2022年1月7日金曜日

2022年1月7日の聖句

あなたは今日、主である神が天の上に、そして地の下にもおられ、ほかに神はいないことを知って、心に留めるべきです。(申命記4:39)
神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、地にあるものも天にあるものも、御子によって万物と和解させることを、良しとしてくださった。(コロサイ1:19~20)

今年は関東以外の多くの地域で雪が降っていましたが、昨日は神奈川にも雪が降りました。現代の気象科学の発展はめざましく、天気予報は本当に高確率で的中します。雨の予測でも、単に降るか降らないかだけではなく何分後に降るかということまで言い当てます。以前では考えられなかったような進歩を見せています。科学は、天気を自然現象として、どういうメカニズムで起こるかを観察し、予測します。秋までやっていた朝ドラを観て、天気予報の世界も面白そうだと思いました。ただ、天気には科学とは別の側面もあります。俳人であればあわれを感じるかも知れませんし、作家であれば物語をつむぐかも知れません。しかし私たちは、自然に働く神の御支配を知っています。天気にも、あるいは天地万物にあるあらゆるものにも、信仰者はそこにある神の支配を知っているのです。空も、海も、陸も、すべてのものは神に造られ、神によって保たれ、事実として、神の御手の中にあります。
「あなたは今日、主である神が天の上に、そして地の下にもおられ、ほかに神はいないことを知って、心に留めるべきです。」
この世界のあらゆるところに働く神さまの手の力を知り、私たちは今日、身を低くしましょう。私たちにはあまりにも大きすぎて、見えないことや理解できないこともたくさんあります。あるいは、私たちのそれこそ科学技術によって培って力を欲望の赴くままに使ったために、神さまがお造りになった世界を損ない、自然世界に生まれたひずみのために災いを招いてしまっていることも少なくないと思います。しかし、神さまは、そのようなところであえぐ私たちを放ってはおかれません。「神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、地にあるものも天にあるものも、御子によって万物と和解させることを、良しとしてくださった。」神さまは私たちと、そして私たちが世界と、和解するために、その偉大な力をふるわれる、というのです。
神さまの造った世界は、祝福と愛に満ちています。私たちがこの世界に満ち溢れる神の祝福と愛を受け取るために、神さまが御自ら和解の道を拓いてくださった。キリスト・イエスによっって。和解の福音。私たちはこの福音から、神さまが造ったこの世界と出会い直すことが許されているのです。

2022年1月6日木曜日

2022年1月6日の聖句

私に対して犯したすべての過ちから彼らを清め、彼らを赦す。(エレミヤ33:8)
イエス・キリストは、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2)

今日の御言葉は、旧約聖書も新約聖書も、罪を問うています。罪とは何か。それを知る一つの道は、律法です。律法の中の律法とも言うべきは十戒です。「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」「あなたは刻んだ像を造り、それにひれ伏してはならない」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を心に留め、これを聖別せよ」「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」。これら一つひとつを物差しにして、自分を省みるとき、自分が曲がってしまっていることに気づかないわけにはいかなくなる。更には、主イエスは律法を二つの言葉に要約なさいました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの主なる神を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」。主イエスは、律法の急所を愛だとおっしゃいます。つまり罪とは、愛にもとる私たちの現実のことです。
12月に映画"MINAMATA"、水俣病に揺れる1971年の水俣に入ったユージン・スミスという実在の写真家をモデルにした映画を観ました。正直に言って、私は水俣病のことをほとんど知りませんでした。学校の社会科で習った程度です。私にとってはかなり衝撃的な映画でした。水俣の海に有機水銀を垂れ流していたチッソは、しかし、長い年月にわたって責任を認めようとはしませんでした。ユージンが行ったフォト・ジャーナリストとしての取材をもみ消そうと様々な工作をしました。チッソは戦前から戦後に渡って長いこと日本経済を牽引するような地位にあったので、国もこの公害を見て見ぬ振りをしてきました。金儲けのためにつくられた企業や国のシステムは極めて非人間的で、水銀中毒で苦しめられる市井の人の痛みなど意にかえさない姿は、醜悪でした。決定的に愛が欠落していました。愛の欠落、つまり罪は、人を醜悪にします。それは一企業や国だけの問題ではなく、私たち自身への問いです。私たちも、このような公害を生み出してきた経済発展に支えられてきたし、それを享受してきたのです。
「私に対して犯したすべての過ちから彼らを清め、彼らを赦す。」「イエス・キリストは、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」これら二つの御言葉は、どちらも、私たちを罪から救おうとする神さまの強い決意を語ります。本当に、私たちは、神さまに罪から救って頂かなくては、再生不可能です。骨身にしみてそのことを知り、本気で救いを求め、今日の日を祈りの日としたい。そのように願います。

2022年1月5日水曜日

2022年1月5日の聖句

主は言われる。「私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。(出33:19)
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。(2コリント8:9)

主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、言葉を換えると、神の身分でありながらご自分を無にして、僕の身分になられた、ということです。主イエス・キリスト、神の子である方が貧しくなられた。神が人になられた。神の御許で栄光に輝いておられるはずの方が、飼い葉桶にお生まれになった。それは、主が御自ら貧しくなられることによって、私たちを豊かにするためだというのです。
この御言葉は、私たちはキリストに豊かにして頂いているという事実に気づかせます。この手紙を書いたパウロは、キリストの福音を宣べ伝えるためにいろいろなところを旅しました。その多くの場所で迫害されました。この手紙の宛先のコリント教会を初めとして、少なからず、仲間であるはずの教会の人々から非難されるということも味わいました。福音伝道をしたために当局にマークされ、投獄されたことや鞭打ちにされたこともありました。最後は殉教しました。そのパウロが、言うのです。私たちは豊かだ、キリストの貧しさが私たちを豊かにしてくださったのだ、と。
私たちは、自分の豊かさを知っているでしょうか。それを神さまに感謝しているでしょうか。神がくださったもの、備えてくださったものが私を生かしていると実感しているでしょうか。そして、キリストの貧しさ、つまり飼い葉桶に生まれ、十字架の死に至ったキリストの貧しさが、私を究極の命に生かしていること、神の前で豊かな者にしてくださっていることを知っているでしょうか。
今日、神の恵みを数えましょう。恐れや不満ではなく、私たちを生かす神の恵みを数えましょう。そして、神の前で生かされていることを喜び、神を賛美して今日一日を生きていきましょう。

2022年1月4日火曜日

2022年1月4日の聖句

私に恵み深くあってください。神よ、恵み深く。私の魂はあなたを信頼しているからです。(詩編57:2)
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

今日の新約聖書の御言葉はヨハネによる福音書に登場する一節です。「ヨハネ」の名前が冠されています。ヨハネという名前には「主は恵み深い」という意味があります。日本のキリスト者でも、自分の子どもに「恵」の字を名付けることがあります。ヨハネと名付けるのも、恵の字を名付けるのも、親の願いは同じです。主の恵みの中に生かされる人生を生きてほしい。そしてそれは神さまの私たちへの願いでもあります。「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。」
神さまは私たちを恵み深く扱ってくださいます。しかも、「この方の満ち溢れる豊かさの中から」と言っています。「恵みの上にさらに恵みを与えられた」と言います。主の恵みは深く、豊かで、恵みに恵みが重なる。神さまはケチではない。有り余る恵みを私たちに注いでくださるお方です。
この神の恵みは、イエス・キリストという具体的なかたちをとって私たちのところにやって来ました。神はキリストを私たちに下さるほどに私たちを恵んで止まない。神はご自分の独り子を下さるほどに、私たちを愛して止まないのです。
だから、私たちは神の愛を信頼して、神さまに大胆に願いましょう。「私に恵み深くあってください。神よ、恵み深く。私の魂はあなたを信頼しているからです。」恵み深く、私のためにあってくださいと言います。大胆な祈りです。遠慮しません。遠慮のない、大胆な祈りは、神への信頼に裏打ちされています。神の恵みを信頼しているから、大胆に、深く恵みを与えてくださいと祈るのです。
主は恵み深い。この事実が、今日一日の私たちの歩みを支えます。今日もあなたにキリストの祝福がありますように!

2022年1月3日月曜日

2022年1月3日の聖句

あなたは私たちの中におられます。主よ、そして、私たちは御名によって呼ばれています。私たちを見捨てないでください。(エレミヤ14:9)
神が心の目を開いてくださるように。同時に、神の招きによってどのような希望が与えられるかを悟らせてくださるように。(エフェソ1:18)

今日の旧約聖書の御言葉は、直前のところから読むと、その訴えの強さがよく分かります。
「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人、宿を求める旅人のようになっておられるのか。なぜあなたは、とまどい、人を救いえない勇士のようになっておられるのか。」そして、冒頭の言葉に続きます。「あなたは私たちの中におられます。主よ、そして、私たちは御名によって呼ばれています。私たちを見捨てないでください。」
神さまはどうして私たちを助けてくださらないのか。何もしてくださらないのか。どうじて、力なく、私たちを救うこともできないかのように振る舞っておられるのか。神さま、あなたは私たちの中におられるではありませんか。私たちはあなたの御名で呼ばれる民ではありませんか。主よ、救ってください!……これは、そういう祈り、あるいは叫びです。
この旧約の御言葉と共に、今朝私たちに与えられている新約の御言葉はこれです。「神が心の目を開いてくださるように。同時に、神の招きによってどのような希望が与えられるかを悟らせてくださるように。」心の目を神が開いてくださいますように。希望があることに私たちが気づくことができますように。神が私たちに与えてくださった希望は、目が開かれていないと悟ることができないのです。神が信仰の目を開いてくださらなければ、私たちが希望を抱くことはできないのです。
それは、私たちの希望、私たちの救いが、十字架にかけられた方にかかっているという事実が基になっていることからも分かります。どうして十字架に磔にされた男が希望の源だと、信仰の目が開かれることなしに納得できるでしょうか。キリストは地に這いつくばることで私たちを救ってくださいました。天の軍勢を率いて敵を制圧し、成功や名声を得ることはなさいませんでした。権力者に踏みにじられ、差別される者の友となって迫害されることによって私たちを救ってくださいました。キリストは私たちを救う力のない勇士のようになって、寄る辺のない旅人のようになって、私たちを救ってくださったのです。このキリストの救いを見せるために、主よ、わたしの目を開いてください。あなたが準備してくださった希望をこの目で仰がせてください。そう祈り、今日の一日を始めていきましょう。

2022年1月2日日曜日

2022年1月2日の聖句

見よ、私はただひとりであり、私のほかに神はいない。私は殺し、また生かすことができ、打ち、また癒やすこともできる。私の手からもぎとることのできる者は、誰もいない。(申命記32:39)
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)

「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」
これはハイデルベルク信仰問答の第一の問いです。これに対してこのように答えます。
「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守ってくださいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、してくださるのであります。」
この問答の言葉が今日の御言葉のための最高の解説なのではないかと思います。神さまは私たちを殺すことも、生かすこともおできになります。打つことも、癒やすことも、神さまには自由にすることができる。だからこそ「私の手からもぎ取ることのできる者は、誰もいない」と神さまは言うのです。私たちを神の手から奪い去ることなど誰にもできない。私の命は神さまの御手の内にあるのだから。髪の毛一本すらも神さまの赦しがなければ落ちないのです!
そのような完全な支配の力を持って、神さまは、私たちを罪と死から完全に取り戻してくださり、悪魔から救い出し、私たちが神のものとして生きることができるように、キリストの命をもって買い取ってくださいました。だから、私たちは生きるにしても死ぬにしても、キリストのものとして、キリストのために生き、また死にます。どのようなときであっても、私たちをキリストによって示された神の愛から奪う取ることのできる者などいないからです。

2022年1月1日土曜日

2022年1月1日の聖句

2022年の聖句:
イエス・キリストは言う:私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。(ヨハネ6:37)

1月1日の聖句:
あなたの兄弟やあなたの母の息子、あるいはあなたの息子か娘、あるいはあなたの腕の中の妻、あるいは、あなたの人生と同じくらい大切な友人が「他の神々に仕えようではないか」とひそかに言っても、あなたはその者に同調してはならない。(申命記13:7,9)
イエスは言う:神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。(マルコ3:35)

新しい年を迎えました。今年も「日々の聖句」という小冊子が指定する聖書の御言葉に毎日耳を傾けます。ドイツのヘルンフート兄弟団という教会の人々が300年近く前から毎年編纂しています。ドイツ語の原題は「ローズンゲン」と言って、これは「ローズング」という単語の複数形です。ローズングは籤とか合い言葉という意味があります。約300年前、ヘルンフート兄弟団の危機の時代に、聖書の御言葉を合い言葉に、心を一つに結束してこの聞きに立ち向かおうといって始まったのだそうです。
主イエスさまは言われます。「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」私たちもキリストに招かれ、決してキリストは私たちを追い出すことがありません。どのようなときにも、キリストは私たちの手を掴んで、放さないでくださいます。キリストは、ご自分のもとにいる者、ご自分のもとで神の御心をに生きる者を「私の兄弟、姉妹、また母」と呼びます。私たちもキリストの兄弟であり、姉妹であり、また母なのです!私たちはキリストの家族です。
ドイツでは正月をどのように過ごしているのか私は知りませんが、日本では、特別な時と受け止めて大事にしている人が多いのではないかと思います。家族の行事が多い時期です。そのことで嬉しい思いをすることも多いでしょうが、哀しみを覚える人もいます。私たちはどのような家族の関係の中に生きていても、キリストの家族です。こういう季節であるからこそ、そのことを深く覚えましょう。私をご自分の兄弟と、私をご自分の姉妹と、私をご自分の母とまで呼んでくださるお方がおられる!驚くべき事実です。私たちはキリストの愛する家族としてこの新しい年を迎えました。
他の神々に仕え、礼拝し、これを愛することはもはや出来ません。この世にはたくさんの神々の顔があります。魅力的な言説や楽しませてくれるいろいろな快楽があります。しかし私たちを自分の家族として愛してくれる神など、他にはいません。家族として、この私のために命までも献げてくださる神など、他にはいないのです。この新しいとし、私たちはキリストの圧倒的な愛によって生かされています。その事実はどのようなときにも揺らぐことがないのです。
この新しい年、聖書の御言葉を私たちの合言葉としてこの時を歩んで参りましょう。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...