2022年11月30日水曜日

2022年11月30日の聖句

この方は疲れた者へ力を与え、
強さを貧しい者へ与えられる。(イザヤ40:29)
イエスは言う:私が命のパンです。私のところへ来る者は飢えません。また信じる者は、もはや決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

今日、私たちは招かれています。イエス・キリストによって。キリストご自身の御許へ。この方は私たちのための命のパンです。私たちが飢えていてもこの方から食べ、渇いていてもこの方から飲めば、私たちは救われる。そう宣言しながら、キリストは私たちを招いてくださっています。
私たちは必ずしも、毎朝、喜びをもって目覚められるわけではありません。朝起きた瞬間から心が曇っていることもあるでしょう。それどころか、思い患いのせいで夜眠れないことだって珍しくないかも知れません。今朝はどうでしたでしょうか。
キリストは、それぞれの思いで朝を迎えた私たちを、今日新しく招いておられます。「私が命のパンです。私のところへ来る者は飢えません。また信じる者は、もはや決して渇くことがありません。」このお方はご自身を命のパンとして差し出してくださいます。ご自分を私たちに分け与えてくださいます。コロナになってすっかりできなくなってしまいましたが、以前、私たちの教会では聖餐のときに一枚のパンを分け合っていました。最初は丸いパンを牧師が裂き、長老が礼拝者のところへ届けます。礼拝者はそれを小さくちぎって分け合います。全員が受け取ってパンが戻ってくると、ボロボロに小さくなって帰って来ます。私はそれが好きです。キリストは私たちにご自分を裂いて渡してくださいました。私たちのためにご自分の体をちぎって、ご自分の命そのものを与えてくださいました。キリストが分けてくださる命のパンによって、私たちは生きています。
この方は疲れた者に力を与えてくださる方です。この方は貧しい者に強さを与えてくださる方です。主イエス・キリストの下さる命によって、私たちは今日というこの新しい一日を生きていきます。

2022年11月29日火曜日

2022年11月29日の聖句

若者たちは疲れ果て男たちは躓いて倒れる、
しかし主を待ち望む者は、新たな力を得て鷲のように翼を拡げて舞い上がる、
彼らは走っても弱らない。(イザヤ40:30~31)
ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(2テモテ2:1)

どんなに若くて力強くても、勇士のように勇ましくても、力が尽きてしまったり気力が萎え果ててしまうことがあるでしょう。誰にでもあります。もう何もすることができなくなってしまったり、立つこともできなくなってしまったりすることが。
若いときには、自分には人生経験が足りないからできないとか、周りの人に若造扱いされて認めてもらえないからできないとか、考えがちです。しかし年を取れば、自分はもう若くないから体力も気力も保たないと思いがちです。人間として私たちの目につくものは、私たちの最後の力を奮い立たせる理由にならない。本当に辛い状況に追い込まれたとき、若いからとか経験を積んだからとか、男だからとか女だからとか、体力があるからとか知力があるからとか、そういうことは最後の最後で支えにならなくなってしまうのではないでしょうか。
「しかし主を待ち望む者は、新たな力を得て鷲のように翼を拡げて舞い上がる、彼らは走っても弱らない。」聖書はそのように言います。主を待ち望む者。それがすべてです。それだけが、どんなときにも変わることがなく、どんなにときにも支えであり続ける事実です。私たちがどのような者かということに関わりなく、私たちが強いか弱いか、年をとったか若いかに関わらず、どんなに望みがなかったとしても力を与える泉です。主を待ち望む者、主イエス・キリストを望みとする者。その人には、どのようなときにも、最後の最後にいたるまで支えとなるよすががある。
「ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」キリストの恵みがあなたを強める。どのようなときにも変わることのない恵みがあなたを支える。使徒パウロはそのように宣言します。主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もあなたにありますように。

2022年11月28日月曜日

2022年11月28日の聖句

エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。終日終夜、彼らは一時も黙っていてはならない。(イザヤ62:6)
より確かに私たちは預言を持っています。だから夜が明けて明けの明星があなたがたの心に昇ってくるまで、その預言を、闇に輝く光として注意を払う方がいいのです。(2ペトロ1:19)

今日の新約聖書には「預言」という言葉が出てきます。少し唐突な感じを受けるかも知れませんが、聖書を開いて前後を読んでみると、主イエスが洗礼を受けたときに天から響いた声である「これは私の愛する子、私の心に適う者」という言葉を意味しているようです。つまり、主イエス・キリストを証しする聖書の言葉のことを言っている。主イエス・キリスト。この方こそ神の子、救い主。この事実が、そしてこの事実を証しする聖書の預言の言葉が、闇の中に輝く光だと言うのです。
夜が明けて、輝く明けの明星が私たちを照らす。私たちはキリストという光に照らされている。私たちはもはや暗闇の中にいるのではなく、キリストの光に包まれている。それが聖書の見ている現実です。
「私はあなたの城壁の上に見張り番を置いた」と書かれています。昼も夜も見張り番はそこに立ち、敵が攻めてくれば仲間たちにそのことを知らせます。しかし、このイザヤ書第62章に登場する見張り番は、敵を待ち構えているのではありません。救いを待ち望んでいる見張りです。主が来てくださることを待っている。花嫁が花婿を待ちわびるように、救い主キリストが来てくださることを待ち続ける見張りです。昼も夜も待ち続ける。黙ることはできません。救いの良き知らせを証しし続ける。キリストの光が既に照っている。私たちは輝く明けの明星、キリストの光に照らされている。闇が深まり、もう朝の光が射している。この福音を語り続けます。
礼拝は、この福音に私たちが触れる何よりのときです。私たちは朝の光であるキリストの光に包まれている。真夜中であっても、キリストの光が私たちを照らししている。この現実を、どうかご覧になってください!今自分は闇に包まれていると誤解しないでください。どこを探しても希望がないと思い込まないでください。もうすでに明けの明星が輝いているのです。キリストが私たちの闇の中に来てくださったのです。だから、もう大丈夫。救いは来たのです。

2022年11月27日日曜日

2022年11月27日の聖句

あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、
あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。(申命記4:23)
キリストは見えない神の似姿であり、すべての被造物の長子です。(コロサイ1:15)

「見えない神の似姿」というのは、とても興味深い言葉です。「見えない」のに「似姿」と言うのです。見えないのにどうして似ていると分かるのか、と言ったら屁理屈でしょうか。キリストが見えない神の似姿でいらっしゃるとは、いかなることなのか。
そもそも、神が見えないお方でいらっしゃるとは何を意味しているのでしょう。旧約聖書では、繰り返し刻んだ像を造ってこれを拝むなということを厳しく命じています。今日の聖句でも「あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい」、そのことによく注意しなさいと言っています。見えないはずの神を像を刻んでこしらえるというのは、神様に対するイメージの押しつけです。我が家では、毎晩寝る前に子ども聖書を読んで祈りをしています。今ちょうど、イスラエルの人たちがモーセと共にエジプトを脱出し、シナイ山に行ったところを読んでいます。モーセは山に登って十戒をいただきました。ところがその間、民はモーセを待つことができず、金の子牛の像を造ってこれを礼拝し始めていました。金の子牛は、自分たちの不安の埋め合わせです。あるいは、不便な荒れ野暮らしの便利さを整える象徴です。つまり、安心で便利な生活を求める民の願望の押しつけです。ところがまことの神様は、全く自由なお方です。私たちが神様のお姿やお顔を決めつけて押しつけることは許されません。まったくできないこと、してはならないことです。
しかし、私たちは神様を知ることができます。いかなるお方なのか。どのように私たちのことをお考えなのか。それは、イエス・キリストを通して知らされました。神は、私たちにイエスというご自分の独り子をお与えになるほどに私たちを愛してくださいました。神は、イエスというお方によって、私たちを罪の中に捨て置かずに福音を届けてくださいました。イエス・キリストが神の愛を明らかにしてくださいました。私たちのための神様の情熱を示してくださいました。キリストは私たちに、神を慈しみに満ちた父として紹介してくださいました。この神のお姿は私たちの願望の押しつけではなく、神ご自身がお遣わしになったキリストが見せてくださったものです。
キリストは見えない神の似姿です。この方を見つめれば、私たちにも神様がいかなるお方なのかが分かる。そして、キリストを私たちに見せ証言するために、聖書が私たちのところへ届けられたのです。

2022年11月26日土曜日

2022年11月26日の聖句

主の前を私は歩む。生ける者の地で。(詩編116:9)
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。(ルカ20:38)

詩編第139編に、このような言葉があります。
「天に登ろうとも、あなたはそこにおられ
陰府に身を横たえようともあなたはそこにおられます。」
「闇はあなたには闇とならず
夜も昼のように光り輝く
闇も光の変わるところがない。」
それは、光も闇も、神様に造られたものだからです。天も陰府も、神様の御手の内にあります。神様がおられない場所はない。私たちの生きることも死ぬことも、すべて神様の御手の内にあります。
だから、主イエスさまは宣言なさいます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と。私たちの生も死も、すべて神様の御手の内にあるからです。私たちにとっては死は滅びです。しかし、神様は私たちが陰府に降ってもそこにおられ、私たちが闇に沈んでも、その闇の中にもおられます。神様に比べれば、私たちが闇だと思っているものもなお明るい。生も死も、光も闇も、神様の御手の中にあるから。
私たちは神様を呼びます。神様は私たちを生きる者としてくださいます。私たちの死を超えて、私たちは神様にあって生きる。生きる者として神様を呼ぶ。その私たちに、神様は必ず御顔を向けてくださいます。
「主の前を私は歩む。生ける者の地で。」この「主の前を歩む」というのが最も大事なことです。主の御前で、私たちは生きる者になる。私たちは主の御前に生かされています。私たちが死の床に就き陰府に赴くときにもなお、キリストは私たちと共にいて命をくださる。キリストが私たちを起こしてくださいます。

2022年11月25日金曜日

2022年11月25日の聖句

主は太陽を昼に与えて光とし、月と星を夜に与えて光とする。この方は海を動かして波は荒れ狂う。(エレミヤ31:35)
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちはいたるからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。(1コリント8:6)

キリストが私たちにご自分の父として紹介してくださった神は、唯一の神だと聖書は訴えかけます。「この神からすべてのものは発し、この神に私たちはいたる」と言っています。これは、考えてみると、驚くべき言葉ではないでしょうか。
聖書は、世界が偶然できたとは言いません。たまたま始まったとも言いません。すべては神様から始まった。そうであるならば、この世界には意味があるはずです。そして、神様から「すべてのもの」が発した、と言っています。古代世界には、たくさんの創造神話のようなものがありました。日本には、日本書紀の天地開闢物語が伝えられている。これは典型的な「神話」の例です。例えば、天の橋に立って矛で混沌をかき混ぜて日本列島を造ったとされるイザナギとイザナミは、神武天皇の七代先祖とされているそうです。神々が作った国に、神の子孫たる王がいる。つまり、天地開闢物語は支配者の権威付けのための物語です。ところが、聖書は天地のすべてを神がお造りになったと言います。その上、神様と王は、変な言い方ですが、他人です。神の存在は王の権威付けとしては機能しない。聖書はそれを断固拒否します。むしろ王の罪を、そして王を含めたあらゆる人間の罪を赤裸々に暴露します。しかもその上で、すべてのものは神から発し、神にいたると言う。神がすべてをお造りになり、やがて罪から救って完成へと至らしめる。壮大な救いの物語に、すべての人や世界が招かれている。
私たちには、唯一の主なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの神であり、私たちの救いです。すべての人の救いです。すべての人を愛する神の愛そのものでいらっしゃいます。太陽も月も、神に光を与えられました。太陽や月は、古代社会では神々と信じられ、崇められていました。しかし本当のところ、それも神に与えられた光です。キリストが父とお呼びになったお方こそが唯一の神。この方こそ、私たちがどんなに深い罪の暗闇に沈んでいても光を照らしてくださる救いの神、絶対的な愛の神でいらっしゃるのです。
キリストに、賛美。

2022年11月24日木曜日

2022年11月24日の聖句

主はこう言われる:私は恵みのときにあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。(イザヤ49:8)
見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21)

キリストが私たちに示してくださった救いは、神の国が来る、という救いです。「時は満ち、神の国は近づいた」というのは主イエスの宣教の第一声です。神の国は近づいた。救いは来た。キリストはそのようにして福音を宣言なさいました。
もう、神の国は来ている。主イエスは神様の起こす救いの現実、私たちの目にはまだ見えていない救いの現実を見せてくださいます。そうすると、私たちはまだそれを見ていないので、現実的ではないなと思います。聖書はそう言っているかも知れないけれど、私の生活に何の意味があるのと、つい思い込んでしまいます。神の国はどこに来ているのか。あそこか、ここか・・・?一体どこを見たら、神様の救いが分かるのか。納得できるのか。
しかし、主イエスは、神の国は「あそこにある」とか「ここにある」と言って探し回る必要はないと言われます。「見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
神の国はあなたの心の中にあります、とは主イエスはおっしゃいませんでした。あなたの周りにあるともおっしゃいませんでした。「あなた方のただ中に」、です。独りぼっちの私ではなく、共に生きる神の民、教会に神の国がもう来ている、と言われるのです。
私たち教会の営みは、キリストを礼拝し、キリストの言葉を聞き、キリストのお体であるパンとキリストの血である杯に共にあずかります。独りぼっちでそれをするのではなく、キリストが造ってくださる共同体の中で、私たちは福音を味わいます。キリストに共にあずかるとき、私たちは神の国を味わっています。私たちは救いの前味を既に味わっているのです。
「私は恵みのときにあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。」神の下さる恵みの日、私たちはキリストを賛美します。神の起こしてくださる救いの日、私たちは神の助けを喜びます。神様の御前にある私たちを、キリストは決してお忘れになることがありません。私たちは主キリストを共に喜ぶことによって、一つになるのです。何とすばらしい出来事でしょうか!

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...