2021年5月31日月曜日

2021年5月31日(詩編134)

詩編134
  都に上る歌。
さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。
夜通し、主の家に立つ人たちよ
聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。

主がシオンからあなたを祝福してくださるように
天と地を造られた方が。(1から3節)

第120編から続いてきた「都に上る歌」という表題のついた詩編はこれで終わりです。今朝の詩編が最後の巡礼歌ということになっています。神さまを礼拝するために都に上り、その道々、この祈りの言葉を唱えたのでしょう。そしてエルサレムに着いたときに、仲間たちと一緒にこれを歌ったのでしょう。これは礼拝に向かう私たち自身の讃美歌です。私たちも心を合わせて、声を合わせて、この巡礼歌を歌いながら、礼拝に向かう毎日の旅路を進んで行きます。
「主がシオンからあなたを祝福してくださるように」と言います。シオン、ここではエルサレムを意味している。シオンの山を登りながら、ここから神が私たちを祝福してくださいますように、と歌うのです。私たちは天と地を造られた方の祝福を頂くために、礼拝への道を上っていくのです。
だから、私たちもこの詩編に答えて、こぞって主をたたえましょう。主を賛美し、朝に夕に、神さまを賛美しましょう。眠られない夜にも、主を賛美しましょう。仕事のため、介護のため、育児のため、心配事のため、いろいろなことで眠ることのできない夜があるでしょう。そういう時、私たちの口から出てきがちなのはつぶやきです。文句です。その言葉を賛美に変えましょう。そうしたら、必ず元気が出てきます。上を見上げることができるはずです。
主がおられる聖所に向かって、私たちの手を上げます。旧約聖書の時代には、それはエルサレムの神殿だと考えられていたのかも知れません。しかし、今私たちは知っています。キリストが言われたのです。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」キリストと出会った今、私たちはどこででも父を礼拝することができます。霊と真理をもって。キリストを礼拝し、神さまに祈る最高の幸せのために、私たちは礼拝に向かう旅路を、今進んでいるのです。

2021年5月30日日曜日

2021年5月30日(詩編133)

詩編133
兄弟が共に住むことは
何という幸せ、何という麗しさ。

頭の上に注がれたかぐわしい油のようだ。
それは、ひげに滴り落ちる。
衣の襟にまで垂れるアロンのひげに。
ヘルモンの露のようだ。
それはシオンの山々に滴り落ちる。

主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。(1~3節)

「兄弟が共に住む」ことの喜び、麗しさを言い表す詩編です。この住むという動詞は、新共同訳では「座る」と翻訳されていました。聖書のほかの用例を見ると、どちらの訳の場合もあります。新共同訳のように「座る」と理解するなら、この詩編は都に上る歌、巡礼歌ですから、礼拝を共に献げているという意味であるのかも知れません。あるいは聖書協会共同訳のように「住む」と理解するならば、共に生きるということなのでしょう。共に神を信じ、共に生き、共に喜びまた共に悲しむ。そうやって共に生きる生活を喜ぶ詩編と読むこともできます。そして、「座る」も「住む」も、互いを排除しないので、どちらの理解も可能であると思います。
兄弟が共に住む。その幸い、その麗しさを第二連目である2,3節で言い表しています。不思議な表現です。祭司のひげにしたたる香油のように麗しい、と言っています。何を言っているのか。出エジプト記29:7などを見ると、新しい祭司を任職するとき、頭に油を注いで聖別するようにと定められています。恐らくこの詩編では、その油のことを言っているのだと思います。新しく一人の兄弟が祭司として立てられた。そうやって神さまの御業が進んでいる。その麗しさ、その幸いをここで喜んでいるのでしょう。そして、神さまの御業を共に喜ぶ信仰の兄弟姉妹と共に生きる幸いを喜んでいるのでしょう。その喜びは、神が与えてくださる祝福、そしてとこしえの命の喜びです。私たちは神さまの御業に与るのです。
6月6日に、私たちは洗礼式を迎えます。新しい祭司の頭に油が注がれるように、新しい兄弟の頭に水が注がれます。そうやって進む神さまの御業を、私たちは共に喜びます。

2021年5月29日土曜日

2021年5月29日(詩編132)

詩編132
ここに、ダビデのために一つの角を生やす。
私が油を注いだ者のために一つの灯を据える。
彼の敵には恥をまとわせる。
しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。(17~18節)

この詩編は、イスラエルの人々には特別な意味を持った詩編だったのではないかと思います。やがて来たる救い主を預言する詩編として読まれていたに違いないのです。「主よ、ダビデを思い起こしてください」と始まっています。そして、「あなたの僕ダビデのために、あなたが油を注いだ人の願いを拒まないでください」と言います。そして、それに対して神が答えてくださったと言います。「主はダビデに確かな誓いを立てられた。主がそこから引き返されることはない。」
従って、この詩編は「あなたの胎の実りの中からあなたの王座に着く者を定める」と言われている新しい王、メシア、救い主を待望する祈りの言葉と理解することができます。
「ここに、ダビデのために一つの角を生やす」と言われています。この詩編だけではないようですが、この詩編のことも覚えながら語られたに違いない言葉がルカによる福音書に登場します。祭司ザカリアの預言です。「我らのために救いの角を、僕ダビデの家に起こされた」とザカリアは言った。ザカリア夫妻はとても年を取っていましたが、神さまの御業のもとに息子が与えられた。その子の名を、天使に示されたとおりに「ヨハネ」と名付けたときにザカリアの口に上った預言の言葉の一節です。この預言は、救い主がこれから生まれてくることを喜び、ヨハネがそのために道を備える者となると述べ、神の憐れみの心を賛美しています。
主イエス・キリスト。この方こそ、私たちのために神が起こしてくださった救いの角です。角というのは力の象徴なのでしょう。あるいは、祭壇の角の意味かも知れません。祭司がいけにえの雄牛の血を流すと、祭壇の角にその血を塗るのです。(レビ記4:7参照。)キリストの血が流されたことを彷彿とさせます。御自ら血を流す救い主が、ダビデの家に生まれる。この方こそ、私たちのための救いの灯です。「その灯の上には王冠が花開くであろう」と言います。キリストの頭に花開いた王冠は、茨の冠でした。私たちのために血を流し、茨を王冠として戴く方。この方が私たちのただ一人の救い主です。

2021年5月28日金曜日

2021年5月28日(詩編131)

詩編131
主よ、私の心は驕っていません。
私の目は高ぶっていません。
私の及ばない大いなること
奇しき業に関わることはしません。
私は魂をなだめ、静めました
  母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。
私の魂は母親の傍らの乳離れした幼子のようです。(1~2節)

母親の傍らにいる乳離れした幼子。もちろん子どもによってそれぞれ違うと思いますが、私がよく知っている乳離れしたばかりの幼子は、母親にべったりです。もちろん元気に、自由に遊び回ります。自分から離れる分にはいろいろな冒険を試みますが、いつの間にか母親が離れることは決して許しません。自分の基地である母親がそこにいて、自分を見てくれていることで安心して遊んでいるようです。母親のまなざしや温かい手が幼子を守っているし、幼子自身そのことを知っています。
まるでそういう幼子であるかのように、私はあなたの傍らにいます。この詩編は神さまにそのように言います。そして、「私は魂をなだめ、静めました」と言っています。波立ち、不安だったのでしょう。粟立つような思いでいたのかも知れません。しかし、どんなときにも幼子が母の側で安心するように、私はあなたの傍らで平安を得ますと言うのです。
そうやって主なる神様のそば近くにいるとき、心が驕ることはありません。その目が高ぶることはないのです。「奇しき業に関わることはしません」と言っています。「奇しき業」は神さまの領分です。奇しき業、奇跡のようなことによって自分の願いを叶えてほしい、自分に得になるようにしてほしいと私たちは願います。しかし、そこは神さまの領域として、私は私の分をわきまえる。それもまた神さまの御前での幼子としての振る舞いです。私たちは神さまの子どもとして、母の側にいるようにして、神さまの目に、その手に、今日も守られています。

2021年5月27日木曜日

2021年5月27日(詩編130)

詩編130
主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。
わが主よ、私の声を聞いてください。
嘆き祈る声に耳を傾けてください。(1~2節)

私はこの詩編が好きです。この詩編は、深い淵の底からの祈りです。7節を見ると、明るい言葉が語られています。

イスラエルよ、主を待ち望め。
主のもとに慈しみがあり
そのもとに豊かな贖いがある。

主なる神様への確かな信頼と、主の慈しみへの確信に溢れた言葉です。一見するとこの詩編の冒頭の「深い淵の底」にそぐわないように感じます。私は最初、最初は1節が言っているとおりに深い淵の底におり、ある時間が経過して神さまの救いを経験し、淵の底から脱出し、最後に至って「主のもとに慈しみがあり」と言って神を賛美するに至ったのではないか、と思いました。
しかし、今ではそれは違うのではないかと考えています。この詩編は、最初から最後に至るまで、深い淵の底にいる者の祈りなのではないでしょうか。深い淵の底にいるときだって、私たちは神を信頼し、その慈しみを確信して、賛美することができるのです。「イスラエルよ、主を待ち望め」と。この賛美は、「わが主よ、私の声を聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください」という祈りと矛盾しません。
深い淵の底で、私たちは嘆きます。神さまを呼び求めます。そして、主を待ち望みます。

私は主を望みます。
私の魂は望みます。
主お言葉を待ち望みます。
私の魂はわが主を待ち望みます
夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにもまして。(5~6節)

主なる神様、この方こそ私たちを救ってくださる方。だから、私たちは深い淵のそこにいて主を待ち望み、主に向かって祈り、叫び、そして主を賛美します。必ずこの方が救ってくださる。必ずこの方が慈しみを与えてくださる。必ずこの方が私を贖ってくださる。そのことを信じ、私たちは主を待ち望むのです。

2021年5月26日水曜日

2021年5月26日(詩編129)

詩編129
「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。
しかし、私に勝つことができなかった。
悪しき者らは私の背に鋤を当て
長い畝を作った。」
主は正しい。
悪しき者らの縄を断ち切ってくださった。(2~4節)

自分を苦しめる人を前にしたとき、この詩編は大きな慰めになります。「彼らは私を大いに苦しめた。しかし、私に勝つことができなかった。」私が強くなり彼らにも勝てるようになったからとか気にしないでいることができるようになったからとか、そのようなことは言っていません。彼らが畑を耕すように私を痛めつけたとしても、主は彼らが私を縛る縄を断ち切ってくださる。私を自由にしてくださる主の正義が私を守ってくださる。それが、この詩編が表明する信仰です。
私は、ちょっとでも自分が苦しめられたり、意にそぐわないことを言われたり、厭な思いをしたりしたら、倍にして返したくなります。言葉で、態度で、相手にも厭な思いをさせてやりたくなるし、実際にそうしてしまいます。もちろん、そんなことは間違っています。間違っていると分かっているのに、どうしても気が済まない。そんな自分に気付くと惨めな気持ちになります。
私は、この詩編の中心は「主は正しい」というこの一句であると思います。原文でも、たった二つの単語で言い表されています。「主は正しい。」それ以外には私たちの言うべきことは何もありません。私は本当に小さな人間。しかし相手もそうです。小さな者同士、もうどうしようもありません。しかし、主は正しい。それだけは確かです。
この詩編は主の正しさにかけています。ただし、正しい主に怒られないように良い子の振りをする、ということもしません。かなり激しい言葉で相手を罵っています。ただ、相手にぶつけるのではなく、主なる神さまにそれを訴えている。これが信仰者の怒り方。そのことを教えられます。

2021年5月25日火曜日

2021年5月25日(詩編128)

詩編128
幸いな者
主を畏れ、その道を歩む人は皆。
あなたの手が苦労して得た実は
  必ずあなたが食べる。
あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。(1~2節)

とても正直なことを言うと、私は今朝の詩編を読んで戸惑ってしまいました。主を畏れ、その道を歩んだとしても、自分の手が苦労して得た実を食べることができるとは限らない現実がこの世に溢れているからです。3節を見ると妻や子どもたちといった家族の祝福にも言及されています。しかし家庭の中でしあわせを味わうことができるとは限らないし、妻や子どもとうまくいかなくなってしまったとき、それは神さまに逆らったからだと単純に言うことはできません。
神さまに従っても、不条理な目に遭うことはあります。あるいは逆に神に逆らう人のほうが幸せにやっているように見えてしまうことも往々にしてあります。そう考えると、今日の詩編に戸惑ってしまいます。
ただ、この詩編の言葉をわが祈りとして口ずさみつつ都に上っていったたくさんの旧約の民も、そんな不条理はよく知っていたと思います。「神さま、どうしてですか」と、私たちと同じような祈りを重ねながら信仰生活を送っていたに違いないのです。不幸を味わいながら、それでも神を信じ、神に従った。そして、主を畏れ、その道を歩むことこそが私の幸せだと信じて生きたのです。
私たちはどんなに神さまを信じ、真摯に生きたとしても、願っている幸いを得ることはできないかも知れません。却って不条理な目に遭うかも知れません。しかしそれでも、神さまを信じ、主を畏れ、その道を歩むことが私たちの最高の幸せであると私は信じています。なぜなら、それこそがキリストの歩まれた道だからです。キリストは、報いがなくとも神を信じ、誰からも顧みられなくても隣人を愛し抜かれました。キリストと共に生きる者は、この世で報いを受けなくても、来る世で神が必ず報いてくださるに違いありません。
「イスラエルの上に平和があるように」とこの詩編は結ばれています。イスラエル。神の民。新約の民である私たちも、キリストにあってその一員です。私たちの平和はキリストにある。キリストを見上げ、キリストの御足の跡に自分の足を重ねて歩む一日を、祈り求めていきたいと願います。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...