2021年1月31日日曜日

2021年1月31日(詩編36)

詩編36
主よ、あなたの慈しみは天にあり
あなたのまことは雲にまで及びます。(6節)

本当に美しい詩編です。こういう詩編に触れられることは本当に幸いなことだと思います。「主よ、あなたの慈しみは天にあり」ます、と祈る。私たちは天を仰ぎます。天を仰いで祈ります。天にまします我らの父よ、と。神の慈しみを仰ぎ見るために。私たちが「父よ」とお呼びすることを神が喜んでくださると信じて。
しかし、私たちの目の前にある地は、それとは異なる様相を呈しています。「背きの罪が悪しき者にささやくのが、私の心に聞こえてくる。」それが世界の現実です。神に背き、神を蔑ろにしている。神さまは私たちに慈しみを示し、弱い私たちを救ってくださいました。だから、私たちが慈しみに生き、孤児や寡婦の権利を重んじ、弱い者の叫びを聞くことを神さまは望んでおられる。ところが、この世界はそうなってはいません。社会システムは強い者に有利に作られているし、私たち個々人は社会システムのせいにして自分が果たすべき弱者への義務を認めようとしない。背きの罪が悪しき者にささやいている。その声に聞き従っているのが、私たちの世界の現実です。
しかし、それでも、神の慈しみが変わってしまうことはありません。この世界がどんなにデタラメであっても、悪が大手を振るっていても、神の慈しみがかき消されてしまうかのような世界であっても。神の正義、その公正は、私たちを救おうと熱意を燃やしています。「主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。」そう。私たち人間も、人間が収奪した自然世界も動物たちも、神は救ってくださいます。神さまの慈しみによって。「神よ、あなたの慈しみはなんと貴いことでしょう。人の子らはあなたの翼の陰に逃れます。」私たちは神さまの御許、その御翼の陰に身を寄せて、救いを待ち望むのです。

命の泉はあなたのもとにあり
あなたの光によって、私たちは光を見ます。(10節)

私たちは神さまの御許で命の泉からの見、神さまの光に照らされています。神さまを仰ぎ、その慈しみの中で、私たちの一週間が今始まります。

2021年1月30日土曜日

2021年1月30日(詩編35)

詩編35
悪意のある証人が立ち上がり
身に覚えのないことばかりを問い詰める。
彼らは私の善に悪をもって報い
私の魂を不毛なものにした。
彼らが病のとき
私は粗布をまとって断食し、自らを苦しめ
胸の内に祈りを繰り返した。(11から13節)
ところが、私がよろめいたとき
彼らは喜んで押し寄せた。(15節)

この詩編は、主イエスの歩みをそのまま映し出すような詩編であると思います。主は悪意ある証人に囲まれました。彼らはデタラメを並べ立ててイエスを告発しました。イエスは病む者と共に生き、彼らのところへ行って癒やし、友なき者の友となりました。しかし必ずしも歓迎されたわけではなく、善に対して悪で報いられたことがしばしばです。主イエスが弱り、よろめき、打たれて苦しんだとき、人々はイエスを見てはやし立て、侮辱しました。十字架の上におられるイエスは人々の嘲笑の的になりました。
それらはすべて、私たちがしたことです。私たちがイエスを嘘で追い詰め、恩を仇で返し、苦しむイエスをあざ笑いました。この詩編を読んで、私は最初は、こういう目に遭ったら本当に辛いなと思いました。自分が体験した厭なことも少し考えました。ところが、ここにおられるイエスのお姿に気づいたとき、それまでとは違う意味で怖くなりました。自分がイエスの前にいてしたこと、イエスに対してしたこと、他の人にしてきたことを思い出すと、怖いと思います。
この詩編は18節に「私は大いなる集会であなたに感謝を献げ、強力な民の中で、あなたを賛美します」と言っています。私たちは、この言葉をキリスト復活の賛美として聞くことが許されていると思います。私たちが侮辱して殺したイエスは復活し、神さまの救いを確かなものとして打ち立ててくださいました。私たちは復活したキリストを賛美し、私たち自身の苦しみの日には救いを求めてキリストに祈ります。「私の魂に言ってください『あなたの救いは私だ』と」。

2021年1月29日金曜日

2021年1月29日(詩編34)

主を仰ぎ見る人は輝き
辱めに顔を伏せることはない。
苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き
あらゆる苦難から救ってくださった。(6から7節)

主を仰ぎ見る人は輝いている!これは、私たちのための言葉です。私たちも輝いている。主を仰ぎ見ているからです。辱めを受けていても、苦しんでいても、苦難の中にいても、そこから主を仰ぎ見るなら、私たちは輝いています。
かつて、出エジプトのときのことです。モーセがシナイ山で神さまから十戒を頂いて山から下りたとき、モーセの顔の肌が光を帯びていたことがありました。(出エジプト記34:29~35)神さまの栄光を映すような輝きに人々は彼に近づくことを恐れました。主を仰ぐ者はモーセと同じように輝きます。神さまの栄光を映す輝きを帯びる。辱めは、別の言葉で言えば「顔に泥を塗られる」ということですが、どんな泥を塗られても神を仰ぐ者の輝きを覆い尽くしてしまうことはできません。神さまの栄光の光が輝いているからです。
実際にそういう信仰に生きたキリスト者は無数にいると思います。私の母教会にいたある男性は、以前事故に遭って障害を負い、いろいろと不自由な生活を送っておられました。学生の頃、私は日曜日の夕ご飯は牧師館で頂いていましたが、その席で毎週お目にかかっていました。とても優しい方で、私のような青年たちから慕われていました。神さまの輝きを映し出しておられました。もう何年も前に亡くなりましたが、忘れ得ぬキリスト者です。

味わい、見よ、主の恵み深さを。
幸いな者、主に逃れる人は。(9節)

この言葉は、聖餐のたびに思い出す言葉です。主の恵み深さを、私たちは聖餐で実際に味わう。私が高座教会で出会ったあの人、神さまのご栄光の輝きを映し出していたあの人も、やはり聖餐で味わう主の恵み深さに生かされていたのだと思います。そして、この輝きは私たち自身の輝きでもあるのです。神さまが私たちの内に生きて、その輝きを私たちに映し出してくださっているからです。

2021年1月28日木曜日

2021年1月28日(詩編33)

詩編33
王は軍勢の大きさによって救われるのではない。
勇者は力の大きさによって助けだされるのではない。
馬は勝利に頼みとはならない。
力の大きさでは人を救い出せない。
見よ、主の目は主を畏れる人に
主の慈しみを待ち望む人に向けられる。(16~18節)

王の仕事は戦争に出て行って勝つことです。もちろん現代社会ではそのようなことをしたら大変な国際的な非難を浴びますが、古代世界の王の仕事は、強い戦車を持つ軍隊を率いて国を守り、あるいは領土を広げたり資源を獲得したりすることでした。勇者は、力を振るって戦争で活躍することが仕事です。
聖書はつくづく、常識外れのことを言うものだと思います。王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって救われるのではない。それでは、殆ど、王であることや勇者であることをやめるのにも等しいと思います。
聖書は私たちに新しい世界を見せます。私たちの常識の外にある世界です。そこでは、私たちがごく素朴に「力」だと思っているもを無意味だと言います。私たちが常識的に頼りになるものに頼るな、と言います。馬や力の大きさは、私たちが常識的に言って頼りになると思っているものの象徴です。
主を畏れ、主を待ち望め。詩編はそのように訴えかけます。私たちを救う力を持つのは、神さまであって軍勢の馬でも勇士の力でもない。もちろん、お金でも社会的地位でもない。神さまこそが、私たちを救ってくださるお方です。
「まず、神の国と神の義とを求めなさい。」主イエス・キリストはそのように言われました。神の国と神の義。それらが私たちを救うからです。私たちは何に価値があると思って生きているのでしょうか。私たちは何が私の命を保つと信じているのでしょうか。今日、私たちが生きるために必要な糧を与えるのは、この世で常識的に必要とされる力なのでしょうか。それとも、キリストなのでしょうか。

2021年1月27日水曜日

2021年1月27日(詩編32)

詩編32
幸いな者
背きの罪を赦され、罪を覆われた人。
幸いな者
主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。(1~2節)

私にとってとても印象的だったのは、この詩編の冒頭の言葉が「背きの罪を赦され」と言っていることです。これまで罪を犯したことがない人、神にも人にも責められるべきところがない人、そのような人は幸いだと言っているのではありませんでした。幸いな人、それは、背きの罪を赦された人、罪を覆われた人。神さまにそのように扱って頂いた人、その人は幸いだ、と言います。
この世界のどこを捜しても、過ちもなく咎もない人などいません。欺いたことがない人など一人もいません。しかも「一般的に言って人間は罪を犯すものだ」ということでは済みません。この私が、他の人には見えないところで、あるいは心の中で、それとも人目もはばからずに、一体どんなに恥知らずなのか。神さまはそのことを私以上にご存じです。だからこそ、背きの罪を赦され、罪を覆われた人、その人は幸いです。

私が沈黙していたときは
一日中、骨も朽ち果てました。
昼も夜も御手は私の上に重く
夏の暑さに気力も衰え果てました。(3から4節)

私たちの今の季節で考えるなら、冬の寒さに心が固まっていますと言うことが許されるのかもしれません。骨も朽ち果て、重い肉体と心で気力も失い、呻いている。神さまの御手が重い。それは神さまに顔向けできない自分だからです。神さまが豊かに赦してくださることを信頼できないからです。しかし、赦しは神のもとにあります。豊かな恵みは主のもとにあります。

私はあなたに罪を告げ
過ちを隠しませんでした。
私は言いました。
「私の背きを主に告白しよう」と。
するとあなたは罪の過ちを
  赦してくださいました。(5節)

神さまは、今日、私たちの祈りを待っていてくださいます。耳を傾けて、豊かな赦しを準備して、私たちを待っていてくださいます。失われた息子を待つ父のように。

2021年1月26日火曜日

2021年1月26日(詩編31)

詩編31
主をたたえよ。
包囲された町で
  主は私に慈しみの奇しき業を行われた。
私はうろたえて言いました。
「あなたの目の前から私は絶たれた」と。
しかし、あなたに向かって私が叫ぶと
嘆き祈る私の声をあなたは聞かれた。(22~23節)

深く、厳しい苦しみの中で、神さまに向かって助けを求める祈りの言葉がこの詩編31です。「主よ、憐れんでください。私は苦しんでいます。目は憂いによって衰えました。魂もはらわたも」(10節)。悲しみは深く、嘆きのために力が尽き果ててしまいました。そういう私を見ても周りの人は助けてはくれず、却って自分を遠ざけ、逃げ、私は忘れられてしまった。そのように訴えています。
この詩編は比較的長い詩編です。嘆きの言葉が重ねられています。私がこの詩編の言葉を読んでいちばん心に残ったのが、冒頭の言葉です。「包囲された町で、主は私に慈しみの奇しき業を行われた。」神さまの慈しみに気づいたのは、包囲された町でした。困ったことが解決したから、奇跡的に助けられたから神さまを賛美しますと言っているのではありません。包囲された町で神さまの慈しみの奇しき業を知ったのです。不条理なこと、どうしても変わってくれない辛いこと。悲しみ。それらに取り囲まれている中で、神さまは私たちに慈しみを示してくださいます。
私たちはうろたえます。厭なことしか目に入らなくなってしまうこともあります。「あなたの目の前から私は絶たれた」としか言いようがないときがあります。しかし、神さまは私たちの祈りを聞いてくださっています。必ず。
「主よ、私はあなたに信頼します」とこのキリスト者は告白します。私たちも同じように告白します。「主よ、私はあなたに信頼します。」私たちの主は十字架にかけられた方です。「十字架から降りて」自分を救ってみろ」と罵られたとき、その侮辱を甘んじて受けた方です。この方は敵に囲まれる私たちの祈りを聞き、私たちのための慈しみの業に生きぬいてくださいました。
今日も、このお方の奇しき御業の内に、祝福の中で一日を歩まれますように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。

2021年1月25日月曜日

2021年1月25日(詩編29〜30)

詩編29~30
主は洪水の上に座し
主は王として、とこしえに座した。
主がその民に力を与えてくださるように。
主がその民を祝福してくださるように
  平安のうちに。(30:10~11)

川の水はかの平清盛にさえもどうにもならないと言わしめたと聞き及んだことがあります。私たち人間の力の外にある。治水工事をしたり、いろいろな対策を講じることはできても、限界があります。もちろん洪水だけではなく、雷も大雨も、山も動物も、人間の力の外にあります。現代社会は自然世界を制圧できるような傲慢な思い込みを信じ切っているようなところがありますが、私たち人間の力は決して大きなものではありません。
しかし、主なる神様は洪水の上に座す方です。私たちの手に余るこの世界のすべてを造り、支配しているのは、神さまです。そのことに対して謙虚でありたいと今日の詩編の祈りの言葉を読んで考えさせられました。
洪水や自然の驚異だけではなく、私たちには自分ではどうすることもできないことがたくさん起きます。過去と他人は変えられないと言います。その通りだと思います。だからこそ、神さまの前に身をかがめて、へりくだりたいと願います。

夕べは涙のうちに過ごしても
朝には喜びの歌がある。(30:6)

本当に美しい祈りの言葉です。涙のうちに夕を迎え、夜を過ごさなければならない時も、神さまが喜びの歌を授けてくださる朝を迎えることができます。私たちには変えられないこともたくさんありますが、しかし、私たちの手に余ることへの涙を、神さまが喜びに変えてくださるときは必ずやって来ます。私たちはそのことを信じてる。

あなたは私の嘆きを踊りに変え
私の粗布を解き、喜びの帯とされました。
それは、心の底からあなたをほめ歌い
口をつむぐことのないためです。(30:12~13)

キリストが私の嘆きを喜びに、賛美に変えてくださる。その日を待ち望みつつ、キリストを待ち望みつつ、私たちの新しい一日が始まります。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...