2023年5月8日月曜日

2023年5月7日の聖句

今週の聖句:
新しい歌を主にうたえ。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)

今日の聖句:
あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ、渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは彼の上に炭火を積み、主はあなたに報いてくださる。(箴言25:21~22)
あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。(ルカ6:35)

私たちの生きる出発点は、ただただ、いと高き方の子、主イエス・キリストが私たちにしてくださったことです。ただキリストに愛して頂いただけ。それが私たちのすべてです。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」と御言葉は証言します。キリストの愛によって私たちは命を受け、今生きています。
この事実が私たちの生き方を導く。「あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」神様が私に情け深くしてくださったように、私も情け深く生きよ、と聖書は言います。
ここで聖書は「何も当てにしないで」と言っています。神様との取引として私も敵を愛します、というのではない。何よりも先ず神様が神様に敵対していた私を愛してくださった。それはもう事実になっている。その神の事実に生きる時、私たちは神の子としてふさわしく生き始める。
今日は日曜日です。礼拝を献げます。私たちはこの主の日に、私たちの原点に引き戻されます。キリストの愛と憐れみに生かされている自分であることにもう一度新しく気づきます。主イエス・キリストの平和が私を生かしていることを再び知ります。その平和の中で、私たちはもう一度新しく隣人と出会うのです。

2023年5月6日土曜日

2023年5月6日の聖句

苦悩の中から主に呼びかけ、わが神に叫びを上げると、主は私の声を聞く。(詩編18:7)
イエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。(マルコ4:38)

「苦悩の中から主に呼びかけ、わが神に叫びを上げると、主は私の声を聞く。」この信用、主に守られている安心感、祈りが聞かれているという信頼。これが神を信じるということではないでしょうか。確かに、私たちには疑ってしまう時もあるかも知れません。どのような時にも信じ続けられるほど強くはないかもしれません。祈ってもむなしくなってしまう日もあるかも知れない。
あの嵐の中で主イエスと一緒に舟に乗っていた(はずの)弟子たちも、そうでした。「イエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と言った。」主イエスはこのように起こされて、舟に吹き付けていた風や波を止めてくださいました。これで一件落着、無事に済みました・・・とはなりませんでした。主イエスは弟子たちを叱ります。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」主イエスは弟子たちの不信仰をなじった。
主イエスはこの舟におられるはずなのに、舟は風や波に襲われている。今にも沈みそうになっている。肝心の主イエスは・・・眠っておられる。そう思って、弟子たちは怖くなってしまいました。これは私たちの状況とうり二つです。教会という舟に、主イエスは共にいてくださるはずです。ところが私たちに吹き付ける風や波に対して、主は何もしてくださらない。主は眠っておられるのか。何もしてくださらないのか。「先生。私たちが死んでも、構わないのですか。」ところが、それは不信仰な問いだと主は言われます。主がここにおられることを知らないのか、と。本当に眠っていたのは主イエスではなく、弟子たちや私たちの信仰だったのではないでしょうか。
「苦悩の中から主に呼びかけ、わが神に叫びを上げると、主は私の声を聞く。」主は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。私たちはそのことを本気で信じましょう。不信仰には、私たちがそれに真剣に向き合い、付き合わなければならないほどの価値がないのです。私たちは不信仰ではなく信仰を尊びます。キリストを信じ、キリストを信頼して祈ります。この方は必ず私たちの祈りを聞き、応えてくださるから。私たちはキリストを信じます。

2023年5月5日金曜日

2023年5月5日の聖句

私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。(ゼカリヤ3:9)
この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2)

旧約聖書のレビ記を読むと、旧約の時代の礼拝の作法についてとても細かく規定されています。特に罪を贖うための礼拝について、神に献げ物をするときのことについて丁寧に定められています。
「奉納者が献げものとする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内蔵と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。(レビ1:6~9)」
罪を贖うために神に犠牲を献げ、燃やして宥めの香りとする。そこには、私たちが神のものとして生きるとはいかなることなのかを真剣に問い続けた旧約の信仰の問いがあったのだと思います。神のものとしてふさわしくない自分を神の前にお詫びし、大切なものを献げ、神と和解させて頂くのです。
しかし神のものであるはずなのに、その真実とかけ離れた私たちの現実の深刻さは、無限です。どこまでも神の前に逆さまな私たちです。それは何よりも愛の破綻に現れる。神を真実に愛しえず、隣人をも真実に愛しえない私たちです。だから、神ご自身が真実なささげ物を御自ら献げてくださいました。「この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」この方、すなわちイエス・キリストこそ、私たちの罪も世界の罪も宥めるための香り良きささげ物になってくださったのです。
「私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。」主は言われます。そのために、私たちではなく神ご自身が働いてくださいました。神ご自身がキリストを献げ、私たちの罪を取り除いてくださいました。私たちは罪から救われている。聖書はそう宣言します。
私たちと神との間を宥めてくださった主イエス・キリストに、栄光と誉れが代々とこしえにありますように。

2023年5月4日木曜日

2023年5月4日の聖句

わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう。あなたの戒めはことごとく正しいのですから。(詩編119:172)
わたしは福音を恥としません。福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

キリスト教会のとてもすてきな特徴は、歌に溢れていることです。礼拝では讃美歌を歌います。最初は讃美歌が好きで教会に行ってみたという人もおられるのではないでしょうか。2000年間のキリスト教会の歴史で、数え切れないほどの無数の讃美歌が生まれました。いや、旧約の時代から考えれば、更にたくさんあります。私たちは神を賛美して歌い、祈りを込めて歌い、喜びも嘆きも、歌にして神に献げます。コロナのために、私たちの教会の礼拝でも讃美歌の曲数を少し減らしたり、一時期は一節のみ歌ったりもしました。しかし、歌うこと自体は止めませんでした。私たちは歌うことで信仰をつむぎます。
「わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう。」私たちが歌うのは「あなたの仰せ」と言います。神さまの御言葉から私たちの歌が始まる。それは、主の御言葉がことごとく正しいものであるから。私たちは神の言葉に導かれ、神の言葉に基づいて歌う。
「歌いつつ、聖徒らと共に」という本があります。キリスト教会の葬儀について書かれた本です。2000年前の生まれたばかりのキリスト教会。まだ周りに多くのキリスト者はいませんでした。ちょうど今日本にいる私たちと同じようなマイノリティであったと思います。彼らは仲間が地上の生涯を終えると、昼日中に、歌をうたいながら葬りました。賛美の歌をうたって葬式をした。当時のローマ社会ではかなり奇異に映ったようです。当時の社会常識では、普通、葬式は夜の闇の中でひっそりと行うものだった。それを昼間に、しかも歌ってやっている。ところがキリスト教会の葬りは、そのスタイルのままで2000年間続きました。今でも私たちは歌いつつ葬ります。聖徒らと共に。私たちの舌は、キリストの福音を歌います。葬送の列にあってもこの賛美は終わらない。生きている時にも死ぬ時にも、キリストが私たちの救いだからです。
「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」神様の救いの御手は、私たちが考えているよりも遙かに長く、確かです。この救いをもたらす神の力を信じ、私たちは今日もキリストの福音を歌いつつ、歩んでいきます。

2023年5月3日水曜日

2023年5月3日の聖句

聖なる者となりなさい。あなたがたの神、主である私が聖なる者だからである。(レビ記19:2)
キリストによって希望に満たされた私たち皆が、キリストの栄光への賛美となるためです。(エフェソ1:12)

私たちがキリストの栄光への賛美となる!使徒パウロはそのように言います。驚くべき言葉です。私たちが賛美を歌うとか、賛美の祈りをささげるとか、それが普通の言葉だと思います。ところが使徒は驚くべきことに、私たち自身がキリストへの賛美になると言います。私たちの存在がキリスト賛美そのものになる!
聖書は私たちに先立って、私たちの真の姿を発見します。私たちは自分を小さく考えすぎているのかも知れません。私は信仰深くないし、つまらない人間だと思い込んではならないのです。キリストに望みを置き、キリストを希望とする私たちを、キリストはご自分の栄光への賛美そのものにしてくださっている。私たちの存在を通して、キリストの御名が賛美される。そんな驚きの世界がここに広がっています。
「聖なる者となりなさい」と今日の旧約では言われています。聖なる者とは、神のものという意味です。神のものとして生きろ、と言っている。私たちの立派さとか信仰のすごさを誇るというのではなく、ただただキリストの愛と憐れみに生かされ、神のものとして生きる。神に望みを置き、キリストの救いにすがって生きる。それが、聖なる者となるということです。ただ神の救い、その憐れみによって、神は私を新しくしてくださる。
キリストは私たちをご自分の深い愛によって愛し、命を与えてくださいました。この後は、私たちはキリストのものとして生きていきます。それが「私らしい」ということの本当の意味です。主イエス・キリストの祝福が、今日もあなたにありますように。

2023年5月2日火曜日

2023年5月2日の聖句

善であられる主が、神を求めることに心を定めたすべての人々に、憐れみ深くあろうとしてくださるように。(歴代誌下30:18~19)
(イエスの言葉)私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)

「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
主イエス・キリストのお言葉です。そう、キリストは招いておられます。罪深いあなたを!あなたはキリストに招かれている。
ところが、もしかしたら私たちには、キリストに招かれるということが本当にはよく分かっていないのかも知れません。キリストは私たちを罪人だからという理由で招いてくださいました。他の理由はないのです。医者を必要とするのは病人だから、魂の医者であるキリストが罪という病気に冒されている私たちを招いてくださいました。医者が患者のところに行くのは、そうしないと患者が死んでしまうからです。相手が健康だからとか、まだまだ大丈夫そうだからという理由で医者はやって来ません。医者が来ないともっと病気がひどくなってしまうから、来てくれる。
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」そうやってキリストは私たちのところへ来て、私たちを招き、私たちを喜んでくださいました。主イエス・キリストは罪深い私たちの医者、救い主です。
「善であられる主が、神を求めることに心を定めたすべての人々に、憐れみ深くあろうとしてくださるように。」もしかしたら、このすばらしい御言葉は、旧約聖書のある限界の中にある言葉なのかも知れません。キリストは私たちがご自身を求める前に私たちのところへ来てくださいました。「罪人」というのは、全く神に背き、神を求めることも愛することもしない人、という意味です。罪人である私を憐れみ、罪の病の医者として来てくださったキリスト。このお方の憐れみによって初めて私は救われ、そのことに気づいて初めて、神を求める心が芽生えました。キリストが来てくださったから、私は神を求めだしたのです。
この主イエス・キリストは、今日も私たちのところへ来てくださっています。私たちを招いてくださっています。罪深い私を。

2023年5月1日月曜日

2023年5月1日の聖句

そのしるしはいかに偉大であり、その奇跡はいかに力強いことか。その王国は永遠の王国、その支配は代々に及ぶ。(ダニエル3:33)
私たちは揺るがされない御国を受けているのですから、感謝して、神に仕えていきましょう。(ヘブライ12:28)

主イエス・キリストは「時は満ち、神の国は近づいた」と言って宣教なさいました。キリストが宣言した福音は、神の国の福音です。神の国が私たちのところへ来る。
私たちは主イエスのことを「キリスト」とお呼びします。キリスト、ヘブル語では「メシア」と言う。メシアとは、油を注がれた者という意味です。旧約聖書では油を注がれ、聖別されて就く職務として、王、預言者、祭司と三つあり、主イエスはまことの王、まことの預言者、まことの祭司としてキリストと呼ばれると言われます。それは確かにその通りなのですが、新約聖書が書かれた時代には、メシア・キリストの第一の意味は、何よりも「王」だったようです。主イエスはまことの王。一体どこの王なのか?神の国です。主イエスは神の国の王として、キリストと呼ばれる。
「そのしるしはいかに偉大であり、その奇跡はいかに力強いことか。その王国は永遠の王国、その支配は代々に及ぶ。」旧約以来、まことの神の支配が打ち立てられ、神の国がやってくると、神の民は信じてきました。例え自分たちの国がどんなにめちゃくちゃになり、自分たちの国がデタラメになったとしても、神はご自身の支配する力をもって私たちの王として私たちのところへ来てくださる。その約束されたまことの王、キリスト、それが主イエスなのです。
主イエスが私たちのところに来られ、十字架にかけられ、復活し、神のお立てになった王キリストであることがはっきりと示されました。主イエスが宣言した神の国は、このお方においてもう既に来ている。私たちは王であるキリストの支配する神の国にもう生き始めている。神の国の国民なのだ。ですから、聖書は私たちに訴えかけます。「私たちは揺るがされない御国を受けているのですから、感謝して、神に仕えていきましょう。」神の国の国民として、その民らしく生きよう、と言うのです。キリストが私たちのためにご自分の内臓を痛めて憐れみ、私たちを愛してくださった。私たちはこのお方の憐れみの内に生きる。このお方の憐れみを生きる。主が、私の内に働いてくださることを信じて。
今日、私たちの新しい一日は、主イエス・キリストの御国に生きる尊い一日です。祝福がありますように。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...