2022年3月7日月曜日

2022年3月7日の聖句

見よ、主なる神がここにいる。彼はその御腕によって統治される。(イザヤ40:10)
身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)

主イエス・キリストが「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言なさった日から、神さまの御国は私たちのところに来ている。私たちに神の国は近い。それが、キリストを信じる者の確信です。「神の国は近づいた」と、主イエスは過去形でおっしゃいました。駅員さんが「電車が参りました」と、今まさに来ていることを過去形で言うのと同じです。すぐ近いのです。もうベンチに座ってのんびりはしていられません。電車はここまで来ているのです。だから、聖書は言います。「身を起こし、頭を上げなさい。」なぜなら、「あなたがたの救いがちかづいているからだ。」私たちの救いのときがもうここに来ている。私たちは身を起こし、頭を上げて、救いのとき、神の国の到来のときを迎えます。
「しかし」と私たちは思います。神の国が来たと言っても、私たちの救いが近づいていると言っても、一体どこにあるのでしょう?この世界の現実はそれとはまったく反しています。どこにも救いは見えないし、神の国なんて絵空事ではないか?
あなたには、見えませんか?神さまの国が私たちの間にあることが。今も心を合わせて神を礼拝する者たちがいる、ということは、その確かなしるしの一つです。そうでなければ、どうして私たちは喜んで礼拝生活を営むことができるでしょうか。今、私たちの教会で一人の神学生が研修しておられますし、昨秋には私たちの日本中会に新たな別の神学生が与えられました。そうやって伝道者が立てられるということも、神の国のしるしの一つです。そして何より、洗礼を受ける人が起こされる。その事実が、キリストの神の国宣言が今ここでも現実化している確かなしるしです。
「見よ、主なる神がここにいる。」わたしは、「ここに」という言葉がとても好きです。見てください、ここに主なる神様がおられます。私たちも「ここに」と互いに語り合うことができます。ここに神さまのご支配が始まっている、私たちを救う神さまの御業がここでも進んでいる。今日、私たちは、私たちにすでに始まっている福音の御業を見つける目をもって、歩んでいきましょう。ここでも神が働いてくださっている。その御業を見て、身を起こし、頭を上げて、キリストをお迎えするための営みを今日も重ねましょう。

2022年3月6日日曜日

2022年3月6日の聖句

主はその聖なる神殿におられる。全地よ、主の前に沈黙せよ。(ハバクク2:20)
賢者たちは言った:私たちは、彼を礼拝するために来ました。(マタイ2:2)

私たちの教会は「カンバーランド長老教会さがみ野教会」というのが正式な名称ですが、この中に「長老教会」という言葉が入っています。この教会はスイスのジュネーブで活躍した改革者ジャン・カルヴァンにまで遡る伝統をもちます。そのカルヴァンの名著に『ジュネーブ教会信仰問答』というものがあります。問答形式で信仰の事柄を説き明かしていく書物ですが、その始まりのところでこのような問答があります。

問 人生の特に目指す目的は何ですか。
答 人をお造りになった神を知ることです。

そして少し進んで、第6の問答はこのようになります。

問 さてそれでは、どういうものが神についての真の、また正しい知識でしょうか。
答 それは神に帰すべき誉れが表明されるような知り方であります。

神に帰すべき誉れが表明される仕方で神を知ること、それが人の生きる目的だ、と言うのです。一言で言えば、私は神を礼拝するために生きています、ということになる。まことに鋭く、真理を言い表している言葉です。今日、私たちも自分の心に言い聞かせたいと思います。私は、神を礼拝するために生きている。誉れを帰すべき方である神を知るために、私は生きている、と。
新約の聖句に登場するのは占星術の学者たちです。彼らは主イエスさまを礼拝するために、東の国からやって来ました。遠い外国です。文化も環境も、歴史も、人生観も、それまで大切にしてきたものも、何もかも違います。しかしそれはすべて脇に置いて、主イエス・キリストを礼拝し、誉れを帰すために、彼らはやって来たのです。私たちの先頭を旅する礼拝者、それがこの占星術の学者たちです。
カルヴァンはこの信仰問答において、神を礼拝することこそが私たちの最高の幸せだとも言っています。本当にその通りです。私たちは、キリストの御前にあって、この最高の幸せを味わうべく招かれています。神を信頼し、神の御言葉に従い、悩みの日には神に助けを求め、全生活をあげて神を誉めたたえ、善きことを神に求める。そのような祈りを今日献げたい、と願います。主イエス・キリストの祝福が、あなたにありますように。

2022年3月5日土曜日

2022年3月5日の聖句

あなたは東に生きる者も西に生きる者も、喜びで満たしてくださる。(詩編65:9)
イエスは町から町へ、村から村へと歩かれた。そして至る所で、神が今、その支配を確立し、その働きを完成させるとの良い知らせを宣べ伝えた。(ルカ8:1)

主イエス・キリストは、町から町へと歩いては福音を宣べ伝え、村から村へとわたっては神の御業を行いました。そして今も、キリストは私たちの間を歩いて、御業を行い、福音を宣言しておられます。今、キリストは、私たちの足によって、私たちの手によって、私たちの口によって働いておられます。私たちを選んで神の国を宣言するために遣わしているのは、主イエスさま御自身です。私たちに福音を託してくださっているのは、神様ご自身の霊、聖霊です。私たちは、遣わされている場所、その至る所でキリストを証しします。
「あなたは東に生きる者も西に生きる者も、喜びで満たしてくださる」。東も、西も、です。どこに住んでいても、どんな文化や歴史を負い、どんな歴史の中で生きていても、キリストの福音の喜びは、誰にとっても喜びです。
東や西、という言葉を聞いたとき、私には、ウクライナのことが思い起こされました。彼の地に生きる人々にとっては、今は喜びが奪い去られるような厳しいときであると思います。キリストが私たちの足によって東や西に行き、私たちの口によって福音を今も宣べ伝え、私たちの手によって神さまの愛の御業を進めておられるのならば、彼の地で爆撃に怯える人々も、キリストの宣べ伝える神の国の一員です。私たちは政治家ではありません。何かの力を持つわけでもなく、戦争を止めさせるには、無力です。しかし私たちは、戦争によって無辜の人々が傷つけられ、殺されるこの現実が一秒でも早く終わるように、祈ります。キリストが町から町へ、村から村へと、東にも西にも宣言なさった神の国が早く来ますように、と私たちは祈ります。「御国を来たらせたまえ」と私たちは祈り、今日の一日を歩んでいきます。

2022年3月4日金曜日

2022年3月4日の聖句

主よ、私の目はあなたに向いています。私はあなたに信頼を寄せます。私を死の力にさらさないでください。(詩編141:8)
イエスは言う:私が生きているので、あなたがたも生きることになる。(ヨハネ14:19)

今、この祈りのとき、私たちの目を主なる神様に向けましょう。耳を澄まして神さまの御言葉を聞き、私たちの目を天に上げて、神さまを仰ぎましょう。「私を死の力にさらさないでください」と、この詩編は祈っています。私たちは、生きているときにも死にゆくときにも、私たちのただ一人の真実な救い主、イエス・キリストのものです。死が迫ってくるときにも、私たちは神さまを仰ぎます。主イエス・キリストが、死にゆく私と共にいてくださるからです。
「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」とキリストは言われました。「私は生きている」。キリストは生きている。今、生きておられる!「主は生きておられる」というのは、キリスト教会最初の福音の言葉でした。十字架にかけられて葬られた主イエスを墓に尋ねたマグダラのマリアは、イエスが生きておられることを知りました。マリアは走って行って弟子たちのところへ行って、言います。「主は生きておられる!」それを聞いた弟子たちのところに、主ご自身が来てくださいました。キリストと新しく出会い、彼らも福音としてこの言葉をたくさんの人たちに告げました。「主は生きておられる!」
私たちも、同じです。「主は生きておられる!」キリストが今も生きておられ、働いておられることを私たちも信じ、そのことを福音として宣べ伝えています。主は生きておられる。だから、「あなたがたも生きることになる」とキリストは言われます。主が生きておられるから、私たちも生きる。キリストに命を頂いて、私たちも生きる。このキリストに頂いた命は、死の床ででもなくなりません。このキリストに頂いた命は、私たちをご自分のものとする神の力強いお働きです。私たちは生きているときにも、死にゆくときにも、変わることなくキリストのものです。だから、私たちには平安があります。主が生きておられるから。私を神のものとしてくださったから。もはや私たちは死の所有物ではなく、死に支配されているのではなく、私たちを愛してくださる真実なる救い主イエス・キリストのものです。ここに、慰めがあります。

2022年3月3日木曜日

2022年3月3日の聖句

神は、恵みとまことを送ってくださいます。(詩編57:4)
神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。多くの良きことをなさり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたを養い、その心を喜びとで満たしてくださっているのです。(使徒14:17)

私たちは神が送ってくださる恵みとまことを享受して生きています。多くの良きこと、天から降る雨、季節の実りをもって私たちを養い、喜びを与えてくださる。私たちの命をつないでくださる良きことは、神さまが準備してくださったものです。神さまの恵みとまことはこの世界を覆い、私たちに明らかです。
だからこそ、この世界に満ち溢れる恵みとまことを損なってはならなりません。戦争は、その意味でも、たいへん大きな罪です。あるいは土地や天然資源の収奪、権利の抑圧、弱いものたちへの蹂躙も、同じです。神さまがお造りになったよき世界を壊す、たいへん恐ろしい罪です。
神さまの恵みもまことも、本来はこの世界に明らかに満ち溢れています。それを壊したり、奪い合ったりしているのは、私たちです。だからいつもどこかで足りなくなってしまうし、命を落とす人が後を絶たないのではないでしょうか。
今、私たちは、神さまの恵みとまことに帰らなくてはなりません。神さまが与えてくださったものをありがたく頂き、分け合い、共に生きる道を探す。それは造り主なる方の前にひれ伏し、悔い改めるということです。私たちの思いを超えて良きことをなさる神さまを信頼し、何でもかんでも自分のものにしないと安心できないという誘惑から救ってください、と私たちは祈ります。
昨日は教会の暦では「灰の水曜日」という特別な水曜日でした。この日から受難節が始まります。十字架にかけられたキリストのお姿を思い起こし、悔い改めの祈りを献げます。キリストの御前に、心を静めて祈り、ただ神の恵みとまことによってだけ生かされる幸いの道を歩んでいきましょう。

2022年3月2日水曜日

2022年3月2日の聖句

あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。(申命記28:2~3)
幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11:28)

あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
今日も、神さまはあなたを祝福しておられます。あなたが町にいるときにも、野にいるときにも。職場に向かう電車の中でも、パソコンを前にしているときにも。誰かと接しているときにも、一人でいるときにも。台所に立っているときも、草花の手入れをしているときにも。どのようなときにも神はあなたを祝福し、あなたの立つのも座るのも、起きるのも寝るのも祝福しています。
その祝福の源泉は、主の声、神の言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」礼拝で宣言されるこの祝福も、聖書に記された御言葉です。神さまはご自分の言葉によって私たちを祝福してくださいます。聖書を開いてキリストを知り、神さまの御言葉に聞くことは、神の祝福を頂くことです。私たちは御言葉の祝福に今も耳を傾けています。
「主の声に聞き従うとき」と言っています。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とも言われています。神さまの御言葉に聞き、これを守って、従う。
私たち自身の言葉のことを考えてみても、言葉には何らかのかたちで自分の存在がかかっているのではないかと思います。例えば「おはよう」という何気ない挨拶一つを取ってみても、それを言った相手に無視されたら、傷つきます。「ありがとう」と言ってもむすっとされていたら、とても悲しい気持ちになります。その「おはよう」や「ありがとう」は単なる音声や記号ではなくて、愛や気持ちがこもった言葉、自分の存在がかかった言葉だからです。まして神さまの御言葉です。真実な言葉。神の言葉には、神ご自身であるイエス・キリストの存在がかかっています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた」と書いてあるとおりです。だから、神さまの御言葉に聞き、そして聞くだけでなくそれに従うというのは、神さまの存在に応えるということです。神さまがご自分の存在や命をかけて私たちに傾けた御言葉に、私たちも自分の存在をかけて従う。そこに私たちのかけがえのない祝福があるのです。
神さまは、今日も私たちを祝福しています。私たちの存在の根っこから、根本的に祝福するために、私たちに心を込めて祝福を告げるために、神さまは私たちに今日も語りかけています。だから、神が備えてくださった祝福の道に、私たちも踏み出して行きましょう。

2022年3月1日火曜日

2022年3月1日の聖句

あなたを慕い求める人たちがあなたにあって楽しみ喜びますように。(詩編40:17)
彼らは毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、民全体から行為をもたれていた。(使徒2:46~47)

パンを裂き、食事を共にし、神を賛美する。これが教会の歩みであった、と聖書は伝えています。この「パンを裂き」というのは、聖餐を指す言葉です。キリストがご自分の体を裂いて十字架にかけられ、血を流して、私たちに命を与えてくださいました。生まれたばかりの教会はすぐにこの出来事を記念し、キリストが最後の晩餐の席でしてくださったように、パンを裂き、それを分け合ってキリストを礼拝したのです。私たちの献げる礼拝は、パンを裂いて分け合うことです。
今回のコロナのためにいろいろな制限を受けてしまいましたが、その中でも、聖餐が受けたダメージは大きかったと思います。私たちの教会では一年ほど前から聖餐を再開しました。しかし、私の知るかぎり、カトリック教会はもっと早く再開していました。プロテスタント教会の礼拝の中心は説教ですが、カトリック教会の礼拝の中心は聖餐(彼らは「聖体拝領」と呼びます)です。そういうこともあって、聖餐のかけがえなさにより敏感であったのかも知れません。しかし私たちにとっても、聖餐の尊さ、大切さは何ら変わるところがない。キリストが裂いて分けてくださったご自身のお体を食べることで、私たちは命を頂いて生きているのです。
これを頂く教会は、聖書によれば「喜びと真心をもって」これを共にしていました。キリストの命を受ける群れは、キリストのお体を裂いて分け合うことで、喜びと真心を新しくして、神への賛美に生きていたのです。
私たちは、罪深い者です。神さまの子どもを十字架にかけて殺しました。私たちはそのキリストの命を頂かなくては生きていけないのです。キリストのお体を頂かないことには、私たちはもうどうしようもないのです。神さまの憐れみの中で、キリストの命を頂いて、今生かされている。この事実こそが、私たちの喜びの源泉なのです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...