2023年1月31日火曜日

2023年1月31日の聖句

神よ、あなたは変わることはなく、あなたの年は終わりがありません。(詩編102:28)
恵みがあなたがたと共にあるように。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から平和があるように。(黙示録1:4)

神さまは変わることのないお方。何という慰め、何という喜びでしょう!私たちは移ろいやすく、不確かです。決心はすぐに揺らぎ、志は挫折しやすい。私は信仰が弱く、私の希望はもろく、私の愛はむなしい。ところが神さまはそうではありません。神さまは変わることのないお方。どのようなときにも、どのような場合であっても、神さまの御心が移ろってしまうことはないのです。
その事実を使徒パウロはこのように言いました。「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである。(テモテ二2:13)」私たちは主イエス・キリストの真実によりかかっていいし、そうすべきなのです。どのようなときにも変わることのないキリストの真実が私たちの救いです。
ですから神が変わることのない方というのは、昔の頭のいい人が考え出した理屈ではありません。論理的な命題の類いではないのです。「恵みがあなたがたと共にあるように。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から平和があるように。」神が今も、かつてもおられ、またやがて来られること、それは神がいついかなる時にも恵みに満ちた方であるという事実と不可分です。神は変わることのないお方。それは変わることのない真実をもって私を愛してくださっているという事実と別々のことではありません。神は変わることのない方。それは、神の恵みと慈しみの経験、キリストの真実を経験する私たちの信仰経験と一つなのです。
神さまは、永遠に変わることのない真実をもって、今日も私たちを愛してくださっています。神さまは、今日もご自分の真実を貫いて私たちに恵み深くいてくださっています。主イエス・キリストの真実が今日も変わることなく私たちを生かしてくださっています。

2023年1月30日月曜日

2023年1月30日の聖句

主、私たちの神は
私たちが進んだすべての道で、
私たちを守ってくださった。(ヨシュア24:17)
見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

マタイによる福音書は、とても長い系図から始まります。そして、ヨセフのもとに天使が来て、産まれてくる子は「インマヌエル」と呼ばれると告げます。インマヌエル、神は私たちと共におられるという意味です。思えば系図はただ人間の歴史であるだけではなく、私たち人間の歴史を負って共にいてくださる神さまの歴史です。神さまは、私たち人間の歴史を通じてずっと共に居続けてくださいました。ヨセフと、マリアと、そして私たちすべての者と神は共にいてくださる。
そのことを冒頭で伝えるマタイによる福音書の最後、終わりのところで何を伝えているのかといえば、「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という主イエスさまの宣言です。マタイによる福音書はインマヌエルから始まって、世の終わりまで私が共にいるという主イエスの宣言で終わっている。共にいてくださるキリストの約束が全体を覆っています。
キリストはどのようなときにも私たちと共にいてくださいます。いつでも、どのようなときにも。こんなに嬉しいことはありません。「主、私たちの神は私たちが進んだすべての道で、私たちを守ってくださった。」私たちと共にいてくださる神は、どのようなときにも私たちを守っていてくださいます。
昨日礼拝を捧げ、新しい一週間が始まりました。体調を崩しているという連絡が何件か入っています。自身や家族に困難を抱えながら出発していった人もいます。そういう私たちが出ていく場所は、神さまが私たちを遣わされた場所です。そこに行くために、神さまは私たちを独りぼっちにはなさいません。必ず神さまご自身が共にいてくださいます。キリストと共に、キリストの守りを信じて、私たちは生きていきます。この一週間も、主にあって新しく。

2023年1月29日の聖句

今週の聖句:あなたを超えて主は昇り、その栄光はあなたの上に現れる。(イザヤ60:2b)

今日の聖句:
主、万軍の神、再び私たちを慰めてください。あなたの御顔を輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。(詩編80:20)
私たちの神は愛と慈しみにあふれ、この光は暗闇にいる全てを照らします。(ルカ1:78~79)

聖書はしばしば神さまを光のイメージで語ります。「万軍の主」という神さまの呼び名は、夜空一面に輝く星と関わっていたのではないかという話を聞いたことがあります。数えきることのできない星の光のイメージが、天の万軍を率いる神さまのイメージと重ねられていたのではないか、というのです。すてきなイメージだと思います。天を埋め尽くす星よりもなお多くの軍勢を率いる神さまの御力です。
神の光は、しかし夜空に輝く星の光だけではなく、朝を告げる曙の光でもあります。「この光は暗闇にいる全てを照らします。」暗闇の中にうずくまり、絶望している者にも神さまの光は届く。朝が来た。希望の光が私たちを照らしている。そのように告げています。しかもこの光は暗闇にうずくまる者を無理矢理引きずり出し、強い光で成敗してしまうような、暴力的なサーチライトのような光ではありません。神の曙の光は、神の「愛と慈しみにあふれ」る光です。私たちはこの光によって救われる。
今週の聖句は「あなたを超えて主は昇り、その栄光はあなたの上に現れる」といっていますが、これもやはり光の聖句です。主の栄光、主ご自身の光が私たちを超えて照らし、私たちは光に包まれている。この光が私たちを救うのです。
日曜日、主の日の朝を迎えました。今日、私たちは神さまの光の中を歩み、光からの光、主イエス・キリストを礼拝します。あなたを照らす光が来た!聖書がそう告げるキリストを仰いで、私たちの一週間が始まります。

2023年1月28日土曜日

2023年1月28日の聖句

ダビデのゴリアトへの言葉:お前は剣、槍、投げやりを持って私に向かってくる。しかし、私はお前に向かって万軍の主の名前によって行く。(サムエル上17:45)
この世と調子を合わせてはいけません。(ローマ12:2)

ゴリアトはペリシテ軍の屈強の戦士、しかも身長2.9メートルもあった大男です。イスラエルがペリシテと戦争をしたとき、ゴリアトは全イスラエル軍の前に現れて一騎打ちを挑みます。しかしそのような大男を前にしてイスラエルの人々は完全に怖じ気づき、戦意喪失してしまいました。
ところがそこに、兵士である兄たちのところへお弁当を届けに来た羊飼いの少年ダビデがやって来ました。ダビデはゴリアトを前に腰が砕けている兄や他の兵士を見て憤慨し、自分がゴリアトを倒すと言います。兄たちはダビデの言葉を聞きつけて、弟に腹を立てました。しかしダビデは引き下がらず、生ける神の戦列に挑戦し、侮辱するゴリアトを自分が倒そうと言います。遂に、ダビデの言葉は王サウルにまで届いた。ダビデは王の前に連れて行かれ、そこで自分があの男と戦うと言います。「あなたの僕は父の羊を飼う者です。ライオンや熊が出て来て、群れの中から羊を奪うこともあります。その時は追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かってくれば、たてばみをつかみ、打ち殺してしまいます。僕はライオンも熊も打ち殺してきました。ですから、あの無割礼のペリシテ人もあの獣のようにしてみせます。生ける神の戦列をあざ笑ったのですから。」それを聞いたサウル王は自分の甲冑を着けて戦えと言いますが、ダビデはただ羊飼いの杖と、河原で拾った五つの石だけを持って立ち向かったのでした。
ダビデは徹底してゴリアトを恐れません。神が自分を守ってくださっていることを確信していたからです。兄も王も他のイスラエルの兵士たちも、皆、口では何と言おうとも本音のところでは神を信じきっていませんでした。しかしダビデは完全に神を信頼していました。だからゴリアトと退治したとき、言ったのです。「私はお前に向かって万軍の主の名によって行く」と。ただ神だけを信頼し、神が共にいてくださることだけを根拠に、ダビデは立ち向かいました。
私たちは、この世と調子を合わせてはいないでしょうか。目に見えない神を信じ、信頼しして生きることよりも、自分の目に映るところや他の人が言っていることや社会の空気を信じてはいないでしょうか。私たちは何を信じ、何を信頼しているのか。御言葉は今日私たちにそのことを問いかけています。

2023年1月27日金曜日

2023年1月27日の聖句

義しい人は小川のほとりに植えられている木のようで、
時が来ると実を結び、
その葉は枯れることがない。(詩編1:3)
パウロの手紙:私はこう祈ります。あなた方の愛が知識とあらゆる体験にあって、ますます豊かになり、イエス・キリストによる義の実りで満たされて、神に栄誉と賛美がもたらされますように。(フィリピ1:9,11)

「あなた方の愛が知識とあらゆる体験にあって、ますます豊かになり」と書かれています。愛の豊かさは、知識とあらゆる体験に深く関わる。そのように言っています。愛は単に好きとか好ましいとか気に入っているという感情の延長にあるのではない。知識や体験が重要な役割を果たしている、ということではないでしょうか。
ここで言う「知識」は、人間に対する深い洞察や相手への姿勢、理解、知りたいという関心、そういったいろいろなことを含んでいるのではないかと思います。愛するというのは、相手の心を想像することです。相手がどのようなことを喜び、どのようなことを悲しみ、何を大切にし、何を欲し、また本当に必要なのか。相手の言葉や態度に隠れた、もしかしたら本人も気付いていない痛みや歴史があるのではないか。そういったことを想像し、相手の喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ。そういう意味での想像力。それが愛の力です。別の言葉で言えば、思いやりです。
「あらゆる体験」とも言われています。ただの体験ではなく、あらゆる体験。私のとても尊敬している牧師が、かつてこのようなことをおっしゃっていました。幼少期から大人になるまで、ずっと苦労してこられた方です。そのことでもって、牧師になろうとしたとき、よく「あなたは苦労してきたからいい牧師になりますね」と言って頂いたそうです。しかしその先生はおっしゃっていました。苦労は時に人の心を固くする。自分の苦労なんて誰にも分からないとか、相手よりも自分の方が苦労してきたとすぐに思い込んでしまう。むしろそれよりも、相手のことを思う心、愛が大事だと考えている。
パウロが言う「あらゆる体験」というのは、やはりここでも相手への想像力を言っているのではないかと思います。自分のあらゆる体験から相手を想像し、また、自分の体験を超えた相手の体験をおもんぱかる。自分の体験に閉じこもるのではなく、そこから更に開かれて、相手の体験への思いを抱く。そこで愛が磨かれるのだと思います。
愛は、神が与えてくださる賜物です。私たちはとても小さくて視野も狭窄ですが、神は私たちに愛を与え、思いやりの人として新しくしてくださる。そのことを信じ、愛する愛をくださいと祈りたいと願います。

2023年1月26日木曜日

2023年1月26日の聖句

あなたは喜びを私の心にくださいます。それは穀物と新しい葡萄酒が豊かにあるときにもまさっています。(詩編4:8)
神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(ローマ14:17)

穀物と新しい葡萄酒。それはどちらも生きるために必要なものです。葡萄酒は今では嗜好品ですが、当時のイスラエルでは生きるための必需品です。日本のように湿潤ではない場所ですし、衛生環境も悪く、ぶどう酒は大切な役割を果たしていました。ですから、穀物が無事に生育し収穫できたとき、そして、ぶどうをワインにして新しい葡萄酒ができあがったとき、それは大きな喜びだったと思います。これで、やっと次の一年を生きることができる。そういう命の喜びです。
しかし、そのような穀物や新しい葡萄酒の喜びに優って、神が下さる喜びを楽しんでいます。「あなたは喜びを私の心にくださいます。それは穀物と新しい葡萄酒が豊かにあるときにもまさっています」。なぜなら「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」だから。飲み食いに優る喜びがここにある、と聖書は私たちに訴えています。
聖霊によって与えられる義と平和と喜び。どうして、義と平和と喜びという三つがここで数えられているのぜでしょうか。「義」というのは、神の義という意味に違いありません。神ご自身が打ち立てられる義、そして、神さまが私たちと結んでくださる正しい関係。聖書はそれを「義」と呼びます。何か抽象的で絶対的な正しさみたいなものがあるというのではなく、「義」は神さまとの関係の中で考えられています。
「平和」もやはり神さまがキリストにあって私たちと和解してくださったこと。そして、神さまが私たちとの間を平和にしてくださったことに基づいて私たちが互いに愛し合うこと。そこに平和が生まれる。従って「平和」も関係の中で考えることです。
そう考えると、最後の「喜び」も、一人で楽しくやってるとか面白がっているということではなくて、神さまとの関わりにおける喜び、神が与えてくださる喜びであり、また神の愛を共に喜ぶ私たち相互の喜び、あるいはキリストがしてくださったように互いに仕え合うときに生まれる喜びです。
すなわち、聖霊が私たちに与えてくださる義と平和と喜びは、どれも関わりの中で考えられることです。神さまとの関わりであり、神様にある隣人との関わり。共に生きる喜びです。それは、穀物にも新しい葡萄酒、つまり自分の飲み食いの安定や安心にまさる喜び。神さまはご自分を信じる者を、格別な喜びへ招いてくださっています。

2023年1月25日水曜日

2023年1月25日の聖句

義は命へと導く。しかし悪を追求することは死へと導く。(箴言11:19)
義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:6)

昔、ボーイスカウトに所属していました。5年生の秋から入団してしばらく経って、小学校6年生か中学校1年生かのころのことです。毎年春と夏に何泊かのキャンプをしていましたが、夏のキャンプのとき、その最終日。テントを片付け、いよいよ帰ろうとバスに向かいました。テントを張った野営場は、確か川の側だったかと思いますが、バスに乗るために急な斜面を登らなければなりませんでした。すごく暑い日でした。何泊分もの重いキャンプ用具を背負って坂を登って、本当に暑くて喉が渇いて仕方がなかった。水筒も空っぽ、喉が渇いても飲むものもない。あの夏の日の喉が渇いて仕方がなかった記憶が、今でも鮮明に残っています。
「義に飢え渇くもの」と言っています。渇くというのはとても辛いことです。喉が焼けるようになって、カサカサで、苦しくて仕方がない。たった一杯の水でもいいから、飲ませてほしい。そうやって飢え渇く、しかも義に飢え渇くものは幸いだ、と主イエスは言われます。水を求めるように義を求める。神さまの義、神さまの義しさ、正義を求める。
思えばこの世界には理不尽なことがたくさんあるし、デタラメな出来事がたくさんあります。神さま、どうしてですかと問わねばならないこともたくさんあります。そんなとき、私たちは渇いているでしょうか。もっと正確に言えば、義に渇いているでしょうか。何か神さまとは別のものでその渇きを満たしたつもりになってはいないでしょうか。
本当に喉が渇ききって焼けてしまったとき、ビールを飲んでその渇きを満たそうとしても、その渇きは本当には癒やされません。お酒は却って脱水を促してしまいます。飲んだ瞬間は潤った気持ちになれても、根本的な渇きの解決にはならない。結局、自分でも知らない内にもっと渇いてしまいます。渇きを満たすためには水が必要です。そして私たちの魂の渇きは、神さまの義以外のものでは満たされないのです。
「義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」義を求め、義に渇くもの。その人たちこそが本当に満ち足りるのだ、と主イエスは言われます。神さまはご自分を求めるものを決して放ってはおかれないのです。義は私たちを命へと導く。主なる神さまこそが、私たちを潤すまことの救いです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...