28:20)

今日の新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書の最後の部分に書かれている主イエスのお言葉です。この言葉の初めのところで、主イエスはこのようにおっしゃっいます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。私たちといつも共にいてくださる方、これまでも共にいてくださったし、今も共におられ、これからも世の終わりまで共にいてくださる方。この方は、天と地の一切の権能を神から授かっておられるのです。
「権能」ということばを辞書で引いてみると、このように書いてあります。「権利を主張・行使出来るように、法的に認められた力。」主イエスは、天でも地でも、ご自分の権利を主張することが出来るし、その力を持っておられる。しかも「一切の権能」です。すべてのことにおいてご自分の権利を主張できるし、それを行使する力も持っておられる。神さまがそれを認められている。つまり、キリストは天においても地においても、私たちの神に他ならない。「主、あなたがたの神は、上は天、下は地で神であられる」。
昨日、娘たちが通っている幼稚園でクリスマスページェントがありました。それぞれ天使ガブリエルと羊の役をやっていました。子どもたちが喜んで演じていたのでとても楽しかったのですが、ページェントを見ながら、クリスマスの出来事をもう一度考え直す機会にもなりました。クリスマスは、天と地の一切の権能を持っておられる方が、人間の赤ちゃんになって生まれたことを覚える日です。主イエスは生まれたときに飼い葉桶に寝かされました。このことを羊飼いに告げた天使は言いました。「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。飼い葉桶に、天と地の一切の権能を神から与えられた方、神の子が寝ているのです。
私たちと世の終わりまで共にいてくださる方は、この世界の王です。すべてのことを自由にする権利も、その力も持っている神さまです。その方が飼い葉桶に寝ている。いちばん低いところに下ってこられた。言葉を失います。あまりのことが起きたということに気づくと、その途方もなさに、恐ろしくなります。キリストは、低く低くへりくだることによって、ご自分の神としての偉大さをお示しになったのです。どこまでもへりくだった天と地の神さま御自身が、私たちと共におられます。

2021年12月15日水曜日

2021年12月15日の聖句

主はこう言われる。「あなたの被害は絶望的にひどく、傷は治らない。さあ、私があなたを再び健康にして、あなたの傷を癒やす。」(エレミヤ書30:12,17)
この方の打ち傷により、あなたがたは癒やされたのです。(1ペトロ2:24)

今朝の御言葉も、この旧約聖書とこの新約聖書の御言葉を一緒に読むことによって、まったく新しい福音の響きを立てています。もとのエレミヤ書の御言葉は、イスラエルの民に語られた言葉です。イスラエルのひどい現実を見つめながら、しかしその傷を神が癒やしてくださる、という約束の言葉として語られているのだと思います。
ところが、今朝私たちは新約聖書のペトロの手紙の一緒にこの言葉を聞いています。「この方の打ち傷により、あなたがたは癒やされたのです。」ここで言われている「この方」とは、主イエス・キリストのことです。この方は十字架にかけられた。私たちの罪をその身に負い、死なれた。この方の打ち傷によって、私たちは癒やされたのです。私たちの罪が負わせた傷です。私たちの過ちの痛みです。それをキリストが全部引き受けてくださって、私たちは癒やされました。私たちはキリストの傷によってしか、キリストの流した血によってしか癒やされないのです。
「あなたの被害は絶望的にひどく、傷は治らない」。この言葉は、十字架にかけられたキリストにおいては真実です。キリストは十字架の傷のために陰府にまで降りました。ところが私たちの傷については、もはや事情が違う。私たちの傷はキリストの傷によってもういやして頂いたのだから、私たちには治らない罪の傷がありません。罪の傷はもう完全に癒やされています。
そして更に御言葉は続きます。「さあ、私があなたを再び健康にして、あなたの傷を癒やす。」癒やされようのない傷、治りようのない痛みを、神がいやし、治してくださる。そう。キリストは十字架にかけられ、そして三日目に復活したのです。神がキリストを陰府から引き上げ、墓から復活させられた。私たちはキリストの傷によって癒やされ、キリストの復活によって生きる者となりました。私たちのためにキリストは十字架にかけられ、私たちのためにキリストは甦られた。私たちは今日の二つの御言葉から、この福音の根源的な事実を聞き取ることができます。
私たちは、今もなお悩みもあるでしょう。傷もあるし、痛みもあります。しかしそれは根本のところでは癒やされています。私たちのために痛みを負った方が、私たちのために死に打ち勝った方が、私たちを癒やし、再び立たせてくださるからです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...