2022年12月7日水曜日

2022年12月7日の聖句

賄賂によって罪ある者を正しいと告げ、正しい者たちから義を取り上げる者たちには災いがあるように。(イザヤ5:22~23)
すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。(フィリピ4:8)

ドイツのプロテスタント教会が歌っている讃美歌に、ユリゲン・ヘンキスという方が作詞したこのような歌があるそうです。
「平和を与えてください、主よ。平和を与えてください。
世界はひどい道を歩んでいます。正義が力によって決定され、嘘をつく者が上にいます。
不正が蔓延しています。強い者が勝利します。
私どもは叫びます。主よ、どれだけ長く続くのですか、と。平和のない私どもを助けてください。」
どういうメロディーの曲なのか、この作詞者がどのような人物なのかを私は知りませんが、今日、与えられた御言葉と共に心に留めたいと思います。平和を与えてください、主よ。私たちも同じように祈ります。
預言者イザヤは、社会の中で裁きが ねじ曲げられている現実を見つめています。罪ある者が正しいとされ、正しい者から義が取り上げられている。賄賂が裁きをねじ曲げている。お金が正義よりも優先度の高い価値観になってしまっている。私たちの社会はどうなのでしょう。私たちは、平和なのでしょうか。
この社会の有り様についてブツブツつぶやいたり、評論家のように論評してみせることが私たちの役割ではないのだと思います。この世界の中でキリストを見上げ、私たちは祈ります。「平和をください、主よ!」
「すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」主イエス・キリスト。このお方こそが神の義そのもの。私たちの社会の公正です。平和は神から来る。だから私たちは祈ります。祈りつつキリストを待ち望みます。そしてこの世にあって、平和を作り出すために、神と隣人とに仕えます。

2022年12月6日火曜日

2022年12月6日の聖句

あなたの国には暴虐はもう聞かれず、あなたの領土には破壊と破滅は聞かれない。あなたは、あなたの城壁を救いと呼び、あなたの門を賛美と呼ぶ。(イザヤ60:18)
しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。(2ペトロ3:13)

今日の旧約聖書の御言葉は、主なる神さまの告げる救いと平和の約束の言葉です。ですからここに登場する「あなた」は私たちのことと考えて差し支えないでしょう。私たちは、もはや私たちの国において暴虐を、私たちの領土において破滅を聞くことがない。神さまが私たちの救いとなる。武力が平和をもたらすのではない。力によって平穏がもたらされるのでもない。神様ご自身が私たちの平和。この方が私たちの平和になってくださる。そういう力強い神さまの約束のメッセージです。
クリスマスの夜、救い主キリストの誕生を祝い、天の軍勢が歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」ここでも「平和」と歌われています。救い主が来てくださった!それは私たちに平和が訪れたということに他なりません。神の平和が私たちに訪れた。
キリストが来られた。キリストは十字架にかけられた。私たちの平和として、私たちを神と和解させてくださいました。キリストが私たちの間に平和を作ってくださいました。しかしそれは、まだ完成していません。私たちはまだ苦しみ続けている。平和ではないこの世界の現実に。悪が支配するこの世界の暴力性に。私たちはキリストの約束を信じ、この世界の中で、信じるからこそ救いを待ち望んで今を生きています。
「しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。」今日の私たちの一日は、キリストの救いを待ち望む一日です。キリストは再び来て、私たちの間に平和を完成してくださる。私たちをご自分の途方もない愛の中で必ず救ってくださる。その日には、キリストご自身が光となって私たちを照らしてくださいます。太陽も、月も、私たちを照らす必要がありません。キリストが私たちを照らす明かりになってくださるから。私たちの太陽はもはや沈むことがなく、月は欠けることもない。主が私たちのとこしえの光となって、私たちの嘆きの日々は終わるからです。私たちは大いなる救いの日を待ち望んで、今日を生きていきます。

2022年12月5日月曜日

2022年12月5日の聖句

御旨に適って行うすべを教えてください。あなたは私の神だからです。あなたの恵み深い霊が平らな地で、私を導いてくださいますように。(詩編143:10)
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22~23

「御旨(みむね)」、神様のご意志ということです。神様のご意志に適うすべ、神様に喜んで頂ける生き方をするにはどうしたら良いか、神さま教えてください。そういう祈りの言葉です。私たち自身の祈りです。私たちも同じように願っています。神さまに喜んで頂ける生き方をしたい。神さまのご意志に適う生き方をしたい、と。しかし、どうしたら良いのでしょうか。私が勝手に神さまのご意志を決めてしまうことはできないし、神さまが何を望んでおられるのか、一体どうしたら分かるのでしょう。
それで、今日の新約聖書はガラテヤの信徒への手紙が伝える「御霊の実」が記されています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」しかし、という逆接の接続詞から始まっています。この文章の前には「肉の実」が挙げられている。「淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他この類いのものです。」これに対して、御霊の実、つまり神の霊が私たちの内に結んでくださる実りは、と言って愛から始まってあれら9つの実りを数えている。私たちの肉の欲から生まれる実りは、神さまの御心に適わない。ところが私たちがキリスト・イエスを信じ、キリストに属し、キリストと共に自分の欲を十字架につけてしまったなら、私たちの内にはキリストご自身の霊の結ぶ実が生まれるのだ、と言うのです。
神さまの御旨は、例えば今日の私の晩ご飯についての御旨、というかたちでは現れないのだと思います。今度買う車の車種や色についての神さまの御旨を、ご託宣のように求めることはかえって間違いです。私たちの信仰は占いや運勢判断の類いとは違うからです。むしろ、私たちがキリストの十字架を仰いで愛を持って生きること、喜んで生きること、平和に、寛容を持って、親切に、善意に満ち、誠実に、柔和な心で、節制して生きることを、神さまは望んでおられます。
「そんなことできない」というのが、私たちの正直な感想かも知れません。当然です。そんな完璧なことはできない。自分の力でやろうと思っているかぎりは。私たちは自分のあり方を神さまに明け渡して、ただキリストを見つめます。私のために十字架にかかったキリストを。その私の内に、私の頑張りではなくキリストご自身の霊が働き始めている。実りを結んでいる。聖書はその現実を私たちに気づかせているのです。

2022年12月4日日曜日

2022年12月4日の聖句

牧者が自分の羊が群れから散らされているときにその羊を探すように、私は自分の羊を探す。(エゼキエル34:12)
イエスは言う:私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11)

イスラエルにとって、羊飼いはとても親しみ深い仕事だったのでしょう。聖書には羊飼いの話がたくさん出てきます。ダビデ王もかつては羊飼いでした。主イエスは100匹の羊を持つ羊飼いがもしも一匹を失ったら、100匹を野において失われた一匹が見つかるまで探さないだろうか、というたとえ話をなさいました。主イエスがこの話をなさったとき、預言者エゼキエルを通して語られた主なる神様の御言葉を思い起こしていたに違いないと思います。
「牧者が自分の羊が群れから散らされているときにその羊を探すように、私は自分の羊を探す。」
実はこの言葉を語る前に、預言者エゼキエルは悪い羊飼いの話もしています。脂肪を食べ、羊毛を身にまとっている羊飼い。羊の群れを食い物にするばかりで、羊たちを守ろうとしない。恐らくここに出て来る羊飼いはイスラエルの国の王たちのことです。王が国民を守らずに食い物にしている。しかし、神様はそうではない。散らされてしまったご自分の羊の群れを探すために、地の底にまでも降りていてくださる。そのまことの羊飼いこそ、主イエス・キリストに他ならない。
キリストは羊飼いです。しかも、良い羊飼いです。羊を犠牲にして自分を潤す悪い羊飼いではなく、かえって羊のためにご自分を与えてくださる方です。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
この羊飼いである方は、私たちの名前を呼んでくださいます。羊は羊飼いの声を聞き分ける。主イエス・キリストはあなたの名前を呼んでおられます。主の声を聞き分け、主の導きの内に、主が招いてくださる青草の原に憩いましょう。主が招いておられます。主の御許へ。

2022年12月3日土曜日

2022年12月3日の聖句

主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。(詩編102:20~21)
もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。(ヨハネ8:36)

神様は聖なるお方。天にまします方。この世界の造り主。他に、この方に並び立つものは一つもないお方。ですから、神様の御前にある人々は皆畏れました。モーセは、燃える柴を前にして神と出会い、この方を畏れました。預言者イザヤは、天におられる神を見て、自分は滅びなければならないと言っておののきました。ソロモン王が建築した神殿の荘厳さは、聖なる神様の御前にある畏れを証言しています。
聖。それは神様の御性質です。私たちからは生まれません。だから、私たちには何が聖なのかが分からない。私たちに分かるのは汚れだけです。神様の御前にいる自分の汚れしか分からない。そして、この方は自分とは全く異なる聖なるお方だと知るとき、私たちは畏れます。恐れおののいて、神様の御前にひれ伏します。聖なる神様の御前で、礼拝が始まります。
しかし神様は、私たちからただ隔絶しているだけの方ではありません「主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。」神は天から地に目を注いでくださる。そして、呻く捕らわれ人をご覧になってくださるお方です。
「見る」と言ってもいろいろな見方があります。最近はサッカーの話題が豊かですが、サッカーの試合を見ながら名解説を聞いていると、素人が全然気付きもしないような試合のポイントを見事に示してくれます。漫然と眺めていても気づかなくとも、見る人が見ると分かることがある。神様のまなざしは、呻く捕らわれ人に注がれます。私たちの誰も気づかない片隅にも、主の御目が注がれ散る。しかも、この方は聖なる方。何者も並び立つことのできない方。唯一の方。その方が、一人の捕らわれ人をご覧になって、解き放つために立ち上がってくださるのです。そしてそのために、主はご自分の独り子を呻く私たちのところへ送ってくださったのです。
「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。」私たちは、神の子イエス・キリストによって自由にして頂きました。そのために天から目を注いだ神様は、私たちのところへキリストを送ってくださいました。聖なるお方が私たちを救うためにここまで来てくださったのです。だから、あなたは救われた。神は共におられる。聖書はそう証言します。

2022年12月2日金曜日

2022年12月2日の聖句

主の民にあってはすべての人が預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に来たらせてくださることを神に願いなさい。(民数記11:29)
霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。(1テサロニケ5:19~21)

普通、日本語で「よげん」と言うと「予言」という字を書きます。予め言うと書く字の通り、未来に起こる出来事を言い当てるという意味を持つ言葉です。しかし聖書では「よげん」は「預言」と書きます。すばらしい翻訳をしたと思います。言葉を預かる人を預言者という。誰の言葉か?もちろん、神様の言葉です。ですから聖書に登場する預言者は、神秘的な力を発揮して未来のことを言い当てる人ではありません。神様からのメッセージを証言し、伝える人のことです。預言者は、言い換えれば「証人」です。
「主の民にあってはすべての人が預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に来たらせてくださることを神に願いなさい。」すべての人が預言者であるように祈りなさい、と書かれています。すべての人。神を信じる人の誰もが預言者としての言葉を語ることができるよう神に願いなさい、と言っています。
新約聖書のコリントの信徒への手紙一第14章にこのような言葉があります。「皆が預言しているところへ、信者でない人か初心者が入って来たら、その人は皆から問いただされ、皆から批判されて、心の秘密が暴かれ、そのあげく、ひれ伏して神を拝み、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と言い表すことになるでしょう。」これは、迷い込んできた初心者を皆で責めたて、詰問したり脅したりするということではありません。預言の言葉。イエス・キリストの福音の言葉を皆が語り合っているところに人が入ってきたら、その福音によって新しくされる。キリストの福音が必ずその人の心に届くはずだ、という意味です。ですから「預言」は、キリストの福音を語る言葉です。この言葉を誰もが語ることのできるよう祈りなさい!聖書はそのように言います。
今朝のテサロニケの信徒への手紙では「霊の火を消してはいけません」と言っています。民数記でも「主がご自身の霊を彼らの上に来たらせてくださること」と言っています。預言の言葉、福音の言葉は、神様ご自身の霊の力によらなければ語ることができない。聖霊が私たちに働いて、私たちが共に福音にあずかり、それを喜び、共にキリストの恵みを語り合う共同体になることができますように。私たちは祈ります。

2022年12月1日木曜日

2022年12月1日の聖句

さあ、ベテルに上ろう。苦難の日に私に答え、私の行く道で共にいてくださった神のため、そこに祭壇を造ろう。(創世記35:3)
いつも、あらゆることについて、父なる神に感謝しなさい。(エフェソ5:20)

今日の旧約聖書の御言葉は、アブラハムの子であるイサク、そしてそのまた息子であるヤコブの言葉です。ヤコブにはエサウという双子の兄がいました。当時の社会は長男がすべてを相続します。ところがあるときヤコブはエサウの長子の権利をだまし取りました。
エサウは父イサクのお気に入りでした。一方ヤコブは母に肩入れされていた。母は一計を案じ、今度はエサウが受け継ぐはずだった神の祝福をヤコブにだまし取らせます。長子の権利ばかりか神の祝福までもだまし取られたと知ったエサウはヤコブを激しく憎み、殺そうと決断します。それで、母はヤコブを自分の生家に逃がしたのでした。
命からがら家を出たヤコブは荒れ野に一人、石を枕にして寝ました。彼は夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に据えられていて、そこを神の使いが上り下りしていた。つまり、神は私のところにまで降りてきてくださっている、神は共にいてくださるとヤコブは知ったのです。神はヤコブに語りかけます。「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない。」
目覚めたヤコブは枕にしていた石を柱として据え、油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けました。やがて母の生家へ行って結婚し、子どもを与えられ、長い年月が経ってヤコブは兄エサウのもとへ帰ります。二人は和解することができました。その後、ヤコブは再びベテルへ行きます。「さあ、ベテルに上ろう。苦難の日に私に答え、私の行く道で共にいてくださった神のため、そこに祭壇を造ろう。」自分を見捨てず、どん底の日にも共にいてくださった神に礼拝を献げるために、彼はベテルに上りました。
今日の新約聖書の御言葉も言っています。「いつも、あらゆることについて、父なる神に感謝しなさい。」あなたにも分かるでしょう、と聖書は言います。神様はいつもあなたと共にいて、どんなときにもあなたを見捨てない。ヤコブがそうであったように、あなたのことも!ヤコブの物語は、私の物語。あなたの物語です。私たちも、神が共にいてくださるベテルにいるのです。だから、神に感謝しましょう。いつも、あらゆることについて。神様の深い恵みが、今日も私たちを生かしてくださっているのですから。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...